結局、諒太と京香には話す事ができなかった。
「あ、やっぱりいいや。もっと深刻になったら話すから」
「はあ? 何よ! そこまで言っといて。気になるじゃん!」
京香が学食のテーブルに両手をドンとつき体を乗り出してきた。
「わっ!」「わっ!」
京香の正面に座っていた諒太と僕は思わずのけ反り椅子ごと後ろに倒れそうになる。
胸元の大きく開いた長ティーシャツを着ていた京香の谷間が目に飛び込んできた。諒太と僕はお互いの目を合わせごくりと唾を飲む。
「きょ……京香。お前、そんなにおっぱい大きかったんだ」
諒太が余計な事を口ずさんでしまった。
「はあ? どこ見てんのよ!」
京香は顔を真っ赤にして帰ってしまった。真っ赤な顔と連動するかのように京香の胸元はほんのり桜色に染まっていた。
諒太と僕は再び目と目を合わせた。
「ヒロ、お……お前、知ってた? 京香のおっぱい大きいって」
「いや。知らなかった。デカかったよな」
「うん」
「着痩せ……するタイプみたいだな」
「か……かなりな。しかしいい物見たよな。俺……午後の授業も頑張れる気がしてきた」
「つか、諒太。お前、余計な事言ったんじゃね?」
「それな! 今ものすごく反省してる。でも俺……京香の事……好きになったかも……」
「は?」
「うん」
「まじ?」
「うん。京香っていい女だと思うだろ?」
「ま、まあ。しゃべらなければっていう条件付きならいい女……かも」
高校の三年間、確かに俺たち三人は仲がよかったけれど、そんな素振りは一切見せなかった。
突然の「京香推し」宣言に僕はただただ驚いた。
諒太の目はハート型になっている。顔がゴリラで目がハート。しかもマッチョ。想像するに耐えない構図だけれど、僕は今そんな構図を目の当たりにしている。
ゴリラの幼なじみを持つ人なんて、動物園の飼育係か僕くらいかもしれない。
諒太は皆から愛される。しかしそれは人として愛されているという事である。七月生まれの諒太の彼女いない歴は二十年と十ヶ月。九月生まれの僕は二十年と八ヶ月。僕の記録より、諒太の記録の方が二ヶ月も多い。ある意味僕の勝ちである。
しかしそんな諒太が恋をした。「おっぱいが大きいから」という不純な理由からの恋ではあるけれど、親友の僕には諒太を応援する義務がある。
そういえば諒太の告白は小学生の時から何度も見てきた。小六の時の千代ちゃん。中二の時の菊乃ちゃん。高一の時の百合ちゃん。高三の時の美優ちゃん。その全員が豊満な胸の持ち主だった。
要するに……。
――おっぱいフェチ。
その告白全てでフラれ続けてきた。「諒太君とは友達でいたい」それが定番の断り文句だった。
「告白どうだった?」
僕がそう訊くと、
「まあ、脈有りってとこかな」
そう言って諒太が胸を張る。
けれど数日後、諒太は僕の薄い胸に顔を埋め泣きじゃくる。マッチョ男子がヒョロ男の胸に顔を埋めるのだ。想像するだけで吐いてしまいそうな図である。
授業が終わり僕は寮へと帰っていった。帰り道、バイト先の店長から連絡が入り、急遽明日の夕方から夜にかけてバイトに入ってほしいと言われたのだ。特に予定もなかったのでバイトに入る事にした。
僕は明日の夕飯はいらないと伝える為に寮母さんの部屋のドアを叩いた。しかし返事はない。
「寮母さん。いらっしゃいますか? 寮母さん」
寮母さんの部屋はドアの上が磨りガラスになっている。電気は点いているもののやはり返事は返ってこない。
僕は少し心配になりドアノブに手を掛けた。
――カチャ。
ドアが開く。ドアを十センチほど開き再び「寮母さーん」と声を掛けようとした時、絨毯に横たわる寮母さんの姿が目に飛び込んできた。
「寮母さん! 大丈夫ですか! 寮母さん!」
僕は駆け寄り体を揺らした。すると寮母さんはぱちりと目を開けた。
「あら、眠ってしまったわね。洗濯物をたたんでたら眠くなってきてしまって」
僕はほっと胸を撫で下ろす。
「よかったー。寮母さん、倒れちゃったのかと思って」
「そりゃ絨毯なんかで寝てたらそう思っちゃうわよね。ごめんなさいね。びっくりさせてしまって」
年輪を重ねた顔いっぱいの皺を寄せにこりと微笑んだ。
「いえ。あ、僕、明日の夜急遽バイトを頼まれちゃって。だから明日の夕飯はなくてもいいです」
「はい。了解しましたよ。あら大変。もうこんな時間なのね。食事の支度しなきゃ」
「じゃあ僕、部屋に戻りますね」
寮母さんの部屋へ入ったのは初めてだった。アンティークな家具が印象的な部屋の片隅にお仏壇が置かれていた。そこには二枚の写真が立て掛けられている。
一人はご主人だろう。遠目からだったのではっきりとは見えないけれど、ロマンスグレーの髪の毛に凛々しい顔立ちをしているように思えた。
そしてもう一人はお孫さんだろうか。セーラー服姿の女の子であった。
壁に目を移すと賞状などを入れる額が掛けられている事に気づいた。けれど額の中に飾られているのは賞状ではない。いかにも若い女の子が使うような可愛らしい便箋である。便箋の上には女の子らしい丸文字が並んでいる。おそらく亡くなったお孫さんからもらった大切な手紙なのだろう。
あまり立ち入った事を訊くつもりもない。僕は寮母さんに挨拶をして部屋を出て行った。
部屋に戻り僕は電子ピアノの前に座った。鍵盤蓋を上げ譜面板に五線譜付きのルーズリーフを乗せた。そしてペンケースから2Bの鉛筆と消しゴムを取り出す。
二本入れておいたはずの2Bの鉛筆が一本しかない事に気づいた。そうか、今朝枕元に置いたんだ。少女の記憶を書き留めておく為に。
今日も逢えるのだろうか。少女の事で頭の中がいっぱいになる。ふと五線譜に目をやると、僕は我に返った。作曲しなきゃ。来週のソングライティングの講義までに短い曲を作って提出しなければならない。
鍵盤を叩きながら五線譜の上に音符を並べる。納得いかなくて何度も消してはまた書き込んでいく。
途中、食事と入浴の為に一旦中止したけれど、部屋に戻ってまた始める。気づくと夜の十二時を少し回っていた。
少し空気でも入れ換えようかと窓を開けた。足音の絶えた夜更けの住宅街には深山のような静寂が広がっていた。
僕は甘口の赤ワインをグラスに注ぎ、星を観ながら一杯だけ飲んで眠りに就いた。
――逢えますように。
「あ、やっぱりいいや。もっと深刻になったら話すから」
「はあ? 何よ! そこまで言っといて。気になるじゃん!」
京香が学食のテーブルに両手をドンとつき体を乗り出してきた。
「わっ!」「わっ!」
京香の正面に座っていた諒太と僕は思わずのけ反り椅子ごと後ろに倒れそうになる。
胸元の大きく開いた長ティーシャツを着ていた京香の谷間が目に飛び込んできた。諒太と僕はお互いの目を合わせごくりと唾を飲む。
「きょ……京香。お前、そんなにおっぱい大きかったんだ」
諒太が余計な事を口ずさんでしまった。
「はあ? どこ見てんのよ!」
京香は顔を真っ赤にして帰ってしまった。真っ赤な顔と連動するかのように京香の胸元はほんのり桜色に染まっていた。
諒太と僕は再び目と目を合わせた。
「ヒロ、お……お前、知ってた? 京香のおっぱい大きいって」
「いや。知らなかった。デカかったよな」
「うん」
「着痩せ……するタイプみたいだな」
「か……かなりな。しかしいい物見たよな。俺……午後の授業も頑張れる気がしてきた」
「つか、諒太。お前、余計な事言ったんじゃね?」
「それな! 今ものすごく反省してる。でも俺……京香の事……好きになったかも……」
「は?」
「うん」
「まじ?」
「うん。京香っていい女だと思うだろ?」
「ま、まあ。しゃべらなければっていう条件付きならいい女……かも」
高校の三年間、確かに俺たち三人は仲がよかったけれど、そんな素振りは一切見せなかった。
突然の「京香推し」宣言に僕はただただ驚いた。
諒太の目はハート型になっている。顔がゴリラで目がハート。しかもマッチョ。想像するに耐えない構図だけれど、僕は今そんな構図を目の当たりにしている。
ゴリラの幼なじみを持つ人なんて、動物園の飼育係か僕くらいかもしれない。
諒太は皆から愛される。しかしそれは人として愛されているという事である。七月生まれの諒太の彼女いない歴は二十年と十ヶ月。九月生まれの僕は二十年と八ヶ月。僕の記録より、諒太の記録の方が二ヶ月も多い。ある意味僕の勝ちである。
しかしそんな諒太が恋をした。「おっぱいが大きいから」という不純な理由からの恋ではあるけれど、親友の僕には諒太を応援する義務がある。
そういえば諒太の告白は小学生の時から何度も見てきた。小六の時の千代ちゃん。中二の時の菊乃ちゃん。高一の時の百合ちゃん。高三の時の美優ちゃん。その全員が豊満な胸の持ち主だった。
要するに……。
――おっぱいフェチ。
その告白全てでフラれ続けてきた。「諒太君とは友達でいたい」それが定番の断り文句だった。
「告白どうだった?」
僕がそう訊くと、
「まあ、脈有りってとこかな」
そう言って諒太が胸を張る。
けれど数日後、諒太は僕の薄い胸に顔を埋め泣きじゃくる。マッチョ男子がヒョロ男の胸に顔を埋めるのだ。想像するだけで吐いてしまいそうな図である。
授業が終わり僕は寮へと帰っていった。帰り道、バイト先の店長から連絡が入り、急遽明日の夕方から夜にかけてバイトに入ってほしいと言われたのだ。特に予定もなかったのでバイトに入る事にした。
僕は明日の夕飯はいらないと伝える為に寮母さんの部屋のドアを叩いた。しかし返事はない。
「寮母さん。いらっしゃいますか? 寮母さん」
寮母さんの部屋はドアの上が磨りガラスになっている。電気は点いているもののやはり返事は返ってこない。
僕は少し心配になりドアノブに手を掛けた。
――カチャ。
ドアが開く。ドアを十センチほど開き再び「寮母さーん」と声を掛けようとした時、絨毯に横たわる寮母さんの姿が目に飛び込んできた。
「寮母さん! 大丈夫ですか! 寮母さん!」
僕は駆け寄り体を揺らした。すると寮母さんはぱちりと目を開けた。
「あら、眠ってしまったわね。洗濯物をたたんでたら眠くなってきてしまって」
僕はほっと胸を撫で下ろす。
「よかったー。寮母さん、倒れちゃったのかと思って」
「そりゃ絨毯なんかで寝てたらそう思っちゃうわよね。ごめんなさいね。びっくりさせてしまって」
年輪を重ねた顔いっぱいの皺を寄せにこりと微笑んだ。
「いえ。あ、僕、明日の夜急遽バイトを頼まれちゃって。だから明日の夕飯はなくてもいいです」
「はい。了解しましたよ。あら大変。もうこんな時間なのね。食事の支度しなきゃ」
「じゃあ僕、部屋に戻りますね」
寮母さんの部屋へ入ったのは初めてだった。アンティークな家具が印象的な部屋の片隅にお仏壇が置かれていた。そこには二枚の写真が立て掛けられている。
一人はご主人だろう。遠目からだったのではっきりとは見えないけれど、ロマンスグレーの髪の毛に凛々しい顔立ちをしているように思えた。
そしてもう一人はお孫さんだろうか。セーラー服姿の女の子であった。
壁に目を移すと賞状などを入れる額が掛けられている事に気づいた。けれど額の中に飾られているのは賞状ではない。いかにも若い女の子が使うような可愛らしい便箋である。便箋の上には女の子らしい丸文字が並んでいる。おそらく亡くなったお孫さんからもらった大切な手紙なのだろう。
あまり立ち入った事を訊くつもりもない。僕は寮母さんに挨拶をして部屋を出て行った。
部屋に戻り僕は電子ピアノの前に座った。鍵盤蓋を上げ譜面板に五線譜付きのルーズリーフを乗せた。そしてペンケースから2Bの鉛筆と消しゴムを取り出す。
二本入れておいたはずの2Bの鉛筆が一本しかない事に気づいた。そうか、今朝枕元に置いたんだ。少女の記憶を書き留めておく為に。
今日も逢えるのだろうか。少女の事で頭の中がいっぱいになる。ふと五線譜に目をやると、僕は我に返った。作曲しなきゃ。来週のソングライティングの講義までに短い曲を作って提出しなければならない。
鍵盤を叩きながら五線譜の上に音符を並べる。納得いかなくて何度も消してはまた書き込んでいく。
途中、食事と入浴の為に一旦中止したけれど、部屋に戻ってまた始める。気づくと夜の十二時を少し回っていた。
少し空気でも入れ換えようかと窓を開けた。足音の絶えた夜更けの住宅街には深山のような静寂が広がっていた。
僕は甘口の赤ワインをグラスに注ぎ、星を観ながら一杯だけ飲んで眠りに就いた。
――逢えますように。