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「稲葉。ちょっと顔貸して」


 朝のホームルームも始まる前、教室で篠塚にそう言われた時の俺は、きっと引きつった顔をていただろう。

 なぜなら今日はバレンタインデー。

 女子が男子を呼び出せば、その理由はただ一つとなってしまう日だ。

 その理由とはチョコレートを渡すためで、すなわち愛の告白だ。

 実際がどうであれ、本人及び周囲の人間はそれを予感してしまう。

 篠塚が愛の告白をするために俺を教室から連れ出そうとしているとは思えないから、そう感じるのは周囲の人間のみに限られるわけだけど。


「ヒューヒュー」


 案の定、口笛の吹けない水無瀬が、口笛の音を声で真似してまで冷やかしてくる。

 朝練を終えた水無瀬が教室に戻ってきているのにも関わらず、青山の姿は教室になかった。

 きっと、朝練を応援しに来た女の子たちにつかまっているのだろう。

 今ここに、青山がいないことが俺にとって幸運なのか不幸なのか、よくわからない。