二〇一九年――春。

 三年生からはキャンパスが変わる為、引っ越しをしなければならない。大学二年生までの単位を順調に習得した僕は、四月から住む為のアパートを探している。

 アパートを探しながら街をぶらぶらしていると、とある不動産屋のガラスに間取り図の図面が所狭しと貼り付けてあった。僕は立ち止まり右上の図面から順番に眺めていった。

 ――敷金0・礼金0。
 ――食事付き、家具付き、日記付き。
 ――音大生に限る。

 そんな誘い文句で音大生の入居者を募集している寮の広告が不動産会社の窓に貼ってあったのだ。僕は引き込まれるようにその会社の自動ドアをくぐった。

「日記付き?」

 不動産会社の人に思わずそう訊いてみたものの、的を得た返事は返ってこなかい。

 食事付きで防音、しかも家賃が安い。ここならコンビニのまずい弁当を毎日買って帰らなくても済みそうだ。二年間のボロアパート暮らしにうんざりしていた僕はこの物件に飛び付いた。
 なんとしてもこの「空音寮」に入りたかった。なので「日記付き」の真相については深く訊く事もしなかった。

「この寮がご希望なんですね。じゃあこの入居条件にお客さんが当てはまるなら面接の手配を大家さんに依頼しますよ。ここに書いてある入居条件をお読みになって下さい」

【入居条件】
 二年契約。音大生。男子。そこそこ男前、もしくは男前。
 この条件さえ揃えば保証人不要。但し大家さんの面接が必要。

 なんだこれ? 
 男前って、イケメンって事だよな。そこ、必要なのか? 自分が客観的に見て男前なのかどうかはわからない。けれどこの条件の良い寮、絶対入りたい。
 僕は面接を申し込んだ。そして面接の翌日、不動産会社のおじさんから電話がきた。

「面接の結果なんですが……」
 緊張でごくりと唾を飲む。

「あ、はい」
「採用となりましたので四月一日からご利用いただけます」
「あ、ありがとうございます」

 なんだかよくわからない内に採用が決まってしまった。いや、待て。採用って何なんだ。まあ、そんな事はどうでもいい。
 四月からは防音の寮で楽器の練習も思う存分できる。コンビニのお弁当も買わなくて済む。僕は心弾ませながら空音寮へと引っ越していった。

 けれどこの寮に住むようになってからというもの……。見る夢が――変なのだ。

 毎日のように同じ少女が夢にでてくる。

 ある日、ふと備え付けの本棚に目をやると僕の物ではない本が立て掛けてあった。
 ハリーポッターの中に出てきそうな古くて西洋風の本である。少し溜まった埃《ほこり》を叩きながら手にとってみる。

『Diary』

 表紙にはそう書いてある。

 ――食事付き、家具付き、日記付き。

 これがその日記なのだろうか。ペラペラとめくってみるものの日記の中には何も書かれていなかった。
「なんなんだ、この日記は」

 入寮して約一ヶ月。少しの気味悪さを感じていたけれど、僕は大型連休を家族と一緒に過ごす為、空音を後にした。

 ゴールデンウィークを直前に控えているものの朝晩は冷え込んでいる。つい数日前までは春の暖かな陽射しが降り注いでいたというのに。
 桜が散ってしまった今、「花冷え」という言葉がふさわしいのかはわからない。けれどそれに値する冷え込みである。
 僕はお正月以来、四ヶ月ぶりに実家へ帰ってきた。

「ただいまあ」

 アルトサックスを持ち運ぶシャイニーケースを持ちながら僕は実家の玄関を開ける。

「お兄ちゃん、お帰りー! ちょっと痩せたんじゃない? ご飯はちゃんと食べてるの? お部屋のお掃除はちゃんとしてるの? 朝はちゃんと起きてるの? バイト先で嫌な先輩とかいない? 彼女はできたの? なんかあったらちゃんと相談してよね」

 どうやら僕には母さんが二人いるようだ。玄関を開けるなり、妹の結菜がそんなふうにまくし立ててきた。相変わらず口うるさい妹である。

 五つ目の質問までは良しとして、最後のの質問に関してはほっといて欲しいものだ。

「大丈夫だよ。体重は変わってないし、寮母さんのご飯も美味しいから毎日おかわりして食べてるし。毎日コロコロかけて掃除もしてる。バイトも楽しいよ。つか、一気に質問すんなよな」
「そう。ならいいけど。あれ? あと一つ質問しなかったっけ?|

 妹も一気に質問したので、自分が何を質問したのか覚えてないらしい。
 よし! そのまま思い出すな。

「それより結菜は今年も『集団行動』のメンバーに選ばれたのか?」
「うーん。あれちょー疲れるんだよね。でも頑張るよ」
「そか。まあ無理しないで頑張れよ。ところで父さんは?」
「お風呂」
「あ、そ。母さんは?」
「お風呂」
「まだ、一緒にお風呂入ってんの? 仲良しだね、全く」
「仲の悪い両親よりいいじゃん」
「まあ、そうだけど……」

 僕たち兄妹はそこそこ幸せなのだろう。両親も仲が良く、僕たち兄妹も仲が良い――ちょっと口うるさい妹ではあるけれど。
 三年程前まではこういう状況を――リア充――と呼んでいた。けれど今では『死語』の一つである。

 妹の結菜は僕と双子であるにも関わらず、僕とは全く違いスポーツ万能なのだ。おそらく父の血が強いのだろう。それに比べて僕は全くのスポーツ音痴だった。

 しかし神様は公平な人なのだろう。
 僕は母の血が濃かったようで音楽と勉強には長たけていた。

 結菜は日本体育大学へ進み、『集団行動』なる部活なのかサークルなのか分からない集団に属しているようだ。一日に数十キロ体育館の中をひたすら歩き続けているらしい。
 何はともあれ、最後の質問を思い出す事なく結菜は自分の部屋へと帰って行ってくれた。

「ふぅ」

 ため息のようにも聞こえる安堵の声を漏らし、二年前まで自分の部屋であった六畳の洋室に入った。そしてクローゼットから引っ張り出した布団を部屋の中央に敷いた。

 ここ二年間、大型連休の時しか使っていなかった布団であるにも関わらず、それはふかふかであった。おそらく母さんが干していてくれてたんだろう――僕がいつ帰ってきてもいいように。

「母さん、ありがとう」

 そう呟いた途端、お腹が減っている事に気がついた。気づいたというより、気づかされたという方が正解かもしれない。僕のお腹がキュルリと音を立てたのだ。

 リビングに戻ると母さんがバスタオルで頭を拭いていた。
 父さんも頭を拭いているけれど、四十半ばにして拭く程の髪の毛は残っていない。ぼくも父のようになってしまうのだろうか。確かお爺ちゃんは父方も母方もふさふさだった。こればかりは隔世遺伝を強く望みたいものである。

「母さん、お腹減った」

 やっと僕の存在に気づいた母からデジャブのような台詞が僕に投げ掛けられた。

「お帰りなさい。ねえ! あなた、ちょっと痩せたんじゃない? ご飯はちゃんと食べてるの? お部屋のお掃除はちゃんとしてるの? 朝はちゃんと起きてるの? バイト先で嫌な先輩とかいない? 彼女はできたの? なんかあったらちゃんと相談しなさいよ」

 二人目の母が僕に話しかけた。まあ、こっちが本当の母なのだけれど……。
 なんだかおかしくてクククと笑みをこぼした。やっぱり僕には母さんが二人いたのだ。

「なにニヤニヤ笑ってんのよ。感じ悪いわね」
「なんでもないよ。そういえばこの前友達と中華屋さんに行ったんだけどさ、そこの餃子のお肉がベチョベチョでさあ。皮も全然パリッとしてなくて美味しくなかったんだよね。母さんの餃子が食べたいな」

 母は「もう! 面倒くさいわね!」とプリプリ怒りながら美味しい餃子を作ってくれたのだ。
 久々に食べる母の餃子は美味しかった。

「うんめっ!」

 そう言いながら餃子を食べていると、母は幸せそうに目を細めて僕を見ていた。