キミが泣くまで、そばにいる




「はち、なな」

「……わかった」

「ろく、ごー」

「!? わかったってば!」

「よん」

「え!? 待って! わかったって言ってるのに」

「にー、いち」
 

止まらないカウントダウンに焦って両手を振り回す。


「ちょっと、まっ、ちょおお」


アカツキは笑顔のまま「ゼロ」を唱えた。

それから、


「――いち、にー、さん」とふたたび数をかぞえだす。


「ふふふ増えたァァァ」
 

衝撃を受けていると、目の前で整った顔が「ぶはっ」と吹き出した。


「あはははその反応! やっぱ知紗おもしれー」

「ちょ……」
 

声を失う私に、アカツキは教室のときのように無邪気に笑う。


「ごめんごめん、ちょっとふざけてみた」

「な……なんですとぉ……」
 

私は脱力してその場に崩れ落ちた。
 



ふざけてみた、じゃないんですけど……!
 

こっちはもうアップされちゃうんじゃないかって、生きた心地がしなかったのに。


「でもまあ、これで交渉成立だな。今後、俺の言うことは最優先事項として扱ってくれる?」

「交渉……?」
 

脅迫の間違いじゃないでしょうか。
 
不満が顔に出たのか、アカツキの顔に真っ黒な笑みが浮かんだ。


「あれ? 黙ってて欲しいんだよね? センセーとのこと」
 

端正な顔いっぱいに広がった恐ろしい微笑みに、私は成すすべもなくひれ伏す。


「お願いします。お黙りください」
 

ぽかんとするアカツキを見て、私ははっとした。 

あれ、なんだかニュアンスが違う。
『黙っててください』を丁寧に言おうとしたのに!

慌てて続ける。


「お黙りいただきたい!」

「ふくっ……」
 

アカツキは口元に手を当てて奇妙な声を漏らした。
 
あれ? 敬語って難しい!

いっぱいいっぱいになった私は、自販機の前で土下座したまま叫んだ。


「おおお、お黙りなさい!」

「ぶはっ」
 



それから数分にわたり、あたりには奇怪な笑い声が響いた。
 
身体を折り曲げて、アカツキはずっと肩を震わせている。


「あの……大丈夫?」


笑い声が途切れたあとも「ひひひひ」と怪しげな声を漏らしていて心配していると、


「あー腹痛い」
 

アカツキはくの字に曲げていた身体をすっと伸ばした。


「やー知紗、最高だわ」
 

口元に笑いを残しながら、座り込んでいる私から小銭を受け取って自販機のボタンを押していく。


「楽しい高校生活になりそうだよ」
 

振り返った彼がにやりと笑って、ぞっとした。
 
私はこれから、いったいどんな無理難題を押し付けられるんだろう……。


「んじゃ、せいぜいよろしく頼むな、小間使いちゃん」
 

アカツキは握手でもするみたいに私へ右手を差し出した。

その手の中にはピンク色の缶。




「ピーチティー……?」
 

誰にも頼まれていない飲み物を前に、ぽかんとしていると、彼はくしゃっと表情を崩した。


「知紗のぶん」

「……えっ!?」

「ちょうどひとりぶん、金が余るし」
 

私は桃のイラストがあしらわれた缶を、おそるおそる受け取った。


「あり……がとう」
 

ピーチティー、大好きなんですけど。
 
ピンポイントで私の好きな飲み物を選ぶって……天才?
 

思いがけず胸がじんとした。
 
これからこき使われるというのに、こんな些細な優しさにほだされるなんて、私って単純……。 
 


人の弱みにつけこんで脅すなんて最低の行為なのに、アカツキの笑顔を見ていると肩から力が抜けていく気がした。

警戒して体を緊張させている自分が、なんだかバカみたいに思えてくる。


「戻ろ、知紗」

「う、うん……」


ジュースの缶を3つずつ抱えて、先を行く微笑み王子の細長い背中に続く。

空からまっすぐ注ぐ太陽が、彼のアッシュブラウンの髪を絹糸のように白く輝かせた。






・・・


そしてアカツキとふたりでベンチに戻ったあと、中庭には、


「おしるこぉぉ」


というトワくんの叫びが響き渡ったのでした。




*.:・.。**.:・.。**.:・.。*


 私が通う朝比奈高校は、県内ではちょっとした進学校だ。

 中学3年の時点で全国平均を下回っていた私が合格を勝ち取るには、それはそれは大変な努力が必要だった。

 そしてぎりぎりでこの学校に滑り込んだ結果、日々難しくなる授業についていくのが精一杯です。

「レミ、今日の数学のノート、写させてぇ」

「あー、さっき別クラスの友達に貸しちゃった。戻ってきてからでもいい?」

 ざわざわと賑わう昼休みの教室で、レミはお弁当の包みを開く。

「ちーちゃん、数学の時間、寝てたの?」

「起きてたよぉ。でも先生の板書に追いつけなくて」

「あー多田セン、消すの早いもんね。うちのクラスも佐久田センセーがよかったなぁ」

 レミの言葉にドキッとした。


 1学年の数学は、私たち3組を含めた1組から4組までを、お腹がぽっこりと突き出た40代の多田先生が、5組から8組を24歳の佐久田先生が教えている。

「佐久田センセーの授業ってすっごくわかりやすいんだって。おまけに優しいし」

「そ……そうなんだァ」

 しらじらと相づちを打ちながら、メガネの少し気弱そうな顔を思い出した。

 学校で先生の授業を受けたことはないけど、教え方がうまいことは身をもって知っていた。公式の独自の覚え方をアドバイスしてくれたり、分からないところは分かるまで根気強く説明してくれたり。


 ――約束だよ?

 頭の中に、先生の困ったようないつもの微笑みが浮かんだとき、

「知紗―!」

 窓際から声が放たれて、私は反射的に席を立った。

「はいぃ!」

 席に横向きに座って長い足を組んでいる微笑み王子は、満面の笑みで私にプリントを差し出す。

「これ、職員室に持ってって」

「はい!」

「それと今日の帰り。いつもんとこ寄るから、荷物持ちよろしく」


「は、はいぃ」

 アカツキは満足そうにうなずくと、派手系の女子たちに囲まれながら教室を出て行った。

 笑顔で命令する微笑み王子と、一声で飛んでいく私。


 ご主人さまと犬。

 ここ一週間ですっかり当たり前になった光景を、クラスメイトたちはそう呼んでいる。

「今日も王子のお使いかよ、忠犬ちさ公」

 誰が言い出したか、そんなあだ名まで浸透しつつある。

「ちさ公、ついでに俺のジュース買ってきてよ」

 軽口を叩いてきた男子に、私は番犬よろしく歯をむき出して見せた。眉間を寄せ、金髪セイにバカにされた低い鼻の頭に皺を刻めば、世紀末の形相のできあがり。

「ぐるるる」

 唸り声をあげると、男子は青い顔であとずさる。

「真辺お前……本当に女子かよ……」

 不安げな顔でささやきあう彼らに、

「わん!」

 と全力で吠えてから、私は頼まれごとを思い出し、大急ぎで職員室に向かった。




 教室に戻ってくると、先にお弁当を食べ始めていたレミが「おつかれさまー」と微笑んでくれた。

 少女漫画で言えば背景に満開の花をあしらってあるような美少女の微笑みだ。アカツキによる理不尽な扱いでねじれた心が、ゆるっと元に戻る瞬間だった。

「ちーちゃん、クラスの男子がドン引きだったよ」

 レミが楽しそうにスマホを向けてくる。画面には世紀末の形相を浮かべた私と、あとずさる男子の姿が激写されていて、私は飲みかけのお茶を吹き出した。

「わああ、何撮ってんの!?」

「だって面白そうだったから」

 にこにこと無邪気に笑うレミが、どことなくアカツキとだぶって、頬がひきつる。

 顔面が可愛いうえに、微笑みながらえげつないことをするって……。まんまアカツキじゃないの。

「それ……ネットにアップしたりしないよね……?」

 念のために尋ねると、レミは顔色を変えた。

「そんないじめみたいなことしないよー!」

 心外だとばかりに語気を荒げる友人に、私は首を縮める。



「だ、だよね。ごめん変なこと聞いて」

「レミの秘蔵コレクションに加えるだけだから、安心して?」

「……秘蔵コレクション?」

「うん、これ♡」

 レミのスマホには、『ちーちゃん』と名付けられた不吉なアルバムフォルダが作られていて……。

「な、なんですかこれはぁぁ」

 そこには驚くべき画像が大量に並んでいた。

 授業中によだれを垂らしながら居眠りしている私だったり、ごはんを口に詰め込みすぎてむせている私だったり、ジュースをこぼして慌てている私だったり……。

 目を覆いたくなるほどの恥ずかしい姿に、すかさず画面をタップする。

「さ、削除ぉぉ!」

「わーやめてやめて! レミの宝物なんだから!」

「たから……もの?」

 レミの叫びに耳を疑った。彼女はスマホをひったくり、訴えるように私を見る。

「そうだよー。ちーちゃん楽しいもん。落ち込んだときとか、この写真見てるだけで元気がこみ上げふふふふ」

「こみ上げてんの元気じゃなくない? 笑いが込み上げてない?」