キミが泣くまで、そばにいる



 絶句だ。

 なんてことだ。
 せっかく弱みを握ったと思ったのに……!

 ひとしきり笑ったアカツキが、目に浮かんだ涙を拭いながら私を見上げた。

 ぎくりと身体がこわばる。


「――で、どうしてほしいって?」


 王子の満面の笑みに、背筋がぞっとする。

「あ、う、わ」

 声にならない声を出していると、アカツキがぽつりと言った。


「知紗、イチゴミルクが飲みたいんだけど?」


「は、はいぃぃ!」


 王子の微笑みに、私は全力で中庭の自動販売機に走ったのだった。




*.:・.。**.:・.。**.:・.。*




▽・x・▽ ≪2!!





 * * *


 6月。
 春と夏のあいだの、やけに生暖かく、湿った季節。

 わが校ではこの時季に体育祭なるスポーツイベントが催される。中間テストが終わった、このタイミングに。

 あんぐりと開けた口から、お茶があふれてTシャツを濡らす。もう少しで手に持ったペットボトルを落とすところだった。

 廊下に張り出された模造紙には、中間テストで上位を飾った生徒たちの名前が載っている。

「500点満点中、490点……?」

 薄暗い廊下に、グラウンドの歓声が響いてくる。呆然と壁を見上げていると、後ろで扉が開いた。

「ちーちゃん、お待たせー。あれ、なに見てるの?」

 ハンカチで手を拭きながら、レミが私の目線を追う。

「ああ、中間の結果かぁ。微笑み王子すごいよねー」

 にこにこと笑うレミの肩を、ガッと掴む。

「490点て、全教科で4、5問くらいしか間違えなかったってこと?」



 そんなことありえるの!?

 ぞっとするほど難しかった問題を思い出しながら、細い肩を前後に揺さぶる。

「ち、ちーちゃん、落ち着いて」

 私は1年の欄に掲載されている名前をもう一度見た。

 2位、井端暁(3組) 490点

 順位表は何日か前から張り出されていたけれど、興味も関係もないからこれまで素通りしていた。

 今、目に入ったのもたまたまだ。レミを待っているあいだ、廊下でお茶を飲もうと顔を上げた瞬間、張り出されていたその名前に気が付いた。

「アカツキが、2位なんて……」

「ちーちゃん、ちーちゃん、ここも見て」

 脇でレミがウサギみたいにぴょんぴょん飛び跳ねる。言われるまま視線を動かして、私は固まった。

 10位、北條玲美(3組) 443点

「じゅじゅじゅ、10位!?」

「えっへーん」 

 薄い胸を得意げに反らすレミを、信じられない気持ちで見つめる。



 外見がよくて、無邪気に笑いながらえげつないことをして、そのうえ頭までいいって……。

「どこまでアカツキとかぶるんですか、あなた……」

「まあまあ、そんなに気を落とさないで」

 私が成績のことで落ち込んでいると思ったのか、レミの口調は優しい。

「ちーちゃん、数学だけはびっくりするくらい良かったんでしょ?」

 そうなのだ。ほかの科目はことごとく平均点以下なのに、数学だけ驚きの80点台をマークした。
 ファストフードでアカツキに教えてもらったところが出たからだ。

 ひとりで黙々と勉強していた微笑み王子の姿を思い出す。

 よく考えてみると不思議だ。
 あんなに完璧な王子が、なぜ私なんかをわざわざ小間使いにしているのか。

 脅されてるといっても、言いつけられるのは単なる雑用ばかりで、たいしたことはない。



 私なんかを脅して従えなくても、アカツキのために動き回りたい女子なら、その辺に掃いて捨てるほどいそうなのに。

「そろそろ戻らないと。ちーちゃん、もうすぐ出番――」

「真辺さん」


 聞こえた声に、身体が反応する。

 振り返ると、メガネを掛けた先生が立っていた。いつもの白衣ではなく、ジャージ姿が新鮮だ。

「あー佐久田先生だ!」

 レミの声に、一時的に上昇していた感情が、すっと落ち着いていく。呼吸を整えて、私は浮つきかけた気持ちを引き締める。

「先生、今日は休みじゃないんですか?」

 非常勤講師はクラスを受け持っていないから、体育祭なんかの学校イベントには参加しないことが多いって言ってなかったっけ。

先生の言葉を思い出しながら、レミに不審がられない程度の距離感とそっけなさで訊くと、先生はふっと目を緩めた。



「ああ、教頭先生に手伝いを頼まれたんだ」

 穏やかな表情に気持ちが緩んで、うっかりレミの存在を忘れそうになる。

 ふたりのあいだにほかの誰かがいても、先生の態度は変わらない。いつだって優しい。

「真辺さん、リレーの選手なんだって?」

 苗字で呼ばれることに違和感を覚えながら「はい」と返事をすると、先生はよりいっそう目じりの皺を深くする。

「頑張れ。応援してる」

 レミにも優しい笑みを残して、先生は廊下を去っていった。

 小柄なジャージの背中を見送りながら、レミがぽつりとつぶやく。

「ちーちゃん、佐久田先生と知り合いだったの?」

「うん、ちょっと」

 レミが続けて口を開く前に、外の歓声に混じって、集合のアナウンスが聞こえた。







 佐久田先生は、私の家庭教師だった。

 中学のときに女子バスケ部に所属していた私は、めいっぱい部活に力を注ぎ、部活を引退した時点での成績はとにかくひどいもので。

 塾に行かされてもまったくついていけず、担任も匙を投げるくらいだった。

 行ける高校ならどこでもいいよな、と私本人よりも志が低かった担任に失望したのは、うちの母親だ。

 知紗には進学校に行ってもらうんだから、と近所のおばさんネットワークを駆使して、高校の非常勤講師であり、アルバイト先を探していた佐久田先生に家庭教師に来てもらうことになったのだ。


『はじめまして、佐久田圭です』

 玄関先でそう挨拶した先生のことを、今でも覚えている。

 小柄で、瞳がつぶらで、気の強いうちの母親の前に、所在無さそうに立っていた先生。

 まるでライオンに睨まれたミーアキャットみたいだと思った。
 そこには、塾講師みたいにギラギラした目つきも、担任みたいに諦めた暗い目もなかった。

 家庭教師なんて面倒くさくて、当日まで嫌でたまらなかったのに、先生を一目見ただけで、あっさり気持ちが変わった。



 私はとても出来の悪い生徒だったに違いない。

 理解力はないし、集中力は続かないし、話は脱線させるし。

 でも先生は根気よく私の勉強をみてくれた。
 学ぶことの楽しさを、丁寧に教えてくれた。

 優しくて、物知りで、笑顔が可愛い先生。好きになるのに、時間はかからなかった。


『私、先生のいる学校に行きたい』

 朝比奈高校は、県内ではちょっとした進学校だ。
 担任も、両親ですら、「さすがにそれは無理でしょう」と本気にしてくれなかった。

 そんななか、佐久田先生だけが応援してくれた。

『うん。頑張れ。知紗ならできる』

 小さな目を眼鏡の奥で優しく細めて、先生は言ってくれた。

『合格したら、ご褒美あげるよ。なにがいい?』

『本当?』

 私は勉強なんか大嫌いだ。

 でも、先生が教えてくれたから、私を信じてくれたから……。