この間は相手のテレビ局が一歩も引かない状況で焦った。出演料がどんどん高くなっていって、最後はサラリーマンの給料数か月分くらいにはなっていて。さすがにここまで高いのは初めてだったため、会議中である先生に緊急で電話をかけた。
『どうした?』
『あの、テレビの出演依頼のことなんですけど…』
『断っておけと言ったはずだ』
『はい、でも出演料が尋常じゃなく高くって、』
『断れ』
プツッという機械音が耳の奥で響いた。
もし私だったらなら、そんな大金積まれたら首を縦に振るしかないと思うのだが。
この人はやはり変わっている。
そんなかっこいい先生のお陰で、辛い目にも遭ったことがある。
週刊誌に変な記事を載せられたり、ワイドショーに追跡されたり。
私はただの助手だと言っても、この有様だ。
数か月前、あまりに困って仕事を辞めようかと考えていた私に、先生はこんなことを言った。
「給料を上げるから、このマンションに引っ越すといい」
彼が持ってきた不動産の紙を見て一瞬声が出なかったのを覚えている。
20代独身の一人暮らしには不釣合いな高級マンション。
必死の抗議も虚しく、その週末には荷物をまとめることになってしまった。
(なんだかんだ言っても、優しいんだよね)
セキュリティ万全のそのマンションに住みながら、私はよく先生のことを考えるようになっていた。
少し目を細めて書類を見つめる姿も、時折邪魔そうに髪をかき上げる仕草も、凄く絵になると思う。
先生が研究室にいる時はこっそり盗み見しているのだが、幸いまだ気付かれていないようだ。
彼は毎日研究室にいるか、会議をするか、学会に行くことが多い。
私が出勤してくるといつもそのどれかだ。
(いつ寝てるんだろう…)
彼もまた、ロボットなのだろうかと思うと思わず笑みがこぼれてしまった。
慌てて口を押さえる私と、先生が口を開くのがほぼ同時だった。
「行くぞ」
そう言って立ち上がったのだ。
「えっ」
私は慌てて彼の白衣の袖を引っ張った。壇上にはまだ発表者がいて、一生懸命熱弁していたのだから。
その発表者を一度見やり、再び私の方を見た彼は一言こう言った。
「思ったより退屈だ」
自分は発表しておいて、他人の発表を聞かないというのはマナー違反なのではないだろうか。
そう思いながら先生の後ろを歩いていたら、急に振り返った。
「随分難しい顔をしているな」
「へ?」
非常に間抜けな声が出てしまい、恥ずかしい思いをした。
そんな私を見ながら珍しく小さく笑うと淡々と放った。
「俺はここに来たくて来たわけではないから」
そしてまた前を向いて歩き出す。
私は何も言わず、ただ彼の後ろをついていった。
この日大学は学会の関係者しか入れないことになっていたため、学生の姿は見えなかった。
この辺りは休憩所なのだろうか、緑の木々とベンチが置いてある場所が目に入る。
(うわあ、こういう場所で読書したら気持ちいいだろうなあ)
頭の片隅で、部屋の本棚に読みかけの本があったことを思い出しながら、私は大きく息を吸った。
新緑の季節は人間に活力を与えることを実感しながら。
--ぼすっ。
「ひゃ」
ぶつけた鼻を押さえて立ち止まると、目の前に真っ白が広がった。
「あの…どうかしたんですか?」
ほぼ白である視界を見つめながら、私はその白衣に問いかけた。
「少し、座ろう」
言葉を理解したときには、既に先生がベンチの方に向かって歩き出していたため、私は従わざるを得なかった。
(珍しい日もあるもんだ)
彼の隣に腰掛けた私は、ただぼんやりと目の前の緑を見ていた。
最近はマンションか研究室だから、こういう場所は貴重な目の保養になる。
ちらっと隣を見たら、先生は目を閉じて何か考え事をしているようだった。
(そりゃ疲れてるよね)
そう言えば、彼が休息を取っているところを見たことはほとんどない。
私が淹れたお茶もいつの間にかなくなっているし。一体いつ飲んでいるのだろうか。
この人は本当に不思議な人だと改めて思っていると、先生が口を開いた。
「君は…あの学会をどう思った?」
彼は目を閉じたまま、静かに呟いた。
「え…と、ロボット…」
「え?」
「ロボットが沢山いるみたいだなあって」
彼が目を見開いた。
そして。
見たことも無いくらい顔をくしゃくしゃにして笑ったのだった。
あの氷のような上月センセイがこんな顔をするなんて、私は知らなかった。
「君はいつも、俺に風をくれる」
「風、ですか」
ああまたわけがわからないことを言っている。
それでもその目が自分だけに向けられていることが嬉しいだなんて、思ってはいけないだろうか。
「見たこともない異国の、風だ」
「しかも異国…」
嬉しそうに話す彼を見ていたら、私までおかしくなってしまいそうだ。
しかしその直後の彼の言葉で、私は我に返った。
「織田信長の気持ちが少し分かった気がする」
「…なっ」
何故それを!と言わんばかりに真っ赤になった私は、彼にどう映ったのだろう。
何を隠そう、私は織田信長が大好きなのだ。
彼に関わる伝記や小説を手当たり次第読んでいる私だったが、まさか彼に知られているとは…。
鯉のように口をパクパクさせている私をさも珍しそうに見ていた彼だったが、ふと元の真面目な表情になった。
「先生っ!」
「…何だ」
私が慌てているのは、彼の腕の中に閉じ込められているからである。
何故に、この状況。さっきまでは隣に座っていただけだったはずなのに。
その時私はハッとした。
私たちは学会を途中で抜けてきていたのである。
「ちょっとっ!まずいですって」
「どうして」
必死の反抗虚しく、彼は思いっきり私を"抱きしめて"いる。
この状況もかなり恥ずかしいが、私はとあるひとつのことが頭から離れなかった。
―先生が学会をサボっているという紛れもない事実。
「だっ誰かに見られたら」
しかもサボった挙句に女と抱き合っていたなんて知られたら…。
私だけじゃない。貴方のクビも飛ぶ。
そう言いかけた私に、信じられない言葉が降りかかってきた。
「私の気が触れたことにしておけ」
「はっ!?」
「どうせ普段から変人扱いだ。これくらいのことでは問題にはならない」
(…なると思う!)
そう言いたかったが、彼の言葉が私の耳元で囁かれたため、私の戦闘能力は見事に消えうせてしまった。
どうやら異国の温かい風は、永久凍土まで溶かしてしまったらしい。
【終わり】