彼女はしっかりとした足取りで、コンクリートの道を歩いて行く。
紺色のダッフルコート。
出会ったときよりも髪が伸びた。
ストレートの髪を両肩にたらして、背中のフードの上に、彼女の首がちらりと見える。
道の脇には吹き寄せられた枯れ葉が集まる。
時々冷たい風にのって、その枯れ葉が舞い上がる。
すべてを計画した通りにできた。
最後、一人きりになるところまで、全部。
もし相手が別れることを拒んだら、不誠実な対応をすればいい。
これまでもそうやって、たくさんの女性たちを捨てて来たのだから。
彼女の背中がどんどん小さくなっていくのが見えた。
ポケットに冷たくなった手を入れ、握りしめる。
でも彼女はそんなことをせずとも、自分から離れていった。
考えていることはすべて分かっているというように。
責めず、
怒らず、
静かに、
笑顔で、離れて行った。
計画通りなんだから、安心すればいい。
むしろ予想以上にすんなり進んだことを、喜べばいいじゃないか。
でも、彼女の後ろ姿から目が離せない。
最後に握った、彼女の手の平の温度。
晴れやかな笑顔。
別れのキスは冗談じゃなかったけど、でもしないほうが良かったんだろう。
彼女がコンビニの前をすぎ、大通りの方へと曲がる。
終わりなんだ、これで。
ふと、彼女の影が消えるその一瞬前、手のひらで頬を拭うのが見えた気がした。
泣いてる?
思わず歩き出した。
迷いながら、でも歩き出した。
そのうち走り出す。
迷いながら、
でも走って、
彼女が消えた角に向かった。
すべてが彼女にばれてしまったとき。
何もあんな約束なんかしなくても、彼女を引き止めることはできたのに。
それはわかっていたのに、思わず口に出していた。
「これから一生、君一人でいい」
あの瞬間、本当にそう思った。
冷たい空気が、身体の中にはいってくる。
渇いた風が、頬に痛い。
走って角を曲がると、彼女の紺色の背中が視界に入る。
とっさに手を伸ばして、彼女の腕を引っ張った。
彼女が振り向く。
頬が濡れていて、瞳が真っ赤になっている。
彼女が驚いて目を開いた。
「泣くぐらいなら、なんで離れようとするんだ?」
大きな声を出した。
本当に驚いている様子で、身動き一つ、呼吸一つしていない。
「このままでいいじゃないか!」
腕をつかむ手に力が入った。
彼女は一度大きく息を吸い込むと
「義務や責任感でわたしと一緒にいてほしくありません。罪悪感を感じながら、わたしに微笑むなんてことも駄目です」
と言った。
「どうしてそんな風に思うんだよ。確かに隠してたことはあった。でも奈々子さんには本当のことしかしゃべってない」
彼女は動かない。
濡れた目を見開き、顔を見続ける。
それから堪えていた涙が再び流れ出した。
「……してはいけないことだと思っても、拓海さんとわたしのどちらを愛しているのか、考えてしまうから。笑顔が、言葉が、本物なのかどうか、いつも疑ってしまう。そんな……苦しいこと……」
彼女は腕を振りほどき、口元を両手で覆って、声を出して泣き出した。
自分の身体から力が抜ける。
このまま地面に座り込んでしまいたいけれど、ビルの壁面に手をついて、なんとか身体を支えた。
愛とはなんだろう。
よくわからない。
拓海のことは愛していた。
あいつがいない世界は考えられなかったし、あいつが自分の中から消えることはない。
あいつの幸せのためには、なんだってできると思った。
じゃあ、目の前で泣いている彼女はどうだろう。
一緒にいると彼女は幸せになれないと言ってる。
彼女の幸せのために、手を離すことができるのか?
「本当に終わりにするしかないんだな……」
溜息のような言葉が出た。
彼女はうつむいて、
それから「ごめんなさい」と言った。
力が出ない。
彼女は背を向けて、再び歩き出す。
その背中を目で追う気力もない。
壁にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。
コンクリートが背中に冷たい。
たてた膝の上に腕を置き、ぼんやりと正面をみつめた。
彼女を愛しているのか、そんなことわからない。
失いたくない。
それだけ。
拓海を思うのとはまったく違う。
どんなことをしても、彼女を失いたくなかった。
ふと気配を感じて顔をあげた。
彼女がいる。
側に膝まづく。
心配そうに見つめる。
「あの……」
彼女が何かを言いかける。
無意識に彼女の頬に手をふれた。
「自分のために生きていいんだよね」
彼女は黙ってみつめる。
「失いたくない。僕の人生には君が必要だ」
彼女の頬は暖かい。
「僕を幸せにして」
彼女が僕の顔を見つめる。
それから小さく微笑んだ。
たったそれだけのことが、こんなにも心を満たす。
彼女を引き寄せて、胸に抱いた。
彼女は僕の特別な人。
【完】