夜の九時。


どうやってあれから時間を過ごしたのか、はっきりした記憶はない。
なんとなく街を歩き、コーヒーを飲んで、それからまたなんとなく歩いた。


歩いている間も、拓海の声が頭の中に響いている。

何度も繰り返し考えた。
もしかしたら聞き間違いだったのかも。
ただの幼なじみ以上の気持ちは、今は持ってないのかも。


その希望が頭に浮かぶたびに、二人の姿が重なって見える。
背が高く現実離れした容姿の結城と、小さくて仕草の愛らしい拓海。


確かに奈々子には割って入れない、そんな空気が二人の間にはあった。
結城に気を取られていたから、その空気感が気にならなかった。


考えてみれば、結城が奈々子のような普通の女の子に声をかけるなんてこと、ある訳がないのだ。
それは対外的なカモフラージュか、本当の気持ちを隠すための手段。
どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう。


ふらふらと自宅アパートの前に辿り着いた。
バッグの中をさぐって、鍵を置いて来てしまったことを思いだす。

部屋にはいれない。
奈々子は力つきて、外階段に座り込んだ。


真っ暗な道。

結城はここで奈々子に好きだと言った。
あの高揚感を思い出す。
胸のときめき。
結城の髪の香りや、暖かな唇の感触。
奈々子の腰を引き寄せた、腕の強さ。


奈々子は膝を抱えて、顔をうずめる。
大きな溜息をついた。


一晩中ここにいるわけにいかない。
珠美に連絡しようか、そう考えて頭を振った。
珠美には何も言えない。
珠美のことだから結城と何かあったとすぐに気づいてしまうだろう。

大家に電話しようか。
ああでも、電話番号がわからない。
電話番号の書いてある契約書は、部屋の中だ。
鍵を開ける業者を頼むしか……。


そこでふと気配を感じて顔をあげた。
目の前に結城が立っていた。
チェックのシャツにデニム。

手に奈々子のキーホルダーを持っていた。


「電話をかけても出ないから。よく鍵を忘れるね」
結城が言う。

「電話……気づかなかった。あ、ありがとう……ございます」
奈々子は不安に身体が揺れる。

「話があるんだ」
結城が言った。

黒髪が闇夜に溶けてみえる。視線をそらさず、奈々子を見つめる。
「あがってもいい?」

「はい」
奈々子はうなずき、結城から鍵を受け取った。