奈々子は扉をそっと閉める。
それでも小さな音はさせてしまった。
奈々子は早足でエレベーターに乗り込む。
「閉」ボタンを何度も強く押した。


早くこの場を去らなくてはいけない。
聞いてはいけない話だった。


奈々子が扉を開けたとき、拓海が叫んでいるのが聞こえた。


「俺がいなくちゃ生きて行けないって言って、死のうとしたのはどこのどいつだよ!」


あの首の傷。
そうだったんだ。


奈々子は妙に納得している自分に驚いた。



大通りを駅に向かい必死に歩く。
風が髪をなびかせ、汗を乾かして行く。

何台もの車がすれ違う。
何人もの人とすれ違った。
誰かにぶつかりそうになり、慌ててよける。
それでも懸命に歩いた。


もし結城が気づいて後を追って来たら、奈々子は何を言うかわからない。
今はこの場から離れ、冷静になって、それで、それで……。


奈々子はふと立ち止まった。

冷静になれば、答えは自ずと見えてくる。
いや、もうわかってる。
だから、拓海は「戻れ」と言ったんだ。
結城の本音を知っているから。
結城が特別に思っているのは、拓海しかいないと、知っていたから。
拓海がいないと生きて行けない。だから死のうとした。


どれほどの……。


奈々子は力なく道路に座り込んだ。
追い越して行く人々が奈々子を見下ろす。


アーケード付きの商店街。
脇にある神社から、特別に涼しい風が流れてくる。
トンボが木々の間を飛んでいた。


結城の笑顔が脳裏に現れては消える。


結城が奈々子に「好きだ」と言ったのは、どうしてだろう。
奈々子を好きだなんて、おそらく露ほども思ってないのに。


あの人が私を好きだなんてこと、ある訳ないのに。



奈々子の頬に涙が伝った。