土曜日、診療所が終わると目黒にまで出た。
診療所から目黒までは四十分程度。


三時頃の空気はしっとりと湿気を含んでいる。
雲は多いが天気はよかった。


電車の窓から流れる景色を見る。

結城と会いだしてから電車にのる機会が多くなった。
以前は診療所と家の往復だけで、出かけると言っても近所のショッピングセンターぐらい。
友達と会うのもそう頻繁ではなかった。


奈々子は自分の格好をチェックする。
ゆったりした膝丈の水色のワンピース。
迷ってやっぱりレギンスをはいた。
はかないと足下が無防備な気がして、必要もないのに顔が赤らむ。


「大丈夫。嫌だっていったらしないんだから」
奈々子は自分に言い聞かせる。

「でも……わたしが、いいって言ったら?」
そう考えると、奈々子はドキドキしはじめた。


駅まで結城が迎えにきていた。
まだYシャツにグレーのスラックスという格好だ。


「今、帰って来た」

「忙しかったんですか?」

「まあね」
結城はそう言うと、並んで歩き出した。


以前ほど周りの視線を気にしなくなったように思う。
ただふとした瞬間に周りを見ると、必ず女性の誰かと目があった。

やはりずっと誰かに見られているのだ。


「一度マンション寄っていい?」
歩きながら結城が言う。

「はい」
奈々子は少し緊張してそう答えた。

すると、結城はそんな様子の奈々子を見て
「エントランスで待ってて」
と付け加えた。


奈々子は安心する。
それから自分の感情を全部結城に読まれていることが、恥ずかしくなる。


エントランスのエレベーター前で待つ。

マンションの築年数はかなりたつようだ。
父親が愛人と暮らしていたという話を思い出す。
確かにそのくらいの年数は感じた。


エントランスは広いが、天井が低い。
管理人が座る小さな窓が入って右側にあった。
今日はもう勤務を終えたようで、カーテンが閉まっている。


エレベーターが動く音がして、結城が降りて来た。
黒のプリントTシャツにデニム。
皮のサンダルをはいている。
急いでシャワーを浴びたのか、黒髪がしっとりと濡れていた。


それを見ただけで、奈々子は落ち着かなくなる。
重症だ。


「先にごはんたべない?」
歩きながら結城が言った。


連れて行かれたのは、近所の定食屋だった。
曇りガラスの引き戸を開けるとカウンターとテーブル三席だけの、小さなお店だった。
一番奥、テレビが頭上に設置されているテーブルに腰掛ける。
テーブルも椅子も長年の油汚れで少しべたべたした。


「よく来るんですか?」
「うん。拓海と。ごはん作るのめんどくさいときにね」
ビニールのかかったメニューをとり、奈々子に見せる。

「どれにする?」

「おすすめは?」

「俺はいつも生姜焼き定食。卵がのっかてんの」

「拓海さんは?」

「あいつは……焼き魚とか食べてるかな。なんでもおいしいよ、ここ」

「じゃあ、お魚で」
奈々子はそう言うと、結城は厨房にいるおじさんにオーダーした。

「ロマンティックなディナーがよかった?」
結城が訊ねる。

「そんなことないです。こういうところも好き。昔家族でよくいきました。今はもう潰れちゃったかな? あったんですよ、駅前に。おいしくて、安くて、地元の人がよくいくお店が」

「へえ。潰れてなかったら、今度行きたいな」

「いいですよ」
奈々子はそういって微笑んだ。


懐かしい思いにかられる。
東京に出て来てもう随分たった。
なんだか突然家族に会いたくなった。


お店にはサラリーマンが溢れている。
女性客は奈々子以外いない。
結城が注目されることは、ほとんどなかった。
だから結城はよくここに来るのかもしれない。


料理はおいしかった。
母親の味付けとは異なるけど、たくさんのサラリーマンがここに来るのがよくわかる、そんな味だった。


そろそろお店を出ようという頃、引き戸が開けられる音がした。
食事をしていたサラリーマン達が息をのむ気配がした。


奈々子が何事かと振り向くと、紗英がお店に入ってくるのが見えた。
結城を見ると「またか」という顔をしている。
紗英は二人を見つけると、可愛い笑顔を見せ手を振った。


「どうして居場所がわかるんだ?」
結城が紗英を見上げ言う。

「世の中には居場所を隠せない人っているの。ネットで探せば今どこにいるか一目でわかる」
紗英はそう言うと結城の隣に座った。

「ねえ付き合いだしたんだって?」
紗英が足を組み替える。
ぴったりとしたパンツをはいた紗英は、一身に男性達の視線を浴びていることを知っているようだ。

「なにしにきたんだ?」
結城が言う。

「冷たいじゃない。わかってるでしょ?」
紗英がそう言うと結城が溜息を一つついた。

「あれは断ったじゃん」

「でもあきらめてない」

「その話しはまた今度。邪魔するなよ」

「せっかくきたんだもの。えっと、奈々子さんだっけ? 奈々子さんとも話したいことあるの」

「何話すの?」
結城が顔をしかめる。

「ちょっと、心配しないでってば。意地悪なんかしないから」

「あたりまえだろ」

「結城、ちょっとどっか行っててよ」

「ええ? なんで?」

「女同士で話したいことがあるの。ね、奈々子さん」
そういうと紗英が笑いかける。


奈々子は不安になる。
なんだろう。


「結城、ほら、マンション帰って」

「大丈夫?」
結城が奈々子にといかける。

奈々子は「大丈夫ですから」と言う。
本当は大丈夫なんかじゃぜんぜんなかったけれど、紗英の話を聞かなきゃいけない雰囲気になっていた。


「じゃあ。紗英、ほんとにいじめるなよ」

「わたしを何だとおもってんの?」
紗英が口をとがらす。

「ほら、帰って」
と手で追い払った。


結城は支払いを済ませると、後ろ髪をひかれるように、何度か振り返りながらお店を出て行った。