「俺の記憶もあやふやなのか?」

「どうだろうね。きみは一度赤ん坊からやり直している、その時に曖昧になってしまった物や抜け落ちてしまった記憶があっても不思議ではないかもしれない。何せ二人分の記憶を持って生きているのだから。」

カルサの呟きに背中で答えた沙更陣の言葉が胸に入り込む。

そして今いる場所がかつて自分が生きていた国オフカルスであることも手伝って右手をそっと胸の中心に当てた。

「玲蘭華はきっと気の遠くなるような時間を一人で過ごしてきたんだろう。カルサ、きみは玲蘭華の前で皇帝の剣を胸に刺したらしいね。」

カルサにその瞬間の記憶が甦る。

当時の自分の手には馴染めそうにない大きい剣を渾身の力で胸に突き刺した。そこに傷はないのに自然と手がその場所を捜し当てて拳を作る。

「玲蘭華は…それが一番堪えたと言っていたよ。」

胸を貫いた後の記憶は僅かにしかない。その中にある玲蘭華との記憶では彼女は無表情でカルサを見ていた気がした。

あの様子からはそんな感想が出るとは考えにくい。

今でこそ考えられるがおそらくあの時の玲蘭華は二つの事を思ったのではないかとカルサは予想しているのだ。

マズイという事と、その手があったかという事。

前者が先に出て続けて後者の考えに至ったのだと思う、これがカルサの歪んだ感情から導かれた考えにくい予想だとして少なくとも玲蘭華に辛かったという感情は無かった筈だ。

その思いを込めてカルサは沙更陣を睨むように目を細めた。

「信じられないという顔かい?まだ幼い子供が目の前で胸を突き刺したんだ、誰だって堪えるよ。ましてや、きみは…。」

沙更陣の言葉は詰まったがカルサは眉間の皺を深くして目蓋を閉じる。それはまるで覚悟を決めたと伝えているようで沙更陣は再び口を開き言葉を続けた。

「きみが玲蘭華の息子である事は、紛れもない事実だから。」

風が木々を揺らした。

いつもより強い風は葉を花を二人の足元へと吹き込むように運んでくる。伏し目がちのカルサをなだめるように強く、そして優しく風は吹き続けた。

腰元の剣にはリュナが編んだ飾りが結び付けられている。

この風が今のカルサに寄り添うように動いてくれたのだろうか、自分の思い込みとはいえその感情に耐え切れずに手で目を覆う。

それが余計にカルサ自身の記憶を鮮やかにしてしまったのは皮肉な話だ。

あの強い感情は燃えかすであってもしっかりとこの胸に残っている。

自分の胸を剣で貫いたあの時、玲蘭華が信じられなくて嫌悪感むき出しで吐いた言葉があった。

「貴方の血が流れるこの身体などいらない。」

「え?」

「俺が剣で胸を刺す前に言った言葉だ。」

後悔はしていない、今でもその気持ちに変わりはないと、そう伝えるようにカルサの目はまっすぐ沙更陣と向き合っている。

「この身体であるウレイには迷惑をかけてしまったが…あの時の自分がしたことについて何一つ後悔などない。この国など滅びてしまえばいいと思ったんだ。」

沙更陣は言葉で反応することが出来ず玲蘭華とカルサ、二人の気持ちを考えるだけで表情を曇らせてしまった。

そんな大胆な言葉を堂々と言えるくらいにカルサの心は怒りや憎しみで染まりきっていたのだろう。立場を考えるとカルサからそんな言葉が出るなんて考えられなかった。

立場以前にカルサの人柄を思っても信じられない発言だ。

きっと拳が当てられたあの胸の場所を剣で貫いたのだろう。

あの時のまだ成人の儀式さえも済ませていない幼かったカルサが、誇りにしていた立場を全て無視して動かした感情が自身の胸を貫くという結果だ。

残念だが沙更陣にも覚えのある感情なだけにその思いは辛い。

「確かに沙更陣の言うように、今まで玲蘭華は私欲の為に世界を操りはしなかった。しかしそれは表面なだけで、水面下では何をしているか分からない。」

「日向の事か。」

沙更陣は再び庭の方へと足を進めていった。考えがまとまっていないのだろう、階段の手前に辿り着いても伏し目がちに黙り込んでその思考を巡らせる。

やはり心当たりはない。記憶を戻した沙更陣にも日向の事は分からなかったのだ。

オフカルスに辿り着いた時、沙更陣はカルサたちを出迎え懐かしい顔であるマチェリラとの対面に涙を浮かべた。圭となったシャーレスタンとの触れ合いにも感動をしたものだ。

その時に日向と対面したがやはりカルサの弟でありオフカルス第二皇子である彼を見ても何も思い出さなかった。

それはまだ幼かった日向が青年になるまで成長したから面影が薄くなっていたとかそういう問題ではない。そもそもの名前からも沙更陣の中にある記憶に少しも引っかからなかった。

きみは誰だと尋ねたくらいだ。

そして日向の方もオフカルスには初めて来たと笑顔で答えたから余計に沙更陣の中で第二皇子という肩書がしっくりとこない。

玲蘭華も特にカルサに関して何か言っていた訳ではないから当然日向の話になることもなかった。

三人でオフカルスに居た頃はそれこそ腹の探り合いの様な形でお互いに当たり障りのない会話が続き、太古の時代の話題になることは殆どない。

記憶が戻った時に深く話し合った以降は全く触れることも無かった。

なので雷神が目覚めたという話を聞いた時は彼がカルサトルナスだと言われただけでそれ以上の介入は無かったのだ。

いま思えば玲蘭華の言葉を信じられなかったのかもしれない。だから余計な話はせずに腹の探り合いの様な形をとっていたのだろう。

沙更陣がそう自覚したのは暫くしてからの事だったが、ジンロはそれがおもむろに態度に出ていた。

カルサトルナスが新たな身体で再び生を受けたと聞いた時に宣言したのだ。

「僕たちはあまりに警戒しあっていたのかもしれないね。オフカルスについて察しながら探り合う形をずっととっていた。でもジンロは彼らしい態度をとっていたよ。」

「ジンロが?」

「きみがその身体で生まれてきた時、玲蘭華に宣言していたんだ。カルサトルナスは俺が守るって、玲蘭華の好きにはさせないってね。」

思いがけない言葉にカルサの目が大きく開いた。

たまらず手で口を覆い息をも飲み込んでその同様に耐えようとする。このオフカルスで再会した時のジンロの姿が鮮明に思い出されて目が熱くなった。

どれだけ冷たく突き放しても歩み寄ろうとするあの優しい笑顔が物凄く愛しい、触れられない今が物凄く切ないのだ。

皇子として生きていた頃、ラファルを連れてよくジンロの下へ遊びに行っていたのを思い出す。彼はいつも愛情のある文句を繰り返しては相手をしてくれていた。

剣の稽古をつけてくれたのもジンロだ。

兄の様な存在だとカルサはずっと慕っていた。

よくジンロといるところをウレイに見られては兄弟の様だと笑われジンロは嫌そうな顔をしていたのも思い出す。それが冗談であることもカルサは分かっていた。

ジンロとウレイはカルサを子供扱いせずに難しい話も傍で聞くことを許してくれていた、この知識の使い方も同時に教えてくれていたのだ。

それが今にも繋がるほどカルサの一部として沁み込まれている。

「ジンロは…?」

「僕にも分からない。見つからないんだ…どうやっても。」

「…そうか。」

目を閉じるカルサの中では感情の整理が懸命に行われている筈だ。

彼が再びその瞼を開けた時きっと一時的でも冷静さを取り戻しているだろう、沙更陣はその時を待った。

その時は沙更陣が思うよりも早く訪れ感心させられたのは言うまでもない。

「ジンロにも日向の記憶は?」

「…無かったと思う。僕が思うに…マチェリラやシャーレスタンの話からだと玲蘭華が直接手を加えた人には日向の記憶はないみたいだね。」

「直接?」

「日向の事を覚えているというレプリカは環明の記憶を貰った。僕の記憶が確かなら環明は玲蘭華が手を加える前に息を引き取っていた筈だ。」

沙更陣の考えは的を得ていた。カルサの頭の中でも絡まっていた糸がほどける様な感覚になる。

カルサの記憶でも、あの事件の最初の被害者は環明だった。

そうであるならば。

「生きている者しか記憶を操っていない、そういう事だな。」

沙更陣は頷いた。

このオフカルスに着いたとき、まず一番最初に確認したのは沙更陣の中に日向の記憶があるかどうかだ。

残業ながらやはり沙更陣の中に日向はいなかった。

瑛琳に日向を任せ倒れた貴未を千羅に預けて、カルサ、マチェリラ、圭、沙更陣は改めて互いの記憶を確認したのだ。

あの事件の後、命を落とす前もしくは意識が途絶える前に玲蘭華と会ったかどうか。

それは全員が頷いた。

「あの時の玲蘭華は我を失っていたのか、それとも本能だけで動いていたのか…誰にも分からない。ただあの感情の読めない顔で次々と仕掛けていった。」

それはカルサとマチェリラの記憶だ。

「僕が一番最初に眠らされたんだね。」

沙更陣の言葉にカルサは頷く。

ロワーヌが亜空間に閉じ込められて玲蘭華にすぐ戻す様に詰め寄ったのだ、そして眠らされた。

それを皮切りに玲蘭華は周りの人間全てに手を出し始める。

マチェリラもその中の一人だった。

目の前で兄であるフェスラが亜空間に閉じ込められ自力で助けようとしていたときに意識が薄れるのを感じたという。

その視界の中にいた玲蘭華の存在にこの力の正体が彼女だと気付いて強い感情を抱いたまま未来に飛ばされたのだ。

「シャーレスタンの事を考えれば生存者には容赦なく執着したということだな。レプリカにしてもアバサにしても…あいつは見逃さなかった。」

そう。

あの事件、あの惨劇の場にシャーレスタンもアバサもレプリカもいなかった。

シャーレスタンは儀式の為にと最も清らかな聖水を届ける為に泉に一人でいたところ、何人もの死者の魂の流れを感じたと話していた。

死者の魂を次へ導くのが神官シャーレスタンの役割、魂の群れの中に環明のものがあると気付いた彼女は迷わず保護をしたのだ。

そこでこのオフカルスに起きている異常事態に気が付いた。

環明以外にウレイのものも見付けたが保護が間に合わなかったと申し訳なさそうに首を横に振っていたのを思い出す。

神官が二人も命を落としたこの異常事態に儀式の中で何かとてつもない出来事が起こったのだと察知したが、次から次へ押し寄せてくる魂を導かなければいけないためそこから動くことが出来なかった。

しかし数が多すぎる。争いが起こったのだと判断したシャーレスタンは即座に臨戦態勢をとりつつ自分の役割を果たし続けた。

神官だけではない、委員会に属する委員たちも例外ではなかったことに背筋が凍る。

顔馴染みたちの魂を送り出す中で耐えきれずに涙を流していた。

一体何があったのだ。

保護が出来たのは環明ただ一人、しかし魂を保護したからといって彼女が再び息を吹き返す訳ではない。

泉の向こう側にある儀式の舞台では惨劇となっているのだ、いつ来るか分からない恐怖と戦いながらシャーレスタンはずっと死者の為に祈り続けた。

環明の魂が自ら思う場所へと飛んでいくことに気が付いたシャーレスタンは彼女に力と時間を与えたらしい。

やり残したことを叶える時間と行きたいと願う場所へ行ける力だ、ありがとうという環明の声が聞こえた気がしたがシャーレスタンは自分のことで必死だった。

死者たちの記憶が垣間見えて泉の向こうの様子が少しずつ分かってきたのだ。それはもう惨劇としか言いようがない。

何故こんなことになったのだ、どうして。

遠慮なくシャーレスタンの中に入ってくる死者たちの悲鳴が心を揺さぶり体力をも削っていく。シャーレスタンは死者たちに触れることで心身ともに激しく消耗していった。

やがて全てが終わり力尽きる様に倒れていた所を玲蘭華に見つかったという。

何をされたかは覚えていないが意識が途絶え、シャーレスタンが次に気付いた時には銀色の翼を広げた貴未が目の前にいたのだ。

何故か自分が手にしていた<永(はるか)>という球体の中にマチェリラの意識体が潜んでいたことにも気付いたが、貴未に渡さなければいけないという自分の中の深い意識に従って預けた。

貴未とマチェリラ、日向がカリオに去った後にようやく頭の整理がついて理解したという。

自分は死んで転生したのだと。

そして今は太古の国となってしまったオフカルスのあの惨劇はまだ終わっていないのだと。

「シャーレスタンも玲蘭華の姿を見たと言っていた。」

「記憶を操られてから死んだんだ。だから転生した後も日向の記憶はなかった。…成程な。」

カルサの声はいつもよりも低く、まるで鼻で笑うようにその言葉を吐き捨てた。

でも一つだけ分からないことがある、いや大方の予想は付いているが確信が持てなかった。

「沙更陣、俺の記憶は玲蘭華に操られていると思うか?」

「どうして?」

「沙更陣も知っている通り俺は玲蘭華の前で自決をした。皇帝の力を使うことが出来たのは俺だけだったし、僅かな時間だったがこの後の事をどう考えても解決できるとは思わなかったんだ。だから…。」

「皇帝スターレンの裁判に委ねようとした?」

沙更陣の添うような言葉にカルサは小さく頷く。

「しかしスターレンは現れてはいない。何故だ。」

大方の予想は付いている、しかしカルサはおそらく沙更陣が真実を知っている気がしてあえて尋ねた。

この胸を貫いた時の話を玲蘭華としていたのならば自然と疑問が浮かびその答えを求めるだろう。


カルサトルナスが命を落とせばスターレンが現れるのではないか。


どうやらカルサの読みは当たったようで沙更陣の表情が曇り僅かにその視線を下へと逃げたのだ。

しかし惚けることは許されない、沙更陣は観念したように静かに口を開いて答えた。

「玲蘭華はきみの時間を止めたらしい。」

驚きはしない、予想が当たり玲蘭華の持つ感情の深い闇に触れてカルサは目を細めた。

「君が生まれ変わる為の身体が現れるその時まで…その身体を見付けるまで玲蘭華が消えゆく命の時間を止めて永らえたと言っていた。」



だって、ここにヴィアルアイがいないもの。いまスターレンが現れたら困るでしょう?



玲蘭華の答えをそのままカルサに伝え沙更陣は口を閉ざした。

怒りに狂うかもしれない、そんな予想をしていたが沙更陣の思いに反してカルサはどこまでも冷静だった。

それこそがカルサの推測していたことだったのだ。

誰よりもヴィアルアイを重んじて何よりも二人の位置を気にするのが玲蘭華だ、そこから考え付いたことに何の感情も動かない。

そしてこれで日向の存在を消した理由も、日向自身に記憶がない理由も確信が持てた。

「簡単に太古の記憶を取り戻せた沙更陣も日向の記憶は取り戻せなかった。これだけ日向の話をしてもだ。」

カルサは剣の柄に結ばれているリュナの飾りに触れながら自分の感情を探す。

どれだけ大切な仲間を得ても、どれほど愛おしくて仕方がない相手を見付けても決死して到達することの無かった究極の感情に吐き気がしそうだ。

この身体にその血は流れていない。

しかし魂に刻まれた遺伝子がじわりと歪んでいくの怖かった。

「一つの簡単な思いからよくぞここまで複雑な歯車を作れたものだ。…いや至って作りは簡単なものか。…解き放つための唯一の鍵は俺の命だ。」

さらりと流れるように出た言葉はとても流せるような内容ではない。

すぐに言葉を返さなければそうであると肯定することになってしまう、しかし何を言っていいか分からずに沙更陣からは声が出てこない。

やがて生まれた沈黙に重たい空気が二人を包むが先にそれを破ったのはカルサだった。

そんなことは今更な話だと堂々たる様子は流石なものかもしれない。カルサはもう迷っていないのだ。

「なあ沙更陣。リュナがセリナだと、いつ分かった?」

突然変わった話題に多少戸惑いつつも内容が内容なだけに沙更陣の反応は良かった。

その答えの先に何があるのだろうか。

そんな事が頭の中に過ったがカルサに対して最早何の隠し事も誤魔化しもいらないと自分の中で決めていた。

「一目見て、すぐに。」

初めて出会った時の事を思い出しながら沙更陣はその表情を和らげる。

影も形も見たことが無かったわが娘、沙更陣が持っていた情報は環明が信頼を寄せる人物に預けたという事とセリナという女の子であることだ。

風神の話が出たときからもしかしたらとは思っていた。