私をナギと呼び、妹のように可愛がってくれる、男らしいあっちゃん。


あっちゃんは私の兄・小林湊人(コバヤシミナト)の親友であり、同じヨット部に所属する部活仲間。ついでに言えば二人はセーリングと呼ばれるヨットレースでペアを組む、パートナー同士でもある。



主にかじ取りの役割を担うスキッパーと呼ばれる場所を担当するのが、お兄ちゃん。


船の左右の傾きの調整や海の状態。他艇の状況を把握して進路判断の役割を担うクルーと呼ばれる場所を担当するのが、あっちゃん。


波を読み風を読むあっちゃんに、船の中を生き生きと動き回るお兄ちゃんはとってもカッコよくて、私の自慢。



そんな二人を応援したくて…。
中学生の頃は高校のヨット部の練習場に出入りして、二人の練習を見守るのが私の日課になっていた。




「ミナト!バテてんじゃねーよ!
しゃかしゃか動け!!」


「うっせー!アツ!!
オマエは楽かもしんねーけどなー!意外と大変なんだぞ!スキッパーって!!」




海の上で楽しそうに軽口を叩きあいながら風と波を操って、自由自在にヨットを動かす二人。



陽の光を浴びてキラキラ光る波間はとても綺麗で、その光としぶきを浴びて輝く二人はもっともっと美しい。



“美しい”なんてオトコの人に使うのは少し変かな??


でも素直にそう思うんだ。
海とたわむれて、子どものように無邪気な顔して笑うあっちゃんは誰よりも、何よりも、美しい。その言葉がとっても似合う。




「もう、アツったらあんなこと言って…。
あれじゃあミナトが可哀そうだわ。」


「風香(フウカ)さん。」



長くて黒い髪をたなびかせながら、呆れたように笑うカノジョの名前は坂口風香(サカグチフウカ)。


あっちゃんの…カノジョさんだ。





カレに対するこの想いが“仲のいいお兄ちゃん”に対してのモノではなく“恋”なのだと自覚したのは中学2年生の冬だった。


「ナギ、コレ俺の彼女の風香。」


ストーブの温かさが身に染みる我が家のリビングで、あっちゃんはニコニコ笑いながら風香さんを私に紹介した。



「美人だろー??
ずりーよ!アツ!!
坂口さんに憧れてる男がどれだけガッコの中にいると思ってんだ!!」


「ぶははは!!
悪いな、ミナト。」




長い黒髪が印象的で、はかなげだけど芯のある、誰が見ても美人さんな風香さん。




そんな彼女を見て、悲しくなった。



『ナギ、コレ俺の彼女の風香。』



そう言って幸せそうに笑うあっちゃんを見て、泣きたくなった。



楽しそうに笑う二人を見てると切なくなって、胸がギュウギュウ苦しくなって、わけもなく涙が出そうになってしまう。




「ご、ごめんね、あっちゃん。
私、宿題やるから部屋行くね…。」




そう言って逃げるようにリビングから逃げ出して、自分の部屋に避難した時


「ヤダ!!
なんで…なんで私じゃなくて、風香さんなの?!」


素直にそう思えた。



嫉妬…したんだ。
“カノジョ”という立場を得た、風香さんに。

当たり前のように彼の隣で笑う、幸せそうな風香さんに。






バカだよね??

私が恋に気づいた瞬間は、こんな間抜けな瞬間だった。

気づいた時点で失恋決定。
こんな失恋するなんて、バカすぎるにもほどがある。





ずっと一緒にいたから
お兄ちゃんだと思っていたから
この執着が恋であると気づくのが、遅すぎた。


眩しい気持ちで彼を見て
一緒にいるだけで心が安らぎ
側にいるだけで満たされる。


この気持ちが恋だと気づくのが…遅すぎた。誰より近くに彼の側にいたから、この気持ちが恋なのだと上手く自覚できずに時間だけが過ぎてしまった。




遅すぎた。
ともかく全てが遅すぎた。
そのせいで私、小林凪紗(コバヤシナギサ)は恋に気づいた瞬間に失恋するという、なんとも間抜けな初恋を体験してしまったんだ。




ーーばかだなぁ、私。




あの勝手な失恋から、もう二年。
私は高校一年生になり、あっちゃんは高校三年生。



相変わらず仲良さそうな二人を見るとチリチリと胸が痛むけれど


「ナギー!一緒に帰ろうぜ!」


いつもみたいにあっちゃんが笑いかけてくれると、それでいいやと今は思える。



あっちゃんの隣にいたいなら、この気持ちに封をしなければいけない。


だって…ね??
恋してるとバレた瞬間、きっとあっちゃんは私から離れていく。


そんなの、とてもじゃないけど耐えられそうにない。



あっちゃんに笑いかけてもらいたいから。あっちゃんの隣でずっとずっと笑ってたいから、私はこの気持ちを封印しよう。




ズルいかもしれないけれど、妹ならば、ずっとずっと一緒にいられる。


友達ならば
妹ならば
彼の隣で笑っていられる。



いつしか私はそんな風に考えるようになっていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

私、あっちゃん

風香さん、お兄ちゃん


四人の関係は相変わらずと言えば相変わらずで、家族みたいな兄弟みたいな、なんとも言えない不思議な関係の4人。

形だけ見れば私はいい妹。

だけど本当は…風香さんに嫉妬しながら、ジメジメとあっちゃんに恋をしているイヤな女。



ズルくて弱い私は本当の気持ちにフタをして、いい妹を演じるコトが気づけばお手の物になっていた。


だから…かな?
あっちゃんは私の気持ちに…1ミリだって気付いていない。


いつも

「ナギ!帰ろうぜ!!」

お日様みたいな顔で笑いかけて、妹としての私を大事にしてくれる。



それでいい。
これでいい。




彼の笑顔を特等席で見られるのなら、妹だって辛くない。むしろ…それが一番幸せな恋の形なんだ。



そう私は決めつけていた。





そんなある日。
私はお兄ちゃんからあっちゃんが県内の大学を受けると耳にした。



なんだかんだでお勉強のできる、あっちゃん。ヨット部での成績も悪くないからきっとスポーツ推薦だってたくさんくるだろうに…。


風香さんとお兄ちゃんは県外の大学を受験して、あっちゃんは地元の大学を受験する。


なんで…あっちゃんは県外の大学を受けないんだろう。



「ねえ、あっちゃん。」


「なにー?ナギ。」


「なんであっちゃんは県外の大学受けないの?」



何の気なしに。
部活終わりの海岸でボートを片づけながら尋ねると、あっちゃんは夕闇に染まる海を見ながら


「そーだなー。理由なんてないんだけど…俺、この海が好きだから。」

「…え??」

「この時間のこの海が好きなんだよな、俺。」



そう言って、頭をポリポリ掻きながら。彼は恥ずかしそうにテヘヘと笑った。




夕焼けを受けて真っ赤に染まる海。夕凪の時間になった海はまるで鏡のように空の景色をそのまま映す。


夕焼けに光る海


徐々に訪れる夜の色も映しながら、海は少しずつその姿を変えていく。




そんな海をどのくらいの時間見ていただろう。




しばらくするとあっちゃんは


「この風景が好きだから地元から動きたくないのかもな。ま、どっちにしてもカッコイイ理由じゃねぇよ。」


そう呟くと私の頭をクシャクシャと撫でて


「さ、帰るぞナギ!
しゃかしゃか体動かせー!」

「や、やめてよ、あっちゃん!」

「あはは!!」


困る私を見て笑ったのだった。



あっちゃんは夕焼けに染まる海が好きで。

特に夕凪の海。夕焼けの時間の海を見るのが何より一番好きだ、と言った。


夕焼けに染まって真っ赤になる、海と私たち。


しばらくボーッと夕焼けに染まる海を眺めた後、ヨットの道具を片付けて、部室にも鍵をかけて、私たちは家路につく。


あっちゃんと帰る帰り道。
海岸沿いに続く長い長い坂道を夕暮れの中、自転車を押しながら歩いていると、あっちゃんは必ず後ろを振り返る。


そして夕闇に染まりゆく海を見ながら、彼はやっぱりこう呟くのだ。



「俺、あと何回この風景を見られるんだろう。」


「…え??」


「変だよなぁ。
変なんだけど俺…やっぱり長く生きられない気がする。」




彼の口癖。


「俺、長く生きられない気がする」


それを聞くたび、私は何故だか泣き出したいほど不安になって、心臓がキュウキュウと悲鳴を上げて、苦しく切なく締め上げる。



そんな切ない悲鳴を隠しながら


「何言ってんの。
そんなこと言ってたら風香さん、ないちゃうよ??」


私は彼をたしなめる。



「うーん…。」

「おばあちゃんに言われない?
悪い言葉は言っちゃいけない、って。そんなこと言ってたら本当にそうなっちゃうよ!!?」




言葉は言霊。
言葉は強い力を持つと聞く。


だから、そんなこと言ってたら嘘が本当になってしまいそうで怖くって。


彼がいなくなってしまったらどうしよう、頭の中はそればかり。



無言で海を見つめて
何処か遠くに思いを馳せるあっちゃんを見ていたら、本当に怖くって。


怖くて怖くてたまらなくなって



「嘘でもそんなこと言わないで。」

「え??」

「あっちゃんが死んじゃったら…私が困る。」



気づいたら私はこんなセリフを口にしていた。




しまった!

そう思った時にはもう遅い。



「それって、どういう意味?」



彼は鳩が豆鉄砲を食らったような驚いた顔をして私に尋ねる。




「ほ、ほら!
私たちって兄弟みたいに一緒にいるじゃない?だから、あっちゃんが急にいなくなっちゃったりしたら、悲しくて淋しくて耐えられそうにないっていうか……」



あぁ、何言ってんの、私。

焦れば焦るほど話がおかしな方向に傾き始める。


「ほ、ほら!!
風香さんも悲しむだろうけど、私の方がもっと悲しくなる…っていうか…!!」


ダメだ。
話せば話すほど、どツボにハマっていく。



ワタワタしながら
キョドキョドしながら
何かうまい言い訳みたいなものを探すけど、そんなの私の小さな脳みその中にはどこにもなくて。


ーーだめだ。
このままだと墓穴を掘って終わっちゃう!


キョトンとした顔のまま私を見つめるあっちゃんに覚悟を決めてハアとため息を吐くと



「あっちゃんがいなくなったら、私が困る。」


「……それ、どういう意味で捉えればいいの?」


「そのまんま…じゃない?
あっちゃんは私の大事なお兄ちゃんだから。急にいなくなったりしたら、悲しいよ。」



夕闇に染まる帰り道で。
彼が好きだと言った海を背に、私は彼に一番の嘘をついた。





居心地が悪くて
お兄ちゃんだなんて思ってもないくせに、あっちゃんにこんな嘘をついて。


そんな弱虫な自分に呆れてしまって、自己嫌悪に陥って。


彼の綺麗でまっすぐな視線を受け取ることができずに、斜め45度にうつむいて、下唇を噛んでいると


「……だよな。」


彼は悲しそうにクスッと笑うと、小さく小さく呟いた。




ーーえ…??




驚いて彼の顔を見上げると
あっちゃんはニイッと笑って、私の髪をガシャガシャとかき混ぜ始める。


「ナギは俺のことが大好きだもんなぁ〜!!」


「ちょっ!やめてよ!」


「ブラコンめ!!」



もう!
こんなに力いっぱい髪をグシャグシャにしなくても!!


ゲラゲラ笑うあっちゃんに、ジトーーっとした怨念をぶつけると


「かわいい妹のナギのために、お兄ちゃん、長生きしてやるから安心しろ。」


そう言って
あっちゃんは私の髪から手を外すと、紺色に染まりゆく、穏やかな海を振り返る。





オレンジ色に染まっていた海はいつしか、紺色に姿を変えて、空では淡い光を帯びた月が私たちをそっと見ていた。


「ナギが哀しむなら…
もうこのセリフは言うのやめる。」


「……うん。」



私たちは何事もなかったかのように、自転車を押して、ゆっくりゆっくり家路についた。



ほんのり香る、潮の香り
引いては返す、波の音



あっちゃんと私の間には
いつも海の音が横たわる。



爽やかな潮風に
柔らかな波音



それらはいつも私たちを温かく見守ってくれていて、海の香りを嗅ぐ度に、私はいつもホッとする。




「もうすぐ…冬が来ちゃうね。」



冬が来ると部活はしばらくの間、お休みになる。


そして春が来たら……
あっちゃんは高校を卒業する。



私はまた、ひとりぼっちになっちゃうんだ。