雪がちらつき辺り一面を白銀に染める寒い冬―――


その日、エレナは朝からそわそわとしていた。

正確には一週間ほど前から落ち着きがなく、本人も日に日に焦っていることを自覚していた。


エレナが立つのは執務室の扉の前。

執務室を前に立ち尽くしてもう十分ほどになる。

扉を見つめてはノックをしようと手を持ち上げ、いざとなると寸前で止まる。

通り過ぎる家臣や侍女たちは訝しげな視線に、エレナはいい加減にしなければと意を決する。

今度こそ、と思って扉をノックしようとしたが、何度目か分からない試みも一抹の不安に負けて失敗に終わった。



(まだ時間はあるもの…今日の夜話せばいいわ)


“まだ時間はある”そう理由をつけて早一週間。

次にかける意気込みだけは強く持ったエレナは今日も事を先延ばしにする。

しかし、執務室から自室へと返ろうと踵を返した先にいた侍女に思わず小さく悲鳴を上げた。

洗濯物を抱え鬼の形相で仁王立ちするその侍女はエレナつきの侍女ニーナ。





「エーレーナーさーまー」


ほわほわと柔らかい雰囲気のニーナからは想像できないほど低い声が廊下に響く。

何故ニーナが地を這う様な声を出して怒っているのかを身を持って知っているだけに乾いた笑みしか浮かばない。

しかし、これがニーナの逆鱗に触れたようで、ニーナがすぅっと空気を吸い込む。

それが何を予兆しているか感づいたエレナは足音を立てないようにニーナに駆け寄り、吐き出す寸前にニーナの口元を抑えた。

ここで大声を上げられてはたまったもんじゃない。




んーんーとくぐもった声を上げるニーナを半ば強引に連れて執務室を離れた。

執務室から数十メートル離れた廊下で手を放すと、むせながら大きく息を吸い込んだニーナ。



「ひ、酷いです、エレナ様っ」

「ご、ごめんねニーナ」

口に当てた手を離した瞬間、ぜいぜいと呼吸をし、涙目で見上げてくるニーナにさすがにやりすぎたと謝る。



「けどあのままだったら貴方叫びそうだったから」

「エレナ様は私が叫ぼうとした理由がお分かりだったご様子ですが?」

エレナはニーナの言葉にドキッとして、言葉に詰まる。

勘の良いニーナはエレナの反応で全てを察したように溜息をついた。




「やっぱりまだシルバ様にお話してなかったんですね」

「だって…」

「だってじゃありません!あれから一週間経ったんですよ!」


やや怒り気味の声に呆れも加わり、エレナは肩身が狭かった。




「一週間頑張ったのよ。何回も話そうと思って試みたんだけど、シルバ忙しそうだったから」

「そうはいっても、もう明日じゃないですか!クリスマス!」

そうなのだ。明日は年に一度のクリスマス。

ニーナからクリスマスの夜は恋人や家族、友人たちと過ごす日と聞かされたエレナは密かにシルバとクリスマスを過ごす方法を考えていた。

それこそ一週間前からずっと。

しかし、フォレスト伯爵の裏切りによる内乱や、隣国ギルティス王国のエレナ誘拐事件からまだ日は浅く、シルバは毎日一日の大半を執務室で過ごしている。





シルバが仕事の虫だということは今に分かったことではないが、今回の事の原因は全てエレナにある。

十二月二十五日だけは仕事を忘れて二人で過ごしたいなどとエレナの口から言えるはずもなかった。



そんなエレナに好機が訪れたのが一週間前のこと。

シルバあてに届いたのは、公爵家から国王と王妃へのクリスマスパーティーの招待状だった。

手紙を持ってきたニーナに、これならば公務という名目でシルバとパーティーに参加でき、その後は二人きりになれるじゃないですか!と言われ、一時は期待と希望に満ち溢れていたのだが…。

後宮に帰ってきて、疲れた様子のシルバを見ると、招待状を手にした時の意気込みは薄れ、どうしても言い出せなかった。




「まだ明日がある、なんて思ったらそれこそタイミングを逃してしまいますよ」

一週間自分にしてきた言い訳を他の人から指摘されると少し焦る。

ずっと見守っていたニーナもさぞかしヤキモキしていることだろう。




「けど…今シルバが忙しいのは私のせいでしょう?だから言いにくくて…」

「内乱も他国との紛争もきっかけはエレナ様だったかもしれませんが、いずれ起こりうることだったと私は思います。後処理程面倒なことはありませんが、ここでしっかりと根絶しておかなければ、また同じような輩が増えることは必至」

ニーナは真面目な顔をしてそう話した後、「けど!」と大きな声で続ける。

この後矢継早に来るであろう言葉を覚悟してエレナは姿勢を正した。





「それとこれとは別の話です!シルバ様が忙しいのはいつものこと。あの方はウィル様についで仕事大好き人間なんですよ?それが愛する人のためなら尚更仕事に没頭してしまいます」

“愛する人”の台詞に顔を赤らめるエレナに、毒気を抜かれたように溜息を吐くニーナ。

そこで顔を赤らめてどうする、という言葉は飲み込んだ。


「とにかく、シルバ様はクリスマスなんてイベントは頭にありません」

ニーナの情報曰く、シルバは両親が亡くなってから今日まで自分のための祝い事をしたことがないそうだ。

誕生日や成人、もちろんクリスマスの様な国民的な祝いごとも。

エレナも同じようなものだったが、知ってしまえば興味もわく。

しかし、興味がない様子の相手に話を持ちかけるのは少々勇気がいった。




「シルバ様はただでさえ鈍感なんですからエレナ様から申し出ていただかなければ」

“分かってる”気持ちを新たにし、ニーナにそう言いかけた時だった。




「俺が何だって?」

不意に横から入ってきた声に、エレナとニーナは飛び上がらんばかりに驚いて振り返る。



「シ、シルバ様っ!」

「やけに騒がしいと思ったらお前たちだったのか」

シルバは呆れ顔をエレナとニーナに向けた。

後ろには書類を抱えた家臣たちが控える。



「俺の名が聞こえた気がしたが、何か用か?」

シルバのその言葉に反応したのはニーナだった。

驚いて固まっていたエレナをよそに、ニーナは一足早く我に返って前に出る。




「実はシルバ様、エレナ様がお話したい…ンぐ」

「な、なんでもない!なんでもないの。お仕事中に騒がしくしてごめんなさい」

ニーナの口を塞ぎ、慌てて笑顔を取り繕うエレナは招待状を後ろに隠しながら後ずさる。




涙目で首を横に振るエレナに、ニーナもこれ以上の強行突破は出来ないと諦めて頷く。

それに胸をなでおろしたエレナは口を塞いでいた手を放してニーナの手を取る。




「行きましょう、ニーナ」

手を引いてその場を去ろうとしたエレナだったが、ニーナの足が止まる。




「陛下、つかぬことをお聞きしますが、明日はどのようなご予定でしょうか」

「明日も城にとどまって政務だが」

一瞬浮上した気持ちが下降する。

他人の力を借りて目的を成し遂げようとした罰が当たったのだ。

明らかに落ち込んだ様子のエレナを横に、ニーナも肩を落とす。




「そうでしたか…明日のご公務は休むことはできませんよね?」

「どうしたんだいきなり」

様子のおかしい二人にシルバは訝るように眉を寄せた。

ニーナはエレナに視線を向けると、エレナは眉尻を下げて笑う。




“しょうがないよ”


ニーナにはエレナがそういっているような気がして胸が締め付けられた。





「いえ、何でもございません。ありがとうございます」

これ以上自分の口から言うべきでないと判断したニーナはそれ以上何も言わず頭を下げた。

一方、渦中の人物であるシルバはエレナとニーナの言動の意味を全く持って理解していなかった。



「おい!」

後ろから呼び止める声に振り返らず、ニーナはエレナの手を引いてその場から離れた。






仕事中だったニーナと別れたエレナはひとり廊下をとぼとぼと歩いていた。

シルバの返答を聞いて一緒になって落ち込んだニーナには悪いことをしたなと思う。

良かれと思って言ってくれたんだから怒るどころか感謝しているのに。

シルバは明日も仕事をするということが分かっただけで進歩だ。

なぜなら明日一日丸々仕事といっていたわけではないから。


しかし、どうやって招待状を渡せばよいものか。

一番良いのは後宮に帰ってきたタイミングだが、最近は帰ってきてすぐに湯あみを済ませて寝てしまう。

その一連の流れが速すぎて気づいたらシルバの腕に抱かれて眠っている、なんてことは茶飯事。

抱き枕代わりだったのか、穏やかな表情をして眠るシルバの睡眠を妨害することは出来なかった。

就寝前が難しいなら執務中、とりわけ忙しくない時間帯を狙って足を運んだのだが、エレナにとってさして時間帯は問題ではないことは本人も薄々感じている。






「エレナさん?」

不意に後ろから声をかけられたエレナは考え事を中断して振り返る。

するとそこには両手に書類をたくさん抱えた男が不思議そうな顔で立っていた。


「ウィル」

青年というには幼げで、中性的な顔立ちのウィルはシルバの側近でありこの国の宰相だ。

自分よりも一回り二回りも年を取っている家臣たちに囲まれながらも、執務を行い、時にはシルバ不在のこの国を任せられることもある。

ウィルはシルバが信頼を置いている数少ない者のひとりだ。





「どうしたんですかこんなところで。ここから先は侍女たちの棟ですよ」

「あ…本当ね。考え事しながら歩いてたらここまで来ちゃったみたい」

エレナは自分のいる場所を改めて見て、恥ずかしそうに顔を赤らめた。