面倒そうに顔をしかめた和泉くんの言葉を遮って言った私を、しかめられ細められたままの瞳が見る。
その瞳を見つめ返しながらゆっくりと口を開いた。
「高校の時、私、和泉くんが優しいから勘違いして手紙渡そうとしちゃって……ごめんね。
ずっとあの時の和泉くんの困った顔が頭から離れなくて、謝りたいと思ってたの」
話している間に、和泉くんの顔は真顔に戻っていた。
こうしてじっと見ると、あの時とはどこが変わったかがよく分かる。
あの時の和泉くんとは違うって、分かる。
「謝ろうと思ってたのに、もたもたしてるうちに和泉くん留学しちゃったからずっと言えないままで……」
「もしかして、それからトラウマになったのか?」
今度は私の言葉を和泉くんの声が遮った。
トラウマ?と聞き返した私に、和泉くんが言う。
「困られるのが嫌なんだろ」
「そうだけど……違うよ。和泉くんが原因じゃない。
昨日も話した通り、きっと家族の事とか元からの性格だとか、そういう事が原因だから」
誤解されたくなくて慌てて否定する。
それから、声のトーンを元に戻した。
「でも……家での居場所を見つけられなかったりしたから、ずっと笑って優しくしてくれた和泉くんに勘違いしちゃったのかも。
包み込んでくれるみたいな和泉くんの優しさに、甘えていたのかもしれない。
手紙を断られてから、和泉くんの困っている顔を見てハっとした」
私の話を、和泉くんは黙って聞いていた。
私をじっと見つめたまま。
そんな和泉くんに、座ったままぺこりと頭を下げた。
「優しくしてくれたからって、勝手に和泉くんの事、私の王子様だなんて勘違いしてた。
あの時はごめんなさい」
下ろしたままの長い髪が、テーブルにかかる。
しばらく頭を下げたままでいると、頭の上から和泉くんの呆れ笑いが聞こえた。
「謝るのが好きだな」
その声に顔を上げると、顔をしかめながら微笑む和泉くんがいて。
「うちにいる間に誰にでも謝りたがる趣味もシンデレラ精神もどうにかしろ」
顔をしかめて微笑む和泉くんが、少し苦しそうに見えたのはなんでだろう。
和泉くんは私に呆れて眉を寄せているだけなのに、それがなぜだかツラそうに見えてしまって。
家主としての和泉くんの指令に頷くのが遅れてしまった。
和泉くんから預かった合鍵には、昨日直してもらったガラスの靴のキーホルダーをつける事にした。
和泉くんが会社に出社してから部屋の掃除と洗濯を済ませて。
それから、一週間分くらいの食料を買いだめするために買い物に出ようとした時、携帯が鳴った。
一瞬、元カレだったらどうしようと焦る。
荷物を取りにこいって言われているのをすっかり忘れていたから。
だけど、嫌な汗をかきながら取り出した携帯が知らせていたのは、高校の頃からの友達、佐和ちゃんからの着信だった。
久しぶりに会えないかと言われて、最初に私が指定したのは駅前の公園。
いい大人が公園ってとツッコまれて、素直に今仕事がない事と引っ越し資金を貯めないといけない事を説明すると、おごるからとうまい具合に言いくるめられてしまって。
結局、駅近くのパスタ屋さんでランチする事になった。
注文して10分足らずで運ばれてきた、ツナとトマトのパスタを見ながら、友達におごってもらうのって好きじゃないのにとこぼすと、すぐに強い口調が飛んでくる。
「私が無理やり誘ったんだからいいじゃない。それに、お腹もすいてたでしょ?」
「なんかでも久しぶりに会うのにおごらせるって悪いよ。
やっぱり自分の分は自分で払うから」
「いいって言ってるでしょ。私の顔つぶす気?」
向かいの席に座る佐和ちゃんにそうすごまれて、思わず笑ってしまう。
別にここは佐和ちゃんの行きつけのお店ってわけでもなさそうだから、顔を立てる必要もないのだけど。
ここまで言ってくれてるんだし、第一、佐和ちゃんが私の制止を払いのけて私の分まで注文してしまうから、もう料理は目の前なんだし。
ここは素直に甘えようと、いただきますと手を合わせた。
「今仕事してないって、派遣期間が終わったって事?」
そう聞く佐和ちゃんに、苦笑いを返した後、つい昨日和泉くんにしたような説明をする。
元カレの浮気から始まって、会社からクビを言い渡された挙句、自分の部屋からも追い出されてしまったところまでの一連の流れをサラっと。
途中から佐和ちゃんの眉間にシワが寄りっぱなしだって事は気づいていたけど、とりあえず話し切った後、困るよねと笑うや否や、佐和ちゃんがカっと目と口を大きく開いた。
「ありえない! なにその彼氏と女……っ!
百歩譲って、ダメ男と別れられたのはいいよ。どうせそんな男といくら一緒にいたところで泣かされるだけなんだから、浮気してくれてよかったよ。
でも、その後の事全部何なの?!」
ありえない!ともう一度大きな声で言う佐和ちゃんに周りから視線が集まるから、何でもないんですーと笑顔で周りを見てから佐和ちゃんに顔を寄せる。
「佐和ちゃん、声のボリュームおとしてくれないと、今ランチタイムで満席なんだから」
「……莉子。あんた、そんなひどい仕打ち受けておきながら周りの目なんて気にしてる場合?
もっと違う事気にしなよ。
例えば、男を寝取った女と、いい年して仕事中に無視とかする低能な女たちへの報復とか」
「だから、報復とかは別にいいんだってば。もう私が辞めて落ち着いてるだろうし」
「あっちが落ち着いてても莉子は落ち着いてないんだから巻き込んでやればいいじゃない。
っていうか、なんで何も言い返したりやり返したりしないの? 私なんて聞いただけで頭が煮えくり返りそうなんだけど!」
「だって……」
何も返せずに、苦笑いだけ浮かべていると、それを見た佐和ちゃんは怒りを大きなため息に乗せて逃がす。
それから私と同じように苦笑いをこぼした。
「まぁ、そうよね。莉子だもんね。
本当に損な性格よね。なんでも飲み込んじゃうんだから」
高校の頃から仲がいいから、佐和ちゃんは私の性格も言いたい事も全部お見通しだ。
だから、私の代わりに怒ってくれる事はあっても、私に何かを強要したりはしない。
今の事だって、言い返したりやり返したりするべきだって言っても、それを私に強制したりはしないから一緒にいてすごく楽だ。
私が人に強く言ったり困らせたりするのが苦手だって事を、佐和ちゃんは知ってるから。
「で、今どうしてるの? 実家?」
パスタそっちのけで心配そうに聞いてくる佐和ちゃんに、どう答えようか少し悩む。
事実を言う事で和泉くんに迷惑がかかるんじゃないかと思って。
だけど佐和ちゃんは信頼できるし口も堅いから、口止めしておけば問題ないと判断した。
今まで元カレに散々好き放題されて信頼関係なんてこれっぽっちも築けた事のない私が、信頼なんて言葉を口にするのもおかしいのかもしれないけれど。
でも、六年間一緒にいても、佐和ちゃんは私を裏切った事はないから。
「佐和ちゃん、和泉くんって覚えてる?」
「覚えてるよ。莉子がだらだら片思いしてた和泉でしょ。
手紙書いたのに受け取ってもらえなくて、しばらく凹んでるうちに留学しちゃった外見内面共にパーフェクトに近い和泉」
「そう。和泉くん、こっちに戻ってきてるみたいでね、実は昨日の夜偶然会って」
「え、そうなの? どうだった? 相変わらず甘い顔と雰囲気でハーレム作ってる感じ?」
驚いた後、楽しそうに聞いてくる佐和ちゃんに、苦笑いを浮かべる。
「ちょっと変わったかなぁ。
昔みたいな、ただ黙ってるだけでも溢れてくるような柔らかさはないかも」
和泉くんを思い浮かべながら答える。
「え、そうなの? まだ離れて五、六年なのにそんなに変わるもん?」
驚いてそう聞いた佐和ちゃんだったけど、私が答えるよりも先に「まぁでも留学なんてしたんだから多少は変わるのか」と自己解決してしまう。
「家も確か資産家だったし、色々あるのかもね。外見は?」
「面影はある感じかな。
佐和ちゃんの知ってる和泉くんを無表情にして、もう少しシャープな顔立ちにした感じ。
でも、顔立ちが整っているのは相変わらずだしモテそうだけど。
たまに笑うと、甘いマスクって言葉も似合うし」
「ふーん。あの、常にニコニコしてた和泉が無表情とか想像もつかないなぁ。
高校二年生で留学したっきりだし、成長遅い男子なんて特にそれからが成長期なんだろうし、顔つきも多少変わるもんなんだろうけどなんか不思議」
そう言いながらようやくパスタをフォークに巻き付け始めた佐和ちゃんを見て、私もフォークを持つ。
テーブルに到着してから随分放置されたパスタをフォークにくるくるしていると、佐和ちゃんが、和泉くんと何か話したのかを聞いてくる。
「家庭の事とか仕事の事とかかな。あまり突っ込んだ話しちゃ悪いからそういう話はしてないけど、会社員だって言ってた」
「まぁ、十中八九、自分ちの会社の社員だろうけどね。
留学までしてるんだから、向こうで色々学んでるだろうし、建物の作り方とか外観とかに生かしてるんじゃない」
「そうかもね。なんかでも……内面も結構変わった感じだったかも。
変わったっていうか、心を閉ざしちゃった感じっていうか……冷めちゃったというか」
「え、あの和泉が?」
「うん。だから、無表情になっちゃったんだろうけど。
なんか話してると少し悲しくなるような雰囲気だった」
信じられないといった風にポカンとした顔をしている佐和ちゃんに、苦笑いを作った。
「疲れてるのかもね。高校の時と違って仕事もあるし」
「それはそうかもしれないけど……そんなに変わる?
高校からの男友達にたまに会うけど、みんな多少はしっかりしても集まると割とそのままだけどなぁ。
莉子のいう和泉って、聞く限りなんか別人みたいな変わりようじゃない」
大丈夫なの?と顔をしかめられて、なんとか微笑んだ後目を伏せる。
和泉くんの様子がおかしい事には、再会してすぐに気づいた。
変わってるとかそういう以前に、なんだかぴりぴりしている雰囲気を感じたし、まるで無表情の仮面でもつけたように笑わない和泉くんは、いつでも戦っているように見えたから。
私には見えない何かと。
分からないけど……何かに追い詰められてる。
再会して間もない私に何が分かるんだって言われればその通りだけど。
率直にそう感じた。
「性格が変わっちゃうほど悩んでるんじゃないかなんて私の勝手な思い込みかもしれないし、もし本当にそうだったとしても和泉くんは私に入り込んで欲しくないんだろうなっていうのは分かってるんだけど……和泉くんの感情のない目を見て、力になりたいって思っちゃった」
「私、高校の時から全然成長できてないのかも」と笑うと、すぐに「なんで?」と返されるから、高校の頃の自分を思い出しながら話す。
「高校の時は、自分の気持ちを考えるだけで精一杯で手紙を押し付けようとしちゃって、今は、助けたいって気持ちを押し付けようとしてるから。
ただ、迷惑になるのが分かってるから何もしていないだけで、思考回路の単純さは変わらないみたい」
和泉くんは私に優しくしてくれた。
手を差し伸べてくれた。
けど、だから恩返しをしたいわけじゃなくて、例え和泉くんが私に優しさのかけらも向けてくれなかったとしても、この気持ちは同じだったと思う。
ひとりぼっちみたいな、感情をどこかに置いてきてしまったような瞳をしている和泉くんを、助けたい。
私なんかがそんな事を思う事自体、図々しいのは分かっているし、望まれていない以上ただの迷惑だって分かるけど。
そう思う気持ちは消せなかった。
ダメだね、と笑うと、佐和ちゃんはにっこりと優しい微笑みでこちらを見た。