本当に……和泉くんじゃないの?
聞きたいけれど、声が出ない。
動揺している私を安心させるためにか、和泉くんはわずかに微笑んで話を進めた。
「本当の和泉孝広が先週海外から帰ってきてる」
「え……?」
「王子だなんて思うほど、好きだったんだろ?
高校の時からずっと……。
会いたいなら、孝広の電話番号を教えるよ」
答えられずにただじっと見つめていると、和泉くんがツラそうに顔を歪めながら微笑んだ。
本当になんとか笑ってるって感じで。
「ごめん。本当なら莉子を抱く前に事実を言うべきだったのに、どうしても気持ちを抑えきれなくて……。
騙すような事をして本当に悪かった」
ツラそうな表情で頭を下げた和泉くんに、口を開いた瞬間。
私の携帯が鳴った。
和泉くんとの会話と電話、どちらをとるべきか悩んだけれど、静かな部屋に響く着信音に急かされるようにポケットの中から携帯を取り出した。
佐和ちゃんからの着信だと確認してから携帯を耳に当てる。
途端に、大声が耳をつんざく。
『莉子?! あんた今どこにいるの?!』
「え……ああ、こないだ話したでしょ?」
『和泉んとこ?!』
「……うん。どうしたの? そんな慌てて」
佐和ちゃんは割といつもテンション高いけど、それとは別みたいに思えた。
テンション高いっていうか、私がいつもツッコまれるような事ばっかりしているから、佐和ちゃんがそうなるのかもしれないけど。
和泉くんの様子が気になってチラチラと視線を向けながら佐和ちゃんの質問に答えていると、電話の向こうで佐和ちゃんが聞く。
その声は、さっきまでの勢いのある声とは違っていた。
『私、今偶然和泉に会ったんだけど……和泉、先週まで海外にいたし莉子とは会ってないって言ってたんだけど』
深刻そうな声のトーンに、え……とだけ声をもらすと、佐和ちゃんが続ける。
『嘘ついてるんじゃないかと思ってしつこく延々と聞いてたら、パスポート見せてくれたんだけど、確かに本人だったし入国の日も先週になってた』
佐和ちゃんの言っている意味が理解できなくて、何も返せない。
なんで、みんなして同じ事を言うの……?
だって和泉くんは目の前にいるのに……なんで別人だなんて言うの?
それを信じろなんて……。
『莉子が嘘だって思うのも分かるけど、私が今会ったのが本当の和泉だよ』
だって、じゃあ――。
『莉子、あんた誰と暮らしてるの?』
私は、誰に恋してるの……?
私が恋に堕ちた貴方は……。
誰――?
とりあえず今すぐ出てこいって言った佐和ちゃんが、待ち合わせ場所に駅を指定して電話を切る。
無理やり通話終了状態にされた電話に、耳から離した携帯をぼんやり眺めていたところで、隣からの視線に気づいた。
「佐和ちゃんからだった……。
ほら、高校の時同じクラスだった佐和ちゃん。
和泉くんも覚えてるでしょ……?」
そうであって欲しいと思いながら聞いたけれど……。
和泉くんは頷きはせずに、申し訳なさそうに微笑むだけだった。
その表情に、諭された気分になって……胸がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。
和泉くんは、本当に和泉くんじゃないんだって……そう言われた気分になった。
「私、ちょっと出てきてもいい?
佐和ちゃんが今……和泉くんと一緒にいるからすぐこいって」
恐る恐る言うと、和泉くんは少し驚いた顔をした後、もちろんと微笑む。
「夜から雨が降るらしいから、遅くなるようなら傘持って行った方がいい。
あまりひどいようなら迎えに行くから連絡しろ」
いつも通りのトーンでそう言う和泉くんが玄関まで来てくれる。
靴を履いたところで振り向くと、優しく微笑まれた。
「夕飯の事は気にしないで、ゆっくり行ってきていいから」
「……ありがとう」
たった五文字言うだけで、泣きそうになるくらい苦しかった。
頭が混乱したままで、何で泣きそうになったのかも分からないけど……こみ上げてくるたくさんの感情が溢れそうになる。
信じていたものを嘘だって言われて、何を信じればいいのか何が本当なのかも、よく分からない。
それでも、和泉くんを……この人を、好きだって事だけは本当だと思うのに。
和泉くんが、それは私の勘違いだと私の気持ちごと否定するから……どうすればいいのか分からない。
本当に和泉くんじゃないの……?
和泉くんは目の前にいるのに、それを嘘だなんて言われても頭がついていかない。
……ううん。和泉くんの言葉や佐和ちゃんからの電話の内容で、本当はどういう事なのか分かってはいる。
いるけど……。
「もし……もしも、和泉くんとか佐和ちゃんの話が本当だったら。
私は和泉くんをなんて呼べばいいの?」
間の抜けた質問にとられたのか、和泉くんは拍子抜けしたみたいでわずかに笑ってから「どうとでも」と答えた。
「奏一……って言ってたよね」
「……ああ」
「奏一くんと……奏ちゃんだったら?」
「前者。……莉子、俺の事はもういいから。
孝広が待ってるんだろ、早く会った方がいい」
そう優しく言う和泉くん……奏一くんに言われるまま家を出た。
アドバイスされた通り、傘を持って。
きっと佐和ちゃんの勘違いで、和泉くんは和泉くんなんじゃないかな。
そう思い込みたい自分と、和泉くん……奏一くんの優しさ。
それと、佐和ちゃんの言葉と、それが引っかかってる頭。
奏一くんへの、好きの気持ち。
色んなモノに板挟みされて、息が苦しい。
駅前までの道をのんびり歩いているなんてできずに走って向かった。
夜から雨が降り出すっていう空には厚い雲がかかっていて、そんな天気も息苦しさを助長されているみたいに思えた。
さっきまであんなに幸せな気分だったのに……。
青天の霹靂なんて言葉、初めて使うけどまさにそんな感じだ。
頭上に分厚く広がる雲に、心が押しつぶされそうで、そんな不安から逃げるように走った。
佐和ちゃんが指定した駅近くのカフェは賑わっていて、その中から佐和ちゃんを探し出すのは大変な作業だった。
気持ちばかり焦って全然見つけ出せないでいる私に気づかせるように佐和ちゃんが立ち上がって手を振ってくれて、やっと気づけたほど。
それはお店の込み具合というよりは私の精神状態の問題だったのかもしれないけど。
佐和ちゃんの隣に、一緒にいるハズの和泉くんの姿がなくて、少しホっとしてしまう。
席に着くとすぐに、佐和ちゃんが「これ見て」と携帯を差し出した。
画面に映る男の人を見て……懐かしさがじわじわと広がっていく。
「これ、和泉くん……?」
「そう。本当のね。今トイレ行ってるけど、すぐ戻ってくるから」
画面に映る和泉くんは、昔と変わっていなかった。
人懐っこい笑顔でこちらを見ている。
高校一年生の時のまま大人になった、本当にそんな感じだった。
そして……やっぱり、奏一くんと似ていた。
奏一くんを愛想をよくして目尻を少し下げればうり二つだ。
今まで緊張していたくせに、懐かしさから自然と笑みが浮かぶ。
「とにかく、電話で話した通り、私が会ったこの和泉が正真正銘の和泉孝広よ。
莉子が今一緒に住んでる男が誰だか知らないけど、いいように騙されてるんじゃないの?」
「奏一くんは……私を騙したりなんかしてない」
「奏一? それ、一緒に住んでる男の名前?」
「……うん。奏一くんも自分は和泉くんじゃないって言ってた。
騙してて悪かったって……」
まだ信じ切れない思いで言うと、佐和ちゃんは「やっぱりね」とオーバーリアクションをする。
「ほら、騙してたわけでしょ。和泉だって言い張って他人を装ってたんだから」
「でも……それは、私が勝手に和泉くんだと思ってたから合わせてくれてるだけかも」
「なんで見ず知らずの他人が莉子に合わせて和泉を演じる必要があるのよ」
「それは……っ」
「――莉子?」
声を張り上げた時、後ろから名前を呼ばれた。
振り向いた先には……高校の頃のままの和泉くんがいて、思わず言葉を失う。
信じられない思いと、こみ上げてくる懐かしさで返事すらできなくて……。
そんな私を見て、和泉くんは嬉しそうに笑った。
「うわー、懐かしいな。俺の事覚えてるか?」
隣の席に座りながら聞く和泉くんに、戸惑いながらも頷く。
「うん。覚えてるよ……和泉くんだよね?」
「そうそう。莉子変わらないなー。高校ん時のままだし、そのまま制服着ても違和感ない」
「和泉くんも……全然変わらないね。びっくりした」
色んな意味を込めてのびっくりしたって言葉だったけど、和泉くんはお世辞と取ったのか嬉しそうに笑った。
店員さんが来て、三人分のオーダーを取って席から離れたのを確認して、佐和ちゃんが話し出す。
「和泉、この後予定ないっていうから無理やり誘ったの。莉子に会わせたくて。
ほら、いくら口で説明しても、莉子は一緒に住んでる男を和泉だって信じ切ってたから。
でも、こっちが正真正銘の和泉だったでしょ?」
本当の和泉くんだ。間違いない。
だけど……ここで頷いてしまったら、奏一くんを否定してしまう事になる気がして頷けなくて。
そんな私に和泉くんが笑う。
「なんだよ、本当の和泉って。他に何人もいるって事?」
「莉子ね、今、和泉って男と一緒に暮らしてるのよ。
莉子はずっとその男が和泉本人だと思って暮らしてたのに、急にあんたが現れて別人だってなったから、動揺してるの」
佐和ちゃんにざっくりとした説明を受けた和泉くんが顔をしかめて私を見る。
「莉子、俺だと思って一緒に住み始めたのか? 同姓同名って事?
……いや、でもその前に普通気づくだろ。よく知りもしないで一緒に暮らし始めたわけじゃないんだろ?」
和泉くんの疑問はもっともだったけど、それに答えるだけの余裕は今の私にはなくて。
「和泉くんだと思って住み始めたけど……さっき、初めて下の名前聞いて、奏一って言ってた……」
まだ混乱中の私が言えたのは、和泉くんがした質問の答えには半分も満たない、そんな言葉だけだった。
奏一くんが騙そうと嘘をついていたのかは分からない。
もしかしたら言いそびれてただけかもしれないし、悪意なんて絶対にないって言い切れる。
第一、和泉くんは自分から下の名前を名乗ったりもしなかったし、きっと本当に言いそびれちゃっただけだ。
私も本当だったら聞くべきだったかもしれないけど、あの家では必要なかったから聞こうとすら思った事がなかった。
奏一くんがいて、私がいればそれだけでよかったから。
それは、奏一くんが和泉くん本人だって信じて疑わなかったからだって言えばそれまでだけど……。
それだけだろうか、とふと疑問に思う。
信じて疑わなかったってだけで、本当に私は何も引っかかっていなかったのかな。
だって、本当に別人だったとすれば、暮らしていく中で違和感だって絶対にあったハズだ。
いくら五年のうちに変わったって言ったって、それだけじゃ説明できないような違いだって、きっと……。
なのになんで私はそれを見逃してきたんだろう。
私は本当に奏一くんの全部を“和泉くん”として見てたの……?