「影……?またそのことかよ」
ギルシードはもううんざりだ、とでも言うかのような口調で呟く。
ロイも知らなかったのか難しい顔をしていた。
「ええ。あなたが調べたことに関連があるのは間違いないわね。彼女が影の世界で倒れていたのを偶然ブランチの仲間が発見した。そのときにはすでに影が無かったらしいわ」
「僕たち医学者でもそんな事例見たことないから、手の施しようがなくてさ」
グレンがルカンさんの隣に歩み寄って付け足す。
彼もまた、目の下に隈ができていた。
俺たちは促されるようにしてシーナのいる病室に入った。そこには寝台のベッドが一台と、点滴がぶら下がった柱。
そして、そこから伸ばされているチューブの先に、白くて細い彼女の腕があった。
「シーナ……」
俺は呆然としたままつかつかと近づく。そして顔を覗き込んだ。
そこには、比較的穏やか、だがやつれたようなシーナの寝顔があった。
確かに掛け布団が上下に動いているのはわかる。そして、彼女の口を塞いでいる酸素を送る、透明なマスクにも白い息が吹きかかっている。
しかし、ぴくりとも動かない。
「これを見てちょうだい」
ルカンさんが点滴がついていない方の彼女の腕をベッドからずらした。
ベッドの下には、上から照らされている照明によって影ができるはず……なのだが。
そこには、影は映っていなかった。
「こんなのがあり得んのかよ!」
「そうよ。彼女には影がない。そして、ロイが発見した事実。これらは絶対に関係しているのよ」
「瞼を開けて眼球を見たら眼球は小刻みに動いていたよ。だから彼女は、夢を見てる」
「夢を?」
「うん。何を見てるのかはわからないけどね」
グレンは小さく頷いた。ロイは何かを考えているのだろうか、どこかを見つめたまま固まっている。
俺は最悪な状態しか思い浮かばなかった。
……彼女もまた、記憶が無くなってしまうのか。
それは避けたい、が、恐らく避けられない。
なぜ、こんなことになるのだ……?
俺はため息を吐くことさえ忘れ、ただただ彼女の寝顔を見つめていた。
『彼女を、助けたいか?』
ふと、そんな言葉が頭に響いて来た。俺はびくっとした後、後ろを振り返る。
そこには、男の子がいた。しかし、幼さはなく、凛とした光をその瞳に宿している。
その容姿はまるで……
『彼女を、助けたいか?』
口を動かさず、そんな声がまた聞こえて来た。やはり、あの男の子が語りかけている。その声は容姿に釣り合わず、男性特有の低い声だった。
「当たり前だ」
『ならば、我らに手を貸せ』
「我ら、だと?」
『おまえたちが呼ぶ、我ら魔物に』
男の子は俺の目を真っ直ぐと見ながらそう言い放った。
俺と同じ、黒い目をして。
男の子は俺に近づいて来た。紺色の髪を微風で揺らしながら歩いて来る。
「魔物に、手を貸すだと?」
『気づかないか?ここは影の世界なんだぜ』
「……!」
言われて今気がついた。ルカンさんもグレンも、いつの間にかシーナの身体でさえもない。
俺は背中に無意識に冷や汗をかいていた。
『ロイとギルシードにも同じ話をしている』
「彼らにも……?」
『ここは俺たちしかいない。俺だけが使う空間。そこにおまえを引きずり込んだ』
「何が目的だ」
『おまえたちが先ほどまで騒いでいた、適応者のこと、その他諸々をこうやって教えに来てやったのさ』
「は……?」
『俺のことは覚えていないよな……』
「どういうことだ?おまえは誰だ?」
『それも含めて話そう』
男の子は病室にある椅子に腰かけた。目線で隣に並んでいる椅子を示す。どうやら俺も座れ、ということらしい。
俺は素直に従い、2つ離れた椅子に座った。横目で男の子をちらっと見る。彼は優雅に脚を組んだ。
『単刀直入に言おう。俺の影の一部はおまえの身体にある』
「……」
『ロイが見たあのことだ。しかし、俺はそこら辺にいる魔物……じんるいとは違う』
「じんるい?」
『おまえたちは人の類、我らは神の類。だから神類だ。したがって、デカル教の教えはあながち間違っているわけではない。
が、合っているわけでもない』
「曖昧だな」
『事実、我らはこの世界ではあやふやな存在だ。神類はもともとこの世界の住人ではない』
「なんだと……?」
彼は腕を頭の後ろに組みながら静かにそう告げた。
俺は思わず立ちそうになるのを堪えた。立ってしまえばさらに頭が混乱するような気がしたからだ。
『俺たちは別の世界からやって来た異界人だ。その世界の神は我らを造った。神に似せた力を持ち、容姿も同じだった。しかし、この世界にやって来てしまった我らは容姿を保てなくなり、無様な姿となり果てた』
形状を保てなくなりあんな姿になったというのか。忌々しいにも程がある、あんな醜い姿に。
「では、おまえはなぜそんな姿をしている」
俺は迷わずに問いかけた。俺の昔の姿をしているおまえは、一体何者なんだ。
『我らの分身は、我らの本来の姿を見ることができる。それすなわち、おまえたち適応者は、我らの化身。他人には無様な姿を晒しているが、化身には本来の我らの姿をその目で確かめることができる』
「だから、そんな容姿をしているのか……?」
『左様。そして、我らにも我らの派閥がある。人間を守る我らと、人間を喰らう奴等だ』
「奴等……普段俺たちが駆逐している魔物はおまえの言う奴等なのか?」
『左様。我らの派閥が、適応者を生み出しているのだ』
そして、彼は驚くべき真実を告げた。
適応者はその奴等を倒してもらうべく、彼らがわざと生み出しているのだ、と。
つまり、力を持った者を生み出し世に送り、奴等の敵となる。が、その力の分、奴等に狙われてしまう。
彼ら神類はこの世界に来てからというもの、衰退していく一方だった。それを素直に受け入れる派閥が彼ら。それを拒み足掻いている派閥が奴等なのだそうだ。
奴等は力を求め、人間を喰らう。そしていつかはこの世界を乗っ取る気でいるらしい。
それを阻止しようと、彼らは動いた。俺たち適応者を生み出し、奴等に対抗できる人間を造り出したのだ。
そして、彼らにはある力をまだ使えることが判明した。
それは、記憶操作。
影をいったん取り出し、書き換え、魔物は怖い存在だと覚えさせる。しかし、影を分け与えた魔物と遭遇した場合は、人間そのものにしか見えない。
そのため、その人間の前に影の親は二度と現れてはならないという決まりを作った。もし遭遇してしまったら、化身は混乱し危険な状態に陥ってしまう。
それを避けるため、今まで彼らはこうして会わずにいたのだが……
『我らは幼き頃に化身との接触を始める。影の世界と現実世界との行き来に馴れさせるためだ……どうだ、この辺で理解したか?我らと適応者の関係を』
「受け入れ難いがな」
『それは無理もない。敵が敵を造っているなどと聞けば矛盾が生じる。しかし、味方が適応者を造ったとすれば辻褄は合う。
さて、本題に入ろうとしよう』
彼は脚を組むのを止め、後ろに回していた腕を膝の上に置き指を組むと、背中を丸めた。
顔は正面に向けたまま話し始める。
『彼女……シーナが奴等に人質にされてしまった』
「なに?」
『彼女の神類は我らの中で最も力のある持ち主。リーダーと言える存在だ。彼女の化身が人質となった今、我らは成す術がない。そして、そのリーダーは1年程前に、消滅してしまった』
「消滅……だと?あり得るのか」
『あり得ないわけがないだろう。我らは神類と詠われる存在だが、神ではない。永遠を誓えない命がここにある』
と、彼は自分の胸に手のひらを添えた。そして、服をそのままぎゅっと握る。
『俺たちは、いつも行動を共にしていた。しかし、彼女は我らを守るべく力を使い続けた。奴等は人間から力を得ていたが、我らは力が減る一方だ。そして、遂に彼女は……』
彼は手を離すと、ガクッと項垂れた。肩が少し震えているようにも見える。
彼はそのまま声を絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
『彼女は最期の力を振り絞り、シーナに会いに行った。しかし、シーナは彼女の姿を認識できなかった。それどころか、恐怖の対象としか見ることができなかった。それほど彼女の力は弱まっていたのだ』
俺の頭の中の回路がぴたりと合わさった。
それは以前、あのトンネルを初めて通ったときの出来事だろう。
シーナはおぞましい姿の魔物に追われたと言っていた。そして、辺りは暗くなく白かった、と。
その魔物は力が弱まってはいたものの上級を超える存在だったため、影の世界のその通路を使ってシーナに会いに来たのだ。
しかし、シーナに拒まれた。
そして、そのまま消滅してしまった。
『……彼女がいなくなってからというものの、奴等の行動は激化していった。おまえらも感じているだろう。魔物の出現頻度が増していると』
「あ、ああ……」
『そして、シーナは人質とされてしまった。我らは動きは封じられたのだ。もしまた適応者を生み出すのであれば、シーナの命はない、と。奴等にはデカル教の人柱があるため、不自由していない』
「……それは、俺も見た」
人柱……本拠地と見られる教会に潜入したところ、見たくないものを見た。
それは、深夜に行われる儀式。教会の中は闇に閉ざされ、外界の光は一切入ってこない。あるのは、人柱となる人間の足元に置かれている数個の蝋燭の光。
5人の人柱が言葉そのままに、柱にくくり付けられた。頭には布が被せられている。
しばらくして、蝋燭の火がゆらゆらと揺れた。そして、いきなり人柱は柱諸とも魔物によってあっという間に消えた。
俺は壁の向こう側にいるトリカに合図し、影の世界に行くように言った。
その間も、信者たちは動じることなく手を組み膝立ちのまま静止していた。
俺は気味が悪くなり、こっそりと教会から出た。そして、俺も影の世界へと赴いた。
そこには、トリカだけが呆然と立っていた。
「どうした?」
「魔物が……人柱を連れてったよ。可愛い女性には鼻息を荒くして」
うげー……と口で言いながら俯くトリカ。
「抵抗はしていたか?」
「それがさー……してたんだよね。特にその鼻息を荒くされた女性は。断末魔の叫びってあんな感じなんだね」
ま、助けなかったけどさ、とそっぽを向きながら口を尖らせる。
俺たちは隠密に調査をしているのであって、決して手を出してはいけない。例え、救える命がそこにあったとしても……
トリカも俺も、助けたかったのは山々だがバレてしまうと後々厄介になるため見過ごした。
……それは、とても後味の悪い現実だった。