「ご飯はいるの?」
母親は不機嫌そうな声で言った。
璃梨のテストの成績が気に食わなければ、しばらくは機嫌が悪い。
それを解消するには学校や塾の小テストなどで満点を取らなければならない。
もちろん、部活やバイトなどはさせてもらえない。
こずかいはたんまり貰っている璃梨だが、平日の昼は学校、平日の夜と学校が休みの日は一日中塾か図書館にいるので、金を使う時間がないのだった。
「いらない」
塾から家に帰ってくるまでは空腹を感じていたが、母親の声を聞いている内にすっかり食欲がなくなってしまった。
「あ、そう」
冷たい反応だった。
璃梨は母親に聞こえないようにため息をつき、リビングを出た。
階段を上がり、唯一の安らぎの場所とも言える自室に入る。
しかし、そこにも娯楽はほとんどない。
マンガ、テレビ、パソコンも一切禁止されている。
携帯電話は持たされているが、毎日欠かさず母親のチェックが入る。
メモリーに入っているのは、両親と数人の友達だけだ。
その友達というのも、母親が選んだ。
あの子と友達になりなさい、と。
そんなもので本当の友達になれるはずもなく、璃梨には気心の知れた友達というものが一人もいなかった。
彼氏など、もってのほかだ。
着替えの為、クローゼットを開いた。
服は、母親が勝手に買ってくる。
璃梨の部屋のクローゼットには、ズボンは学校の体操服しか入っていない。
あとは全て母親の買ってきた少女趣味の服ばかりだ。
テレビも雑誌も見る事はないが、それでもその服が今の流行りからはほど遠いものだという事くらいはわかった。
そんな物を身につける気分になれなくて、璃梨は制服のままベッドに横になった。
「璃梨がまた全教科満点じゃなかったわよ。あなたのせいよ!」
母親の声で目が覚めた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。
「何で俺のせいなんだ!」
父親も母親に負けじと大きな声を出す。
「あなたが子育てを手伝わないからよ!」
母親の声と同時にガシャンという大きな音が鳴りい響いた。
どうせまた母親が皿でも投げたのだろう。
「子育てって・・・璃梨はもう自分で何でも出来る歳だろう?お前は璃梨に構いすぎなんだ!そういうのを過保護っていうんだよ!」
過保護?そんな可愛いものではない、と璃梨は思った。
調教や服従にも匹敵するのではないかと思っている。
「あの子はまだ子供よ!私が全部決めてあげなきゃならないの!あなたはいいわよね。お金さえ持って帰ってくればいいんだから!」
「金を持って帰るのが俺の仕事だ!璃梨の事はお前に全部任せると最初に言っただろうが!」
最初って、いつの事なんだ。
璃梨は再びベッドに潜り込み、耳を塞いだ。
全部決めてあげなきゃならない?
誰がそんな事頼んだのよ。
あんたが自分の願望を勝手に押し付けて、勝手に怒ってるだけじゃない。
金を持って帰るのが俺の仕事だ?
あんたはそれだけじゃない。
あたしには何の興味もないくせに。もう聞きたくない。
階下ではまた両親が言い争っている。
力いっぱい耳を塞いでも、母親のヒステリックな奇声と父親の地響きのような怒声が、璃梨の耳にはしっかりと届いていた。
聞きたくない・・・。
聞きたくない・・・。
璃梨はベッドから起き上がり、そのまま部屋から飛び出した。
わざと大きな音を立てて階段を下りる。
乱暴にリビングの扉を開けた。
「うるさいっ!」
そう叫ぶと、すぐに玄関へと走った。
「璃梨!なんて事言うの!」
母親がリビングから出てきた。
璃梨が靴を履いている姿を見た母親は焦った。
「どこへ行くの?!戻りなさい!」
璃梨は母親を一瞥すると、そのまま玄関の扉を開け、外へと飛び出した。
もう嫌だ。
あんな家には帰りたくない。
どれだけ言いなりになっても、どれだけ自分を誤魔化しても、報われない。
必死で自分を殺して、殺して、殺して。
それでもまだ足りないと母親は言う。
まだ死んでいないと言う。
自分の意志を持ってはいけないのか。
それならいっそ、本当に死んでやろうか。
後悔すればいい。
服従させられない人形もあるという事を教えてやろうか。
璃梨は走り疲れ、夜の繁華街をふらふらと彷徨っていた。
学校では、絶対に行ってはいけないと念を押されている場所。
何故ここに来たのはわからない。
ただなんとなく辿り着いたのだった。
ラブホテル『PEACH』、ファッションヘルス『青い真珠』、ホストクラブ『K』、ライブハウス『クラッシュガン』、大人の玩具館、DVD試写室。
辺りを見渡せば、ネオン、ネオン、ネオン。
夜だというのに、昼間の様に明るい。というより、この場所に限っては昼間より賑やかで明るい気がする。
道路にはタバコの吸い殻や乾いた吐瀉物、風俗店の宣伝広告なんかでこれでもかというほど汚れている。
綺麗な場所の方が少ないくらいだ。
何故か、生臭い。
魚屋なんてないのに。
璃梨の隣を通り過ぎる人間たちは、その光景を当たり前のように感じているのだろう。
みんながみんな楽しそうに笑っている。
それが本心かどうかなんて、もちろんわからない。
関係のない事だ。
別にわからなくても損はない。
勢いで飛び出して来ていたので、璃梨はまだ制服を着たままだった。
だけど、制服姿の人間は璃梨だけだはない。
イメクラ『桃色学園』。
真っ黄色の看板に真っ赤な文字でそう書いてある。
『桃色学園』という名なのだから桃色にすればいいのに。
目がチカチカする。
その店の外では、明らかに十代ではないような女がセーラー服やブレザーに身を包んで笑顔で客寄せをしていた。
女の一人が璃梨に目を向けた。
だが、一瞬見ただけですぐに何事もなかったかのように客寄せを再開した。
彼女たちにしてみれば、璃梨のような人間がこの辺を彷徨っている光景もまた、当たり前の事なのかもしれない。
もしかすると、彼女たち自身もそうであったのだろうか。
彼女たちに目を奪われていた璃梨が前方に視線を戻すと、目の前に大きな男が立っていた。
避ける暇もなく、その大男に真正面からぶつかった。
璃梨の身長は高い方だったが、後ろに飛ばされ、尻もちをついた。
「あ、ごめんね。立てる?」
大男は意外にも優しい声で、手を差し伸べた。
璃梨は遠慮がちに大男の手を取った。
ひょいと持ち上げられる。
「大丈夫?怪我はない?」
大男は心配そうに璃梨の顔を覗き込む。
「あ、はい。大丈夫です」
「それなら良かった。でも、高校生がこんな所にいたら危ないよ。早く家に帰りな。じゃぁね」
大男はそう言って、すぐにその場から立ち去った。
大男を目で追う。
すると、さきほどの制服の彼女たちがいた『桃色学園』の向かいにあるビルの中に入っていった。
璃梨は思わず追いかけた。
別にあの大男がどうというわけではなく、ただ反射的に身体が動いてしまったのだ。
ビルは五階建てだった。
いろんな店が入った雑居ビルらしい。
ビルの案内板を見た。
一階の中華料理屋を除けば、あとは全てがいかがわしい店らしかった。
しかし、地下一階に入ってる店の看板を見た瞬間に、璃梨の足は地下へ続く階段へと伸びていた。
直感としか言えないようなものを、璃梨は感じていた。
あの大男がこのビルの何階に用事があったのかはわからないが、璃梨には地下へ行くという選択肢しかなかった。