『気分は?』
『…お手数を…』
『構わない。もう少し落ち着いたら、一緒に食事でもしよう』
身を小さくする陽菜を、抱き締め直す。
『私はヒナと食事がしたいんだ。付き合ってもらえるね?』
声色は優しくはあるが、強引な台詞。
『受けにくいと言うならば、こうして抱えていた詫びとして同席してもらおう。一人の食事は味気ないからね』
陽菜に理由を与えると、不承不承頷いた。
「アリー」
ドアに向かって呼び掛ければ、外から返事があった。
「ヒナの為に着替えを用意してくれ。食事はそれからだ」
「御意に」
入室する事なく、指示だけする。
『着替えを用意させている。暫くこのまま我慢してくれ』
そっと髪を撫でられて囁かれると、どこか落ち着いた。恋人でもない男と寝るのはそれが暴行ではなく、望んだ上である事をその身に刻み、過去を上塗りする為だった。忘れようと何度も努力した。だが無駄な事…忘れられないなら、混濁させてしまえ。そうして陽菜は数多の男と躯だけの付き合いを重ねて来た。その策はうまくいっていた…今日まで。
アズィールの言葉は英語であったにも関わらず、翻訳されてみればあの記憶の中とぴったり一致した。
『ヒナ…まだ、私が怖いか?』
『…ぇ?』
『まだ震えている…知らぬうちに抉り煽ってしまったようだ』
落ち着いたと自身では思っていたはずが、アズィールに言われて気付いた。
『私とした事が…君を苦しめてしまったね。許してくれるかい?』
『殿下…原因は私に…』
『いや…君に非はない。紳士的な振る舞いに欠けていた私にあるものだから』
その声音に宥められて、次第に震えは収まっていく。
『震えは収まりつつあるようだね…気分は落ち着いたか?』
『はぃ…ありがとうございます、殿下』
『ヒナ…今はその呼び方を控えてくれまいか?私には【社長】と【殿下】以外に名があるんだよ』
『え…あ……』
頬に添えられた男らしい掌。その親指が唇を撫でて促す。
『アズィール…様』
『ヒナ』
咎めるような口調に、陽菜は困り果てたように口を開く。
『…アズィール』
『ヒナ、いい子だ』
あやす優しさで額にキスされた。ふとドアがノックされ、アズィールは陽菜の露出がないかを確認してから許可をする。目を伏せたアリーはアズィールに衣装を差し出し、そのまま部屋を出る。
『着替えよう、ヒナ』
そっと解放するが、腕は消えていく温もりを名残惜しんでいた。着替えは女性用の民族衣装で、アズィールは一つ一つを手に取り、着方を教えてやる。そうして主寝室の外で待つつもりだった。だが…。
『…ヒナ』
その足元に、陽菜を包んでいたカバーが落ちた。シャーラムにない肌色の姿が晒される。不躾なまでに目を奪われている事すら忘れ、視線が陽菜を撫でていく。首筋から鎖骨、豊かな胸の谷間。鳩尾を過ぎ、臍と卑猥に括れた腰。太腿に膝、足首。そうして脳内を支配したのは、それらを手や舌で愛しげに愛撫する自身と、身悶える陽菜の姿だ――。
陽菜が着衣する事で遮られるが、欲を抑える為の自国の衣装にも拘らず、陽菜がその衣装の下に強い淫靡を誘う肢体を隠しているのかと思うと、余計にアズィールを煽った。禁欲を自身に課した事はない。多忙故に時間がなかっただけだ。今、初めて味わう禁欲は、陽菜の為のもの。そして同時に陽菜を欲しいと強く願ってしまっている自身にも驚いた。特定個人を求めた事のないアズィールが、初めて陽菜ただ一人を求めてしまったのだから。
『…よく、似合っているよ…ヒナ』
溜息の出るようなその姿…スーツ姿以外をもっと目にしたい。
『さぁ…おいで、ヒナ』
差し出した手に重ねられた華奢な指先をしっかり握り、衣装越しにその卑猥な腰に手を添えた。ダイニングテーブルには二人分の食事とは思えない量が並べられていた。
「アリー、配置を変えてくれ。こちらにヒナを」
向き合った配置からテーブルのコーナーを挟んだ配置へ。隣に陽菜を座らせる。
「給仕は私がする。後はカートごと置いてくれ」
「…殿下?」
「アリー…私がヒナを甘やかしたいんだ」
さすがのアリーも驚いた…王太子自ら、外国人の…しかも一庶民に給仕をするなど、聞いた事もない。
「殿下…ですが…」
「アリー、私では出来ないと?」
「いえ…そうでは…」
「ならば私の言う様にさせてくれ」
渋々引き下がったアリーは、テーブルのカトラリーの配置を変え、これから給仕する予定だった料理をカートに乗せたまま、その場から離れた。
『さぁ、ヒナ』
椅子を引いて座らせ、給仕をすると自分も席に着く。
『シャンパンは?』
『はい』
グラスを掲げたアズィールが陽菜を見つめる。
『ヒナに』
『アズィール、に…』
返すように答えた陽菜とグラスを合わせて乾杯する。緊張しているのか、陽菜の表情は強張って見えた。それに気付くと、アズィールはいろいろと世話を焼きながら、料理や自国の話をしてやった。また美月を話題にだせば、陽菜は表情を和らげる。終盤には小さく笑みを浮かべもした。
そんな事に一つ満足を得てしまうと、次から次へと欲しくなる。もっとたくさんの笑みを見たい、触れたい…。
『ヒナ、シャーラムの料理はどうだ?』
『驚きました…美味しかったです』
デザートを終え、ゆっくりとシャンパンを味わいながら話をしていると、今日一番の笑みを見た。
『ヒナ、もう暫く一緒にいてもらえるか?』
『ぁ…はい』
アズィールは食事の前から続く躯の疼きが加速するのを感じた――。
リビングに移動した二人は、ワインを飲みながら言葉少なでいた。十四も年上のアラブの王太子は、理解もある大人な男だ。陽菜はもっと年上の男に抱かれた事もあったが、精神的な余裕なのか、アズィール以上の包容力はなかった。
今も…隣に座るアズィールは、そっと肩を引き寄せて、甘やかすように髪を梳いてくれている。引き寄せる腕や頭を預ける肩は硬く頼り甲斐のあるものだ。
数多の女たちはこうされてハレムに入ったのだろうか…そう考えて僅かばかり理解出来る気がした。密着していて感じるのはそれだけではない。アズィールの纏う香りは、香水とはまた違う気がした。
『…香水、ですか?』
『いや…今はしていないが、本国に帰れば欠かさない。気になるか?』
『不思議な香り…』
『香水とは少し違うからな、香油だ。湯浴みの後、塗り込めるんだ』
『じゃあ…アズィール、の…香り?』
『体臭かもしれないな』
首を捻って見上げれば、苦笑いしたアズィールがいる。
『嫌か?』
『…香水より…ずっといい』
アズィールの首筋に鼻先が触れた。
『そうか…乳香を使っているせいで、熱が加わると香りが強くなる』
『…シャーラムではオーソドックス?』
『そう、ではない…これは私の為のものだ。サイードにもサイードの為のものがある』
陽菜が喋ると、首筋に息が掛かる。耳元が弱いと言うのを一般論として聞いた事はあったが、首もそうとは知らなかった。
『…ヒナも香水をしていたな』
『…もう変えます』
俯いて肩に凭れた陽菜。
『…理由を…訊いても構わないか?』
『関係が終わるたびに変えるんです』
『っ…』
『毎回、使い切る事はないですが…』
肩を抱く腕に力が込められた。
『…ごめんなさい…こんな話…』
『謝る事はない、訊いたのは私だろう?私が訊きたかったんだ』
『…綺麗な話じゃないから…アズィール、の…耳には入れるべきじゃ…』
『そんな事はない。私はヒナの話を訊きたいんだよ…隠したがる事ですら、暴いてやりたくなるくらいにね』
身を小さくする陽菜をしっかりと抱く。ローテーブルにグラスを戻し、陽菜からも取り上げる。
『ヒナ…君を私に教えてくれないか?』
『…私の事なんて…』
『君の全てを暴きたい』
向き合ったアズィールは、頑なな陽菜が折れるまで選びに選んだ言葉を重ねた。
そうして引き出した陰惨な過去――。母は陽菜を一人で育てたが、その為だと言い訳して男を転々としていた。男に媚びて養ってもらう母を、陽菜は嫌悪した。
働かない母のような女にはならないと誓い、バイト三昧の中、自力で短大を卒業した陽菜だが、その人生を変えた原因はやはり母だった。
当時、十九だった陽菜の母が一緒に暮らしていた男は、母から聞いたが実の父だった。ヨリが戻ったらしかったが、父は陽菜が我が子だとも知らず、ろくな男ではなかった。
働かない父だったので、母は水商売に出ていたが、母不在の夜――その実父に性的暴行を働かれのだ。逃げるように家を飛び出し、傷付いた心身を抱えたまま、陽菜は一人で生きる為に自身の可能性を探り続けた。そして漸く辿り着いた職業が秘書で。
美月同様に他社で大成しつつあった陽菜を、常務がヘッドハンティングし、今や親友とも呼べる美月に出会った。
アズィールは腸が千切れそうな思いだ。だが不思議に思うのは、それで男に恐怖心を抱いていない事だ。
『…男が怖くならなかったのか?』
『暫くは…ありました。でもどんな仕事をするにもそれでは勤まらなくて。だから躯だけの相手を作ったんです…合意での接触を増やして、あの時の事に塗り重ねて…』
それが今も続いているだけ…そう締め括られた。アズィールにすれば、【だけ】ではない。いつまでも終わる事のない、悲しい連鎖だ。
『…やめるんだ、ヒナ』
『…そんな簡単じゃないんです』
『君なら恋人も…』
『…長く続きませんでした』
陽菜はアズィールと目を合わせようとしない。その目は虚ろに見えて、苛立ちとも悲しみとも取れない感情を呼び起こす。そうして沸き上がったのは庇護欲だ。傍で守りたいと…陽菜を包みたいと感じてすぐ、胸に引き付けた。抵抗されても許さず、ただ抱き締める。
『…ヒナ…私に愛されてみるか?』
『な、何を…』
『私が愛してやる…』
陽菜を腕に抱き上げて、また主寝室へ向かった。中央に降ろして覆い被さると、顔を背けられた。
『…キスは…しないで』
『…わかった』
アズィールは脳内に描いていた陽菜への愛撫に夢中になっていた。女を抱くに愛撫など考えた事もないが、陽菜は触れればあえかに悶え、必死に縋り付いて来る。欲情を恐ろしいと感じたのも初めてだ。時間をかけて溶けていく陽菜を見たくもあるが、すぐに繋がりたいとも思える。一糸纏わぬ姿は、アズィールから余裕を奪う。手荒くなりそうな自身を抑えながら、素肌で接した陽菜は、アズィールをただの雄に変えた。
『っ、ふ…』
『ヒナ…もっとだ、もっと乱れてしまえ』
一寸たりとも離れたくなくて、断りもせず陽菜の中で果てた。だが雄は収まりもしない。陽菜に求められると収まるどころか、煽られて情欲の焔は激しく燃え盛るばかりだった――。
幾度果てたか、もう覚えがない。この行為でここまで疲弊したのは初めてだ。陽菜もすっかり疲れた様子で、アズィールの腕で寝息を立てている。このままでいたい…そう強く思ったアズィールは、事後のまま…陽菜を抱き寄せて瞼を閉じる
ふと日本に来てから使っていないはずの自身の香を強く感じた。陽菜には甘い花の香りもいいが、やはり柑橘のような爽やかな甘さがいい…とろとろと溢れ始めた眠気に身を任せながら、アズィールは深く眠りついた――。
意識が浮上して、明るさが瞼を刺す。視界は見慣れない色に占拠されている。
『おはよう、ヒナ』
『…アズィール…』
『よく眠っていたね、気分は?』
視界を占拠していたのはアズィールの胸だ。
『湯浴みに行こう』
全裸のアズィールが同じく陽菜を腕に抱いて、主寝室のバスルームに向かう。広い浴槽には並々と湯が張り、不思議な香りがする。
『ここも…香油?』
『バスオイルだ。これは嫌いか?』
抱えたままで浴槽に入ると、陽菜を背後から抱えるように浸かる。まるで陽菜の椅子だ。自らの手で陽菜の躯を洗うように撫でていく。
『…好き』
『そうか、よかった』
凭れる陽菜がリラックスしているのを感じ、アズィールも安堵した。
『ヒナ、髪を洗おう』
また抱き上げられ、丁寧に髪を洗われた。世話好きなのかと思いながらも、陽菜はされるがまま。子供でも甘やかすように、甲斐甲斐しくされた経験がない。だが居た堪れない気分ではなく、寧ろ心地いい。
『じゃあ、私も』
今度は陽菜がアズィールの髪を洗ってやる。アズィールもこの甘い雰囲気が嫌ではなかった。陽菜の穏やかな笑みは、向けられた事のないものだ。秘書である時の陽菜の笑みが、正しく営業スマイルである事も理解し、今の笑みの方がずっと美しいと感じた。
そうして二人がアリーに会ったのは昼にも近い時間だ。用意された食事を済ませると、リネンの交換が終わっていた主寝室に逆戻り。行為に及ぶわけではないが、二人で横になり、アズィールは陽菜に腕枕してやると、髪を梳き、頬を撫で、額にキスをする。それが心地いい陽菜もアズィールに擦り寄り、背に腕を回す。暫くすると、陽菜はまたうつらうつらし始めた。
『眠っても構わないよ、ヒナ?私もこのまま眠れそうだ』
『ん…アズィール…』
陽菜を撫でていた手を絡めて繋げば、陽菜の胸元に引き寄せられた。次第に深くなる息遣いに、アズィールも誘われて眠っていた。
この五日――まるで蜜月だったと、アズィールは反芻する。互いに気が向けば時間も気にせず繋がり、夜は深く抱き合う。
複数回に渡り繋げたのは陽菜が初めてだ。だがまだ足りない。大切なものが足りない。欲深になっている自身に、弟に偉そうな事を言った過去を悔いた――。
美月の休暇明け、アズィールの元に本国に帰ったサイードから連絡があった。ホテル誘致の関係で、オーナーの結婚式に招待され、出席した先で、新婦の親族だった美月に再会し、プロポーズを受けてもらえた、と。
出社した美月に声を掛ければ、休暇前が嘘のような晴々とした笑みだった。陽菜は自分の事のように喜んでいる。そこで常務から、美月をアズィール付きにとの話があった。いずれ陽菜もシャーラムへ…浮足立つ気持ちを抑える。出社すると休暇が嘘だったかのような、秘書の顔に戻ってしまった。
「じゃあこれね」
アズィールが帰国する事になった。サイードと美月の婚儀の為でもあるのだが、本国にもそれなりに公務を抱えているのだ。これからアズィールに付くのは美月だ。久々の再会もそこそこに、二人は休暇の間の引継をしている。
「うん」
「また暫く美月に会えないなんて寂しい…」
「陽菜…陽菜にも来てもらえたらいいのに…」
「けど支社が出来たら私も転勤だし、また一緒」
「待ってる、ね」
「うん、いってらっしゃい、美月」
帰国前夜、アズィールはまた陽菜をホテルへ連れ帰った。日本では最後の逢瀬だ。翌日のチェックアウト前に、陽菜がアズィールを呼び止めた。
『美月、お願いします』
『あぁ、勿論だ。私の義妹だからね』
あっさりした陽菜とは対照的に、アズィールには気掛かりがあった。
『ヒナ、次に私に会うまで、決して誰にも抱かれてはならないよ』
『何を急に…』
『君は私に愛されているんだ、私以外がこの躯に触れる事は許さない』
『私はアズィール、の愛妾になったつもりはないわ』
顔を背ける陽菜の頤を掬い、目を合わせる。
『そうするつもりは一切ない。ヒナはハレムに入れない』
『当たり前です、私なんか…』
『私のヒナを勝手に卑下する事も禁ずる』
『っ!?』
『天に輝く灼熱の太陽より私を熱くさせてくれる…ヒナ、私の愛しい太陽』
【私のヒナ】【私の愛しい太陽】…気障すぎるそれらが妙に似合うと思えるのは、アズィールのお国柄だと言い聞かせる。
『よく覚えておきなさい…サイードも強引だが、私程ではないんだよ。ありとあらゆる権限を駆使して、必ず君を手に入れる』
『…王太子殿下だもの…全て言い成りになるんでしょう?』
『確かにそうだ。だが私はそれすら厭わない…ヒナ、必ず君を手に入れるよ。忘れてはならない、いいね?』
頬に触れて額にキスを贈る。名残惜しいが今暫し堪えるだけだ。
空港で美月と合流し、専用機で本国に向かう。機内では緊張気味の美月を気遣い、本国の話をしてやりながら、美月からは陽菜についての話を訊く事が出来た。
『…そうでしたか…でも陽菜が自分から話すなんて…珍しいです』
『そう、なのか…?』
『はい…特にその話に関しては。私と殿下しか知らないと思いますし。それに陽菜は、不安になると温もりを求めたくなるみたいで…』
『心配だな…』
『…はぃ』
陽菜に思いを馳せる。だがもう動き始めた。アズィールが陽菜の全てを手に入れる為――。
「は!?今からですか!?ちょっと急すぎます!」
「社長の侍従の方もお待ちだ。とりあえずパスポートだけあればいい」
専用機が日本を離れてからまだ二時間にもならない。秘書課長が陽菜に、シャーラム行きを伝えたのだ…副社長命令で。
『ヒナ様』
『アリーさん…計画的犯行は罪が重いの知ってますか?』
『存じ上げません。サイード殿下妃ミツキ様は婚儀の日取りも決まり、これからは準備などで我が殿下に付いていられる時間がございません。代わりを務めて頂けるのは、ヒナ様だけです』
『そうじゃなくて…』
『ご自宅へパスポートを取りに参りましょう』
押し込まれるように乗せられ、滑り出した高級車。陽菜の自宅前で停まり、陽菜を降ろしてアリーも後に付いて行く。
『パスポートと普段の手荷物だけで結構ですよ』
『わかってますよ、わざわざ付いて来て下さらなくても』
『アズィール様の大切な方に何か遭っては困りますから』
『心配しすぎじゃありませんか?』
『おかしな輩に触らせるわけにはいきません』
アリーは以前の事を言っているらしい。アズィールにするように、ヒナの斜め左側を一歩後ろから付いて行く。
『ヒナ様の身を守る事が至上命題ですので』
『他に仕事もらえないんですか、アリーさんは』
『今、私は侍従に付いて以来、初めて…最も重大な役目を任されているんですよ』
そう言ったアリーは口元が緩んでいるように見える。
『入ってもいいですよ』
アリーに声を掛けて部屋に上がる。パスポートを手にすると、それをアリーが預かるらしく、手を差し出されたので渋々預ける。ふとドレッサーが目に入り、つい先日まで使っていた香水が目についた。迷わずごみ箱に放り込むと、バニティバッグに化粧品類を詰める。
『必要な物は本国でご用意致しますから』
『駄目駄目。使いやすいものとか、気に入ってるものとかあるんですから』
結局、スーツケースに荷物を詰める事になった。
『ついでに寄りたいところがあるんです』
『仰って頂ければ参ります』
スーツケースを車に積み込んで、陽菜の案内で向かうのはチェリーポールだ。陽菜も美月も愛用のブランドで、結婚祝いはここにすると決めていた。
まだシャーラムに出店はないので、あちらでの生活に不便だろう。
美月のサイズの下着を一週間分と夜の営みに刺激を与えるベビードール、夏でも蒸れないストッキングや制汗対策の小物など、両手で抱える程の量をラッピングさせている間に、自分用の下着やストッキングなどを買い込む。
アリーは女性客だらけの店内で何の抵抗もなく、陽菜の荷物持ちをしていたが、どうやら日本人が慎み深いのは外側だけで、その内側はとんでもないのだと知る。四方やこんな経験をする事になるとは思いもしなかったが、これからを考えれば必要な事だ。
空港には専用機が待っていた。
『あの鷹の印はシャーラム王家の?』
『あれはアズィール殿下のものです』
鷹が獲物を狩るが如く大きく両翼を広げ、嘴には半月刀を銜えている。その脚も鋭い鉤爪で獲物を掴もうとしているようだ。
『香り以外にも個人のものがあるのね』
『継承権第一位ともなられると、何にしても特別です』
『大変ね』
他人事に呟いて、陽菜は専用機に乗り込んだ――。
『うっわぁ~…砂、砂、砂!砂まみれ!』
『砂漠ですので』
『砂漠なんて実物初めてだもん。精々映画よ』
専用機内では十数時間、まともに眠れずでナチュラルハイに近い状態だった。SUV車に乗り換えて、道どころか案内板もない砂漠をひた走る。王太子宮には専用機と同じ印がある。銃器を構えた兵が立つ巨大な門を潜り、車を降りる。空港よりは高い塀のせいか若干熱風は緩んだが、ジリジリと照り付ける太陽は容赦がない。
『ヒナ様、中へお早く』
急かされて宮殿内に踏み込むと、風は一変。熱の感じられない涼やかなものに変わる。
『アズィール殿下がお待ちです』
その名に胸が騒ぐ。彼が日本で別れてから一日も経っていない。機内ではうつらうつらするたびに、居もしない優しげなバリトンが陽菜を呼ぶせいで、全く眠れていない。しかもここは焼けた砂の匂いに混じって、アズィールの香りがする。先導するアリーに付いて奥へと進むと、途中に見慣れない印を見た。アズィールの鷹の印…その鷹の鉤爪が金の棘で雁字搦めにされた円を掴んでいる。部屋の用途によって様々なデザインになるのだろうか…そんな認識でしかなかった。
王太子宮の使用人たちは一様に陽菜を見るや跪いたり、深く深く頭を下げる。秘書如きに周囲からそうされるのはさすがに居た堪れない。漸く着いた扉にも、先程見た印がある。
『アリーさん、この印何て言うの?』
『アズィール殿下の新たに出来たばかりの印で、鷹に金棘搦めの太陽です』
『この丸は太陽だったんだ?』
『さ、左様です…』
アリーはすっかり呆れ返っていた。天衣無縫とは聞いていたが、これを見ても何も感じないのかと。
「アズィール殿下、只今戻りました」
「入りなさい」
聞こえたアラビア語は柔らかなバリトンで、間違いなくアズィールのものだ。
『よく来たね、ヒナ』
中には数人の民族衣装の男たちとアズィール。人目も気にせず腕を広げて陽菜を包むと、その場にいた男たちがまた、陽菜に深々と頭を下げた。
『白々しい…計画的犯行は罪が重い事を知るべきだわ』
『また手厳しいな、私のヒナは』
『出張なら最低一週間前に言って頂けませんと、対応致しかねます』
ふと秘書の顔をした陽菜だが、急な出張が不満なのか営業スマイルすらない。
『だが私のヒナは来てくれただろう?』
『だから計画的犯行なのよ、アリーさん残して行ったくせに』
『アリーにはいろいろ用を頼んでいたからね』
『重大な罪だわ』
『それならヒナも罪人だよ。私の心を鷲掴みにして奪ってしまったんだから』
甘く気障な台詞に蟀谷が痛い。どうしてこうも平気なのか。
『アズィール王子殿下…仕事をなさいませ』
陽菜はアズィールに抱き締められたままで、整然と答えている。
『再会を喜ぶ隙もくれないのか、ヒナ?』
『再会を喜ぶも何もまだ一晩も経ってません』
ぴしゃりと言い捨てる陽菜に、周囲は唖然。アズィールが陽菜に執心しているのは見てわかるが、陽菜の王太子に対する無礼とも取れる発言を、諌めるはずの侍従アリーが静観している。アズィール本人も気を悪くした風もなく、彼らから見れば珍しく穏やかにしている。寧ろ嬉しそうだ。
『仕事して下さい、仕事を。私はその為に呼ばれたんですし。仕事しないなら美月に会いに行きます』
『生憎、今はサイードとの蜜月でね。王ですら会えないんだ』
『いつまでですか』
『婚儀の式典の朝までだから…アリーいつだったかな?』
『三日か四日後、だったかと』
『そんなに!?』
アズィールを突き飛ばすのだが、大して距離は取れない。
『そう言うわけだ。さぁヒナ、私たちも蜜月を過ごそう』
『はぁ!?関係ないじゃない!』
『…香水はやめたようだね…ちょうどヒナの為に調香させた香油が出来たんだよ』
腰を引き寄せて別室へ移る。そこにも新しい印があった。
『ヒナ…始めから君も一緒に連れてこればよかったと後悔したよ』
入った途端に抱き締められて、アズィールの香りが強くなる。
『支社が出来るまではシャーラムに用はありませんから』
『ヒナはドライだな』
『普通です』
『ほんの暫く我慢すれば会えるのはわかっていたが…逸る気持ちが抑えられなかった』
『こちらに戻ると暇なんですね』
『ヒナとの蜜月の為に終わらせたんだ』
頬を撫でて、愛しげに額にキスする。
『さぁヒナ、これが君の為の香だ』
差し出された小瓶にはアズィールの印がある。シンプルな小瓶を手に取り、蓋を開けてみる。
『私の香りをベースにさせ、爽やかな柑橘を加えた』
嗅ぎ慣れないが、アズィールの香りを感じた。不思議とどんな香水よりも好ましいものだった。
『こんな…専用の香りは王族だけの事なんじゃないんですか?』
『私のヒナ、だからね。そうでなければ作らせはしない』
指先にごく少量の香油を取り、ヒナの耳の後ろに丁寧に塗り込める。まるで愛撫するかのように。
『やはり…よく似合っている。ヒナにはこの香りがいい』
腕に包んで香りを確かめる。
『おいで、ヒナ…確認させてくれないか?君が他の男に触れられていないかどうか…』
『最後に会ってからまだ時間…』
『確かめたいんだ。私のヒナの全てをね』
誘われたのは何人寝るのかと思える程のベッドだ。花弁がふんだんに散らされたベッドカバーをめくり、陽菜を座らせる。
『ヒナ…ここへ来たからには私からは逃がさない。私のヒナ…もう誰にも触れさせはしない』
スーツを脱がせ、柔肌に触れた。一日余り見ていなかっただけで、陽菜が恋しくてならなかった。
『これからは私にだけ愛されていればいい。私の傍らで、私の全てを理解して受け止めてくれ』
アズィールの熱情は、陽菜が知る誰のものよりも激しい。送られる視線も交わす熱も、その言葉一つ一つもだ。溢れんばかりに注がれる熱も、丁寧で執拗な愛撫も陽菜にだけだ。抵抗もせずに素直にアズィールを受け入れる陽菜だが、アズィールには気になって仕方のない事があった。
【キスはしないで】――唇へのキスを拒む陽菜…何故なのか。
『ヒナ、口付けをさせてくれ』
『だ、駄目!』
『何故?ヒナの全てを愛したい』
『駄目なの!』
『理由を知りたい。でなければ強引にでもする』
頤を押さえられ、見下ろされると鼻先が触れた。
『っ…無理、矢理…口の中…』
拙い言葉が漸く告げたのは、トラウマの一部だ。口腔に捩込まれた…だからキスは出来ない、と。
アズィールは構わず唇を重ね、口腔に舌を滑り込ませた。
『っ!?』
陽菜が初めて胸を叩いて激しく抵抗したが、構いもせずに奪い続けた。
『嫌って言ったでしょ!どうして…っ』
『私はヒナの全てを手に入れたい。躯も心も…ヒナに私の愛し方を刻んでいく』
『だからって…』
『だからだよ。私がヒナを愛するように、ヒナにも愛されたいんだ』
『っ…何を莫迦な…』
『私は本気だよ、ヒナ。サイードたちのハネムーンが終わり次第、私は君を妻に迎える』
衝撃的なそれに、陽菜は絶句した。美月のように王族の妻に…しかも陽菜の相手は次期国王の王太子だ。
『嫌』
『ヒナ』
『絶対に嫌!ハレムになんて…』
『ヒナは入れない。美月のようにヒナは私と暮らすんだよ。日本では夫婦は同じ家に暮らす、一夫一妻なんだろう?』
『…日本では法で決められているのよ』
『だからそれに倣うんだよ。こちらでは四人まで許可されているが、ヒナはその理由を知っているかい?』
アズィールは陽菜をあやしながら、そう問うた。
『…未亡人保護?』
『諸説あるがね、それが一番有力だろう。戦争で夫を失った女性を守る為に続く事だ。だが今は戦争もない。王太子だからと妻を増やす必要はない。世継ぎが生まれないならば考えるべきかもしれんが、サイードがいて美月もいる…王もまだまだ健勝だ。私に世継ぎが出来なくても、問題はない』
だから一人でいいのだとアズィールは言う。
『こちらの文化のそんな事まで知っていてくれたのかい、ヒナ?』
『秘書だから』
『…そこで愛しているからとは、言ってくれないんだな』
『っ…私は秘書として来たんだから、こんな事にかまけているわけにはいかないの』
『美月は秘書として訪国しているんだが?』
『っ…』
『職務怠慢で懲罰ものだな』
『美月はいいの!』
『それならヒナも、それでいいんだ。君は私の妻となる…それまでに私を愛してもらいたい』
『…無理に決まって…』
『いや、ヒナは必ず私を愛するようになる。そうさせてみせる』
『…傲慢』
普段の穏やかな口調が驚く程に不遜に響く。
『私をこんな男にしたのは君だ、ヒナ…しっかり責任を取ってもらわねばな』
それから二日――二人は姿を見せなかった――――。
二日後に姿を見せた陽菜はアズィールと共に迎賓館に向かっていた。
「あら、陽菜ちゃん」
「おば様、おめでとうございます」
美月の両親がシャーラムに到着したとの知らせを受け、陽菜が接待すると言い出したのだ。
「おじ様たちが退屈するんじゃないかと思って」
「すまないね、陽菜ちゃん」
「いいんですよ」
「陽菜さん、後ろの人…偉い人?」
美月の弟、陽輝がアズィールに気付く。
「美月の旦那様になるサイード殿下の兄で、継承権第一位のアズィール=シュラフ=ジーン=アル=シャーラム王子殿下…美月の義兄になる方よ」
呉原一家に紹介してすぐにアズィールに向き直る。
『美月のお父様、お母様と弟の陽輝。英語は出来る一家だから』
『ご挨拶が遅れました。サイードの兄、アズィールと申します』
王太子自らが陽菜と共に呉原一家を接待した。一家希望の砂漠ツアーに出て、オアシスの街で駱駝に乗り、迎賓館で晩餐会が開かれた。そこでアズィールから婚儀の式典の式次が簡単に説明される。
陽菜は呉原一家と懇意にしているらしく、まるで家族のような扱いだ。陽菜には温かな家庭の思い出がない。それを知っているのか、一家はそこにいて当たり前であるかのように陽菜と接していた。
翌朝、漸く蜜月が明け、陽菜は朝から行くと聞かず…仕方なく月離宮へと車を走らせた。アズィールは準備の為に先に王宮に向かうのだ。
月の輝く夜、親族だけの式典が始まる。アラビア語の誓いも一家に通訳してやり、感激のまま式典を終えた。
その翌日には国民向けの式典だ。その後にはアズィール主催のランチがある。アリーはアズィールの依頼で外している為、陽菜は侍従の如く働かされている。
「え~…と、配置、配置…っと」
テーブル上の配置やら手順やら…すべき事はかなりある。
「アリーさんてすごいのね…侍従って大変」
溜息混じりに王太子宮を駆け回る陽菜は、宮殿内でもアズィールの妻となる人物である事がすでに知れている。
だのにスーツ姿であちこち確認したり、指示して回るのだ。ランチが日本食である事もあり、料理人や給仕たちが陽菜に教えを乞う。にこやかに且つ丁寧に答えてくれる陽菜は、王太子宮でアズィールに仕える者たちからも好印象だ。
「それは左側からお願いします。右で箸を持つので、ご飯茶碗や汁椀のように手に持つ器は、左側に配置するとスマートに食事をして頂けるんですよ」
「申し訳ございません、ヒナ様」
「いえ、私が逆の立場なら同じ事ですから、そんなに謝らないで下さい」
アラビア語が話せると、サイード妃の美月から聞いていた。実際に話が出来た事で陽菜の好感度も急上昇していた。王太子宮ではハレムの世話も賄うのだが、すでにアズィールの寵愛が得られていない女たちの中には、まるで王太子妃のような贅沢をする者もいる。ツンと澄まして命じる様は哀れだ。
だからこそ陽菜の一挙手一投足に注目が集まり、本人の与り知らぬうちに好感度が上がる。
「ご苦労様です」
擦れ違う侍女や兵にも、誰彼構わず会釈して、笑みを浮かべて声を掛ける。一度話した相手は根っからの秘書であるせいかすぐ覚えてしまう。
「先程はありがとうございました、とても助かりました」
目上も目下も関係なく挨拶し、労い、話す。
「お願いしたい事があるんですが…」
必要な事も命じるのではなく、丁寧に頼む。陽菜にとっては当たり前の事が、ここでは非常に珍しく、勤める者たちに覇気を与える。
「アズィール殿下…妃殿下が宮殿を駆け回っておられますが…」
「あぁ、仕方ない。ヒナは根っからの秘書だからな」
「ですが妃殿下になろうと言う方が…」
「あれでいい…ヒナには王太子妃と言う堅苦しい地位を気にする事なく、自然に馴染んでもらわねばならん。それに…随分評判がいいそうだな」
「それは…妃殿下からお声を掛けて頂けるのですから」
大臣は陽菜が宮内を駆け回っているのを良しとしないようだ。
「我々も見習うべきだな…自然に他を敬い、地位も問わず一個人を大切にする…ヒナは人を惹きつける…私を含めて、だが」
アズィールは穏やかに笑みを浮かべている。
「それにミツキはヒナの最も親しい友人だ。ヒナに任せておいて問題はないだろう?何かあれば責任は私にある。それでいいはずだ。異論は?」
「ぎ、御意…」
給仕の方法を教え、厨房に呼ばれ、ホールを確認し、初の日本食となる重臣にも作法などを教える。後輩指導にも当たる為、ものを教える事には慣れている。手際の良さは美月に近いものを垣間見た。
「よくお出で下さいました、陛下」
予定時刻より少し早めに父である国王が王太子宮に到着した。
「誰か作法に詳しい者はいるか?誰に訊いてもはっきりせん」
急遽、日本食になる事が決まったせいで、国王に作法を伝えられる者が王宮にいなかったらしい。
「ではヒナを呼びましょう」
「お前の妻か…ミツキの同僚の娘だな」
「はい。今日は全てヒナに任せてありますので」
突然呼ばれた陽菜だが、国王に作法をと言われ、戸惑う素振りさえなかった。作法に関する習わしや理由を交えながら、実際に見せて教える。時折感嘆の声を上げる国王に微笑みながらも、一通りの作法を説明し終えた。
「殿下、そろそろサイード殿下がお着きになるお時間です。呉原ご一家はすでに控室へお通ししました」
時計を確認した陽菜は、秘書の顔でそう告げる。
「あぁ」
ランチは和やかに進んでいる。陽菜は裏方に徹して、緊張する給仕を励まし褒めながら進行を見守った。最後のデザートを出して、給仕が全てホールを出ると、一人一人とハイタッチを交わし、労いの言葉と共に一緒になって成功を喜んだ。その足で厨房にも向かうと、同じくシェフらを労い、平らげられて下げられた皿を目にして喜ぶ。喜々とした表情はどこか無邪気にも見え、親しみが湧いた。
ランチを終えたサイードや美月、呉原一家はアズィールと国王に伴われ、中庭のテラスで穏やかな時間を過ごしていた。美月が陽菜に会いたいと言い出した為、片付けを指示していた陽菜は、周囲に勧められて中庭に向かった。
「陽菜!」
「美月!」
立ち上がった美月は陽菜とハイタッチを交わす。
「アズィール殿下から聞いたの、陽菜が取り仕切ったって」
「美月の為だもん」
「ありがと、陽菜」
「うん」
二人の様子を見ていた国王が、アズィールに声を掛ける。
「…よき日を」
「ありがとうございます…父上」
「日本の食事は初めてだが…まるで芸術だな」
「今日はまだ本格的なものとは言い難いところもありますが、およそあのような雰囲気です」
「あぁ…S&Jの常務の招待で行った店は確かに素晴らしかった」
サイードも満足したようで、国王は興味を持ったようだ。
「ほう…目にも舌にも楽しませてもらった。ヒナに聞いたが…実に躯にはいいらしいな。数多の配慮が隠されているのも、所作が美しいのもいい。またお目に掛かりたいものだ」
歳を重ねた国王は、この頃健康に特に気を配っており、食事による胃もたれに悩み、健康の為と薄味にしてみれば、イマイチ満足出来ずにいた。しかし今日は普段より量も食べたが、胃もたれもなく、薄味だが満足出来た。陽菜から簡単にだが日本食について聞いていた事も手伝って、その良さを気に入ったらしい。
「ヒナ」
「はい、陛下」
「実に満足の行く食事だったぞ。よくやった」
「光栄ですが…そのお言葉は私にではなく、給仕や厨房を担当した人々にお与え下さい。彼らの努力の賜物です」
「そうか…アズィール、よきに」
「ありがとうございます陛下」
陽菜の言葉に感心して目を細めた国王は、アズィールに後を托す。
「次の機会には、ヒナとミツキを両手に日本食を楽しみたいものだ」
父の言葉に二人の息子は目配せて肩を竦める。和やかに過ごした後、サイードと美月は一家を連れて月離宮に戻った。翌日からはサイードと美月は一週間のハネムーンで日本だ。日本へは一家と共に向かい、そこから別行動となる。国王は満足のまま王宮へと戻った。
「ヒナ、お疲れ様」
国王を見送ったアズィールと陽菜は、執務室に移った。二人きりである事を確認した陽菜が、アズィールの労いをきっかけにフラフラと椅子に座った。
「ヒナ!?」
「熱中症、みたいなものだから…」
「水は…飲んでいなかったのか!?」
「…気にしてなかったし…日本じゃないの、忘れてた」
陽菜を椅子から抱き上げたアズィールは、足で扉を開けると言う、あるまじき行動に出ていた。慌てるアズィールが抱える陽菜に、王太子妃に何かあったのだと、宮中は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
寝室で水分を取らされた陽菜は、眩暈と吐き気を訴え、氷嚢を使わされて横になっている。ここは日本でもなく、また陽菜が普段から忙しなく働く社内のように空調が整っているわけでもない。
それをすっかり失念し、普段同様にこの数日は秘書としての仕事もこなしていた。元々、美月にも言える事だが、多忙な人間に付くにあたり、水分は取りすぎないようにしていた。少しでも円滑に仕事をする為の習慣は仇となったのだ。
タイミングよく戻ったアリーに事情を話し、これから全ての予定をキャンセルして陽菜に付いていると言い出したアズィールだが…。
「そんな腑抜けた人に付いていられると、頭痛が酷くなるし、鬱陶しい」
侍医や他の者が飛び上がって驚く程の暴言が陽菜からさらりと告げられ、寝室は一瞬静まり返った。寝返りを打って、アズィールに背を向けた陽菜…陽菜を心配してのアズィールの愛故の厚意を、素気無く突き放す。何て不遜だと、それを聞いた者たちに思わせた。
「殿下、今はゆっくりお休み頂くべきでしょう。ヒナ様、ご用はこちらのベルで」
「ありがとう、アリーさん」
背を向けたまま答えた陽菜に、アリーは寝室から誰彼構わず人払いする。
「アリー、全てキャンセルだ」
「ヒナ様のお気持ちを無駄になさいますな。殿下にきちんと公務を果して頂きたいのですよ」
「キャンセルしろ!」
「ヒナ様はご自身のせいで方々に皺寄せが行くのは、我慢ならないタイプの方でしょう?その為なら誰に何と言われようと、殿下に務めを果して頂く為の策を講じるはず」
「…慣れぬこの国に一人は心細いはずだ。それではよくなるものもなりはしない」
「ならば尚、ヒナ様の憂いをお早くなして差し上げる事です」
アズィールとアリーのやり取りで、周囲はあの言動が逆にアズィールを想うが故である事を知る。
「これからは大切な会合も組まれております。ヒナ様が立てたプランですから、ご存知のはず。きっちりこなして早くお帰りになられればよいのです」
柄にもなく慌てていて、アズィールは今更気付く。
「…わかった」
踵を返したアズィールには他の侍従が付いて、王太子宮を出た。
「さぁ、ヒナ様に冷たいフルーツを用意して、氷嚢も取り替えて差し上げなければ」
アリーの言葉に動けず残った者がぱたぱたと動き出す。
「全く…王太子殿下も十四年下のヒナ様の前には形無しだな」
呆れたような口ぶりのアリーだが、表情は穏やかだ。このところ陽菜を慮る事が増えた。先程の陽菜の暴言も、アズィールを諭すついでに周囲に聞かせた。初めてアズィールが執心した女、妻に迎える準備は恙無く進んでいる。驕る事を知らない陽菜は、どんな高貴な家の娘よりも王太子妃に相応しいだろう。
「さて…今日はいつお戻りになるか」
アリーはアズィールが戻り次第、食事が取れるように動き出した――。
静かになった寝室で、陽菜は氷嚢の冷たさを感じながら、小さく丸くなっていた。本音を言えば、思わぬ体調不良で妙に心細くあった。アズィールが即座に予定を全てキャンセルすると言った時、自分が立てたスケジュールに幾つかの重要な案件がある事も思い出した。
それよりも陽菜を選んでくれた事に、甘く胸が疼いた。体調さえよければ、抱き着いていたかもしれない程に。
しかしそれを受け入れるわけにはいかない。アズィールにはそれらをこなしてもらわねばならないのだ。
社長秘書としての矜持が理性を強く後押しした。眩暈に誘われて顔を出し始めていた頭痛にも苛まれたその結果、無礼とも取られる物言いで退ける事になったのだが。
秘書として付く相手を支えはしても、その逆に手を掛けさせてはならない…陽菜の鉄則のうちの一つだ。日本ではなく本国での仕事なら、こちらの侍従は十分に付いていける。ならば陽菜はそうしてもらうまで。
どうやらアリーは陽菜の言葉の裏を読み取れたらしく、アズィールを公務へ促してくれた。アリーがいるなら心配はない。
「ヒナ様、よろしいですか?」
「…アリー、さん?」
姿を見せたのはアリーだった。
「オレンジをお持ちしました。少し凍っていますので、さっぱり召し上がって頂けますよ」
「ごめんなさい、アリーさん」
「いえ、こちらも配慮が足らず」
「自己管理が出来ないなんて…秘書失格です」
起き上がってみると、眩暈は随分収まっていた。
「少しでも召し上がって下さい。殿下もあと数時間で戻られる予定ですから」
「ぇ…?かなり早くないですか?スケジュール通りならまだ…」
オレンジを口にしようとした手が止まる。心なしか眩暈が戻って来たような気もした。
「きちんとこなしておいでですよ」
「実はどこか端折ってるんじゃ…」
「間違いなく、スケジュール通りです」
「その割には時間が…」
「そこは愛の力とでも申しておきましょうか」
「……は?」
「愛の力です」
「…いや、だからアリーさん」
「アズィール殿下のヒナ様を想う愛の力です」
「そ、そうではなくてですね…」
「ヒナ様を心配するが故に早く戻りたくて、公務も必死にこなされております。偏に愛の力です」
「…ア、アリーさん?」
「はい、愛の力です」
「……あの…」
「愛の力ですが、どうかなさいましたか?」
「いえ…何かそれ以上訊いても変わらない事がわかったからいいです」
何を言うにもアリーの口からは【愛の力】との返答で、陽菜は蟀谷を押さえた。
「さぁ、ヒナ様。召し上がられましたら、殿下が戻られるまでもう暫くお休み下さい。殿下が戻られれば、立ち所にお躯の不調もよくなりましょう」
「あ」
すっかりオレンジの存在を忘れていた陽菜は、漸く小袋も綺麗に処理されたオレンジの果実を口に運ぶ。まだ一部が凍っていて、噛めばシャリッとする部分も果実が弾ける部分もあり甘みも十分だ。完食するまでに氷嚢が取り替えられ、また横になるよう促された。
「香を焚いておきましょう、精神的に落ち着けるはずですから、ゆっくりお休み頂けます」
アリーは香を焚くと静かに寝室を出た。くゆる香りはどこかで嗅いだ覚えがある。胸が疼いて仕方ないので思い出そうとするのだが、霞み掛かった思考ではそれが何だかわからない。部屋に香りが満ちてくると、まるで抱き締められているような錯覚を覚えた。ふと浮かんで来たのは人影だ。誰かの纏う香り――。
「……、…」
無意識に誰かを呼んでいた。訳もなく不安になって自身抱き締めて慰める。早く眠りの底に沈んでしまいたいのに、ゆらゆらと水面を漂っている状態だ。いっそ起きてしまえばよいのだが、香の香りは眠りを誘う。どっちつかずは苦しくて、でも選ぶのは怖い。
【私の愛しい太陽】
耳に心地好い音域で、そう陽菜を形容するのはこの世に一人だけだ。無性にそれを聞きたいと感じるのは、やはり恋しいからだろうか?じわじわと躯が水面を離れていく。明るさを感じなくなってきた。これで堂々巡りな思考から解放されるのだと安堵したまま、陽菜は深い寝息を立て始めた――。
「ヒナは?」
「二時間程前にオレンジを召し上がった後、また眠られたようです」
予定より三時間早く戻ったアズィールは、開口一番陽菜の安否を問う。アリーの返事を聞きながら足早に向かうのは、陽菜が眠っている寝室だ。
すでに日も落ちて、肌寒い風が砂漠から吹き付ける。アズィールの香が焚かれた寝室は、アリーの配慮で暑くもなく涼しくもない状態ではあるが、陽菜とこちらで暮らしている人間とでは体感温度も違うはずだ。
そっと寝台に近付くと、陽菜は身を小さくして猫が丸くなるように眠っていた。それは微笑ましい姿にも映るが、寒いのか不安なのか…陽菜は自身を抱き締めるように寝息を立てる。
アズィールは思わず陽菜の頬に手を伸ばしていた。
「ヒナ?」
ふと身じろいだ陽菜が、何事か呟いた。聞き取れず、耳を澄ませて顔を寄せる。
「……ズ…、…」
囁く唇に呼ばれ、安堵の息が漏れる。
愛しい名は公務の最中にも何度口にしたかわからない。アズィールは行く先々でどうしたのかと問われた。何故だかまで考えず、陽菜の件に触れて心配だと言えば、どこもが早く切り上げてくれる。
珍しく落ち着きのない自身を、アズィールが無自覚であったのも手伝っていたのだが。
その話は勝手に広まり、行く前に今日は…と、遠慮してくれる相手もいた程だ。きっと陽菜に知れればまた手厳しい一言が待っているだろうかと、苦笑いしてしまうが、心配してしまうのは仕方がない。逆に自己管理をしっかりするよう言い返してやろうとも思った。
「……、…ル?」
ささやかな呼び声に、アズィールは無言で唇にキスをする。
「…ちゃ、んと…」
「勿論だ。行って来たが…どこでも早く帰れと追い返されてしまった。行く前に次の機会にと言ってくる相手もいたな」
「……ごめん、なさい」
慰めるようにキスを繰り返す。体調不良で精神的にも参っているのかもしれない。
「気にする事はないよ。私とした事が…どうやら心配が表に出ていたようだ」