「アリー、頼むぞ」
『畏まりました、殿下』

アズィールは電話先の侍従アリーに依頼すると、深く椅子に身を預けた。
陽に焼けた肌にアラブ特有の彫りの深い造形、黒髪と同じく瞳は鋭くあるが、纏う雰囲気は穏やかで柔らかい。アラブの小国シャーラムの、誉れある王位継承権第一位の王太子だ。今は穏やかさの欠片もなく、眉間に皺さえ寄せている。無意識の溜息が重い。アズィールは手元の書類に目を通す気力もない様子で、別の事を考えていた。

弟王子であるサイードがついに妻を迎えた。その妻はアズィールが出資元ともなり、自身が先日社長に就任したS&J社の常務秘書だった。現在はアズィールの秘書でもある。いずれ職を離れる事を想定し、秘書がもう一人付けられた。元副社長秘書の三島陽菜だ。サイードの妻、美月と共にS&J秘書課の美女筆頭と言われていた。

経営者として社内に入ってわかったが、S&Jの秘書は非常に優秀な人材が多い。そんな中にも目を見張る働きをするのが、やはり陽菜と美月だ。美月が影からそっと支える存在ならば、陽菜は明るく照らし導く存在だ。正に二人は太陽と月。
陽菜の第一印象はツンと澄まして気位が高い、というものだった。美月と同期にヘッドハンティングされて秘書となった陽菜は、美月とは非常に仲がよく、入社三年目にして共に重役秘書に就いている。

だがあくまで第一印象…実際に数回、仮の秘書として付かせてみたが、手際もよく時間にも正確だ。分刻みのスケジュールをこなす事のあるアズィールには、秒単位まで催促してくる陽菜はありがたい存在でもある。急遽、陽菜をシャーラムに呼び寄せた理由はそれだけではない。

美月の休暇中の事――。
陽菜は美月の代わりにアズィールの秘書をしていた。日本の会議や取引先との打ち合わせに接待…シャーラムでこなして来たものとは勝手が違う。シャーラム人では時間の予測が立たないのだ。それに一役買ったのが陽菜だ。予定時間になると、やんわりと失礼のない程度に先方を促し、退散する。

『殿下、お時間ですよ。のんびりしてる暇はありません、ちゃかちゃかお願いします』

他社関係者から離れてしまうと、陽菜は口調を変える。次への移動や時間を知らせる際も、陽菜は歯に衣着せぬ物言いで、アズィールを促すのだ。日本人は兎角時間に煩い。陽菜のモットーは「最低でも五分前着」らしく、そう出来るようにアズィールのスケジュールを組む。全く無駄や隙のないそれは、パズルゲームのようだ。移動時間も無駄にせず、途中で食事が出来るようにと陽菜が弁当を作ってくる。シェフの作り立てを待つ時間などないのだ。
その代わり、定時後には相当の事がない限りアズィールに残業をさせない。徹底したそれに、侍従も感心するしかない。更には秘書の後輩指導もこなす。多忙ながら愚痴も言わず、嫌な顔すらせずに美月不在の穴も問題なく埋めている。

「三島、休日出勤を振り替えて休んでくれよ」
「休めませんよ。私休んだら誰が社長に付くんですか?」
「…う…だがなぁ…」

秘書課長は頭を悩ませているのだ。陽菜の振り替え必須な休日は三日。秘書課内では誰もが『シャーラムの次期国王』に恐れをなして敬遠してしまう。代わりを務められそうな美月はまだ不在で。

「社長がお休みなさって下さるなら問題ないと思うんですよね」
「…調整は?」
「今なら出来なくはないですよ」
「よし!私から副社長に依頼してくる!」

秘書課長は意気込んで秘書課フロアを出た。すぐに戻った秘書課長は、満面の笑みで陽菜に三日の休みを言い渡した。ちょうど土日を挟むので、五日間の思いがけない連休だ。

『…と言うわけで…大変申し訳ございませんが、社長にもお休みして頂きます』
『そうか…私に付き合わせて済まなかったね』
『いえ、仕事ですから』
『予定はあるのかい?』
『それなりに』
『恋人は?』
『まぁ、それなりに』

陽菜の言い回しははっきりしない。予定があるならあると、恋人がいるならいると言えばいいだけなのだが、そうしない。

『それなら私に付き合ってもらえないか?』
『私が…ですか?』
『君以外に誰かここにいるかい?予定のない時でいい。私が泊まっているホテルを訪ねてくれ。外出の予定もないんだ』
『…わかりました』

陽菜は溜息を付いて退社した――。


「もういいわ」
「陽菜っ!ちょっと待てよ!」
「鬱陶しいの」

翌日、陽菜は午前中から付き合いのある男と待ち合わせて会っていた。実に二十日ぶりの事。気安い躯だけの関係だった。それが二十日ぶりの逢瀬に焦れてしまい、相手の男が陽菜を責めた。他にも躯だけの男がいるのだろう、と。

「スーツ姿の外国人と二人で会社の外歩いてるのを見たぞ!」
「それが何?」
「陽菜!」
「私、彼女じゃないわ」
「っ…」
「じゃあね」

カフェを出た陽菜は、暇潰しにデパートに向かった。コスメの売場で愛用のファンデーションを注文した。そろそろ新しい別の香水が必要になるだろう、などと思いながら、あちこちの売り場を見て回っていた。気分転換に新しいスーツでもと思い、売り場に向かっている時だった。

『失礼、あなたは…ミズミシマでは?』
『…アリーさん?』

アズィールの侍従アリーとスーツ売場で出会した。

『ショッピングですか』
『新しいスーツを新調しようと思って』
『お一人でいらっしゃいますか?』
『えぇ。美月はイギリスで、買い物に付き合ってもらえませんから』
『ではこの後、我が殿下とお食事など如何でしょう?』
陽菜はついつい正直に答えた事を、貼付けた営業用スマイルの下で悔いていた。
『いえ…買い物が長いのでお待たせするわけにはいきません』
『それでしたらディナーに致しましょう。夕刻、ご自宅まで迎えに参ります』
『え!?』
『では』
『ア、アリーさん!?』

陽菜が断る間もなく、アリーは背を向けて消えた。

「…マジ!?」

重い溜息を付き、陽菜は売場を後にする。買い物をする気力も、見て回る気力も削がれたのだ。昼過ぎには収穫のないまま自宅に着いた。陽菜はラップトップを開き、シャーラムやその周辺諸国の文化を調べていた。異文化の相手である事がわかっているのだから、それは陽菜としては当然だ。
迎えが来るだろう時間を逆算し、適当に切り上げてシャワーを浴びた。光沢のある紺色のワンピースとショールに着替え、化粧をしてバッグには最低限の貴重品を詰めたところで、タイミングよくインターホンが鳴る。玄関にはアリーがいた。

『殿下がお車でお待ちです』

エントランスから少し離れたところに、場違いな黒塗りの高級車が停まっていた。リムジンでなくてよかったと安堵したのも束の間、視界では車からアズィールが降りて陽菜を待っていた。気を引き締めて歩き出そうとしたが、思いもよらないところから呼ぶ声がする。

「陽菜!」

エントランスの隅から出てきたのは、午前中に別れたはずの男。

「やっぱりその男とデキてたんだろ!」
「…関係ないでしょ」
「俺は別れない!」
「元々付き合ってたわけじゃないわ」
『ミズミシマ?』
『気にしないで下さい、行きましょう』
「陽菜!」

気遣わしげなアリーを促したが、男は陽菜の腕を力任せに掴んだ。

「っ」
「許さない!」
「許してもらうような事なんてな…っ」

捻り上げられて、関節が軋んで呻いた。その痛みが消えたかと思えば、陽菜は嗅ぎ慣れない匂いに包まれた。

『感心しないな…力任せに女性を扱うとは』
「っ、離せ!…痛っ!」

いつの間にかそこまで来ていたアズィールが陽菜を腕の中に庇い、逆に男の腕を捻り上げていた。

『彼女とどんな関係があるかは知らないが、どうあれその行いは許されるものではない』
「は、なせ!」
腕を振り払って距離を取ると、男はアズィールにきつく睨みつけられた。
「陽菜!コイツ…一体何なんだよ!」
「…某国の王太子殿下よ…次期国王様」
「…こ、国王!?」
「護衛も見えないところからこっちを見張ってるわ…アンタ、目付けられたわね」
「っ!?」
「下手な事すると…知らないわよ」
『大丈夫か?』

アズィールが掴まれていた腕を気遣わしげに取り、ショールをそっと捲り上げて目を向けると、しっかり手の痕が残っていた。

『お気遣いありがとうございます、平気です』
『莫迦な事を言うんじゃない、痕が残ったら事だ…アリー、レストランをキャンセルしてホテルに戻る。医者を手配してくれ』
『御意に』
『殿下、そんな大袈裟ですから…』
『本来なら…これは暴行だ。私としては警察に突き出してやりたいくらいだがね』

陽菜を車に促し、後部座席に乗り込ませると、自身は逆から乗り込んだ。アリーがドアを閉めて助手席に乗り込むと、高級車は静かにその場を走り去った。

『色が白いから目立つな…こんな事を…何て男なんだ』

珍しく憤りを感じさせる台詞…それにさっきは男を睨み付けてもいた。立場上近寄り難いオーラを纏ってはいるが、口調や声色は穏やかなアズィールだ。気遣うように陽菜の腕を撫でる手つきは、至極優しいもの。

『あれが…恋人か?』
『いえ…』

後部座席は仕切られているので密室になる。社長室も密室ではあるが、この狭さに二人きりになったのは初めてだ。

『君を危険に晒すような男と、一体何の関係があるんだ』
『…ただの…知り合いです』
『そうは見えなかった。正直に言いなさい。恋人か、または恋人だった、なのか』

口調が厳しさを帯びる。仕事以外の話をここまで追及された事がなかったせいか、酷く緊張した。

『恋人だった事は一度もありません』
『では何だ』
『…言いたく、ありません』
『言いなさい。答えるまで許さない』

追及を止めるつもりがないようで、陽菜は諦めるしかなかった。

『…躯だけ、です』
『っ…恋人にされなかったのか!?そんな扱いを…』
『合意の上です』
『まさか!?あの男に脅されているわけでは…』
『違います。私も納得の上での事ですから』

驚愕の告白に、アズィールは陽菜が無理を強いられている可能性を探し続けていた。

『互いに…躯だけ求めた関係でした』
『…何故…君が…』

信じられないと、その目が訴えた。

『私は…殿下が思ってらっしゃるような、優秀な人間ではありません。私生活は乱れ切っているんですから』

シニカルな笑みは、どこか諦めたように見える。

『汚い、でしょう?』

必死に陽菜を慰める言葉を探すが、こんな時に限って適したものが見つからない。

『本当なら…殿下の秘書を務めるには私不適なんです』
『君はきちんと仕事をこなしてくれている…私生活は…本来なら私の与り知らぬ事だ』
『一人や二人じゃありませんよ』
『な…!?』
『気分で行きずりの相手と寝たりもしました。数なんてもう覚えていません』

ちょうどホテルに到着した車。アリーがまずアズィール側のドアを開ける。それから陽菜の側を開ければ、一人で車から降りた陽菜は、目についたタクシー乗り場に足を向けた。

『来なさい』

しかしアズィールの腕に阻まれ、腰を抱かれてホテルへ連れ込まれた。更に周囲は護衛に囲まれて、どう足掻いても逃げられそうもない。

『離して下さいっ』
『黙ってこのまま付いて来るんだ』

抵抗したが、きつく言い捨てられ、俯いて唇を噛んだ。アズィールの宿泊するロイヤルスイートは、ドアの前にも物々しい護衛が立っている。そのままリビングのソファに座らされると、見計らったように医者らしきが現れた。
まるで高貴な身分を相手にするように、跪いて一礼してから陽菜の腕に湿布と包帯を巻き、また一礼して立ち去った。

「このままなら痕は残らないそうです。三日もすれば引くだろうと」
「わかった。アリー、暫く外してくれ」
「畏まりました」

アリーにアラビア語で人払いをさせる。二人きりになると、ゆっくり陽菜に向き直る。

『…帰らせて下さい。私みたいな女がいていい場所じゃありません』
『それは許可出来ない』
『今夜は…殿下が私のお相手をして下さるって事ですか?』
『そう言う言い方をやめなさい』
『でしたら帰ります。手当…ありがとうございました』

立ち上がった陽菜だが、アズィールは肩を押さえ付けてまた座らせた。

『…君が望むなら抱いてやる』
『っ…』
『だが私は君が思うような男ではない…覚悟するんだな』

言うが早いか、想像も付かない程の強引さで、奥にある主寝室に引き込まれた――。
広い主寝室の中央には、天蓋付きのベッドが鎮座し、アズィールは陽菜のショールを奪い捨て、ワンピースの背にあるチャックを引き下ろす。

『っ、殿下っ』
『ヒナ』

呼ばれた事のないトーンで背後から耳元に囁かれる。普段穏やかなバリトンが、今は違う響きをしている。ワンピースが足元へ落ちると同時に、俯せで手荒くベッドに押さえ付けられた。
頭の中で警鐘が鳴り響く…忘れようと自棄になって塗り潰して来た過去がスライドショーのように流れ始めていた。

「ゃ…やだ…っ」
『抵抗しても無駄だ…逃がしはしない』
【抵抗しても無駄だ…逃がしはしない】

背後から押さえ付けられて、スカートをたくし上げられた。

「やめてっ、嫌!」
『君が望んだ事だ…助けは来ない、もう諦めるんだな』
【助けは来ない、もう諦めるんだな】

下着も無理矢理下ろされて、腹に腕が回り、腰が上がると、何かが足の間に押し付けられていた。

「いやぁぁぁぁぁ!」

突然の悲鳴に、アズィールが陽菜を抱き起こす。

『ヒナ?ヒナ!』

焦点の合わない瞳には涙が溢れ、恐怖を色濃くしている。小刻みに震える躯をきつく抱き締め、何度も何度も名前を呼んでやった。暫くそうしていると、陽菜の瞳がアズィールを映した。

『…殿、下……?』
『ヒナ…すまない…落ち着いたか?』
『っ、あ…』

収まりかけていた震えが戻ってきた。

『…もう手荒な真似はしない…安心してくれていい』

想像していたより力強い腕は、次第に陽菜の震えを消してくれる。

『も、申し訳ありませ…っ、私……』
『君は悪くない…私がトラウマに触れるような言動を…』
『っ』

【トラウマ】…陽菜がびくついた事で確信した。陽菜には行為に関わるトラウマがある。だがトラウマがあるにも関わらず、不特定多数と躯だけの関係を続ける理由が解せない。アズィールの知る限り、その行為が原因ならばそこからは遠ざかるはずだ。

『ヒナ…もう大丈夫だ…君が嫌がるような事はしないと誓う。震えが収まるまで…ずっとこうしていよう』

陽菜を抱き締める腕も胸も温かく、アズィールの纏う微かな香りで混乱していた意識や激しい動悸が凪いでいく。

『…ヒナ?』

ふわりと陽菜の躯から強張りが消え、完全にアズィールに預けて来た。名を呼びながら様子を窺うと、瞼を閉ざし、深く穏やかな呼吸を繰り返すだけだ。

「…落ち着いたか」

そうして自身も深く息を吐いた。陽菜に告げられた一言一言は、アズィールを激しく動揺させていた。天衣無縫…陽菜は第一印象を打ち消した後はまさにそれだと思っていた。今日、それに隠した片鱗を知るまでは。勤務中は隙のない優秀な秘書だ。明け透けな物言いをする事もあるが、出過ぎた真似をする事はない。
アリーがデパートのブランドショップにスーツを受け取りに行った先で、陽菜に少々強引な誘いをしなければ、陽菜は今頃ここにはいなかっただろう。もしかしたら陽菜の腕を酷く掴んだあの男と、ベッドの上で裸で過ごしていたかもしれない。

「…殿下」

ドアの向こうからアリーの声がした。

「ヒナ様は…」
「あぁ…もう大丈夫だ。ヒナは眠っている」

場凌ぎにベッドカバーで陽菜の下着姿を覆い隠してから、アリーに入室を許す。

「…殿下、空いている寝室を整えました。ミズミシマをそちらに…」
「いや…このまま抱いていてやりたい。それに眠っているとは言え、もう暫くすれば目覚めるはずだ」

執着しないアズィールが、出会って一週間にも満たない陽菜に執着しているのを察した。ハレムにいる女たちですら、一度抱いたきりでもいいならば…と、希望すればハレムに入れてやった。どんなに高貴な出の女であれ、アズィールは次期国王として安易には妻を選べない。

「…畏まりました。お食事の用意はいつでもお申し付け下さい」
「アリー」
「は」

退室しようとしたところに名を呼ばれた。

「…お前の機転に感謝している」
「光栄です」

今度こそ退室する。静かにドアを閉めると、脳内では数々の手順が反芻されていた。アズィールは陽菜を手放さないだろう。ならばまずハレムの手配はしておいて間違いない。

アリーはアズィールの一番の侍従ではあるが、アズィールに誠心誠意仕えているつもりはない。気持ちは現シャーラム国王に仕えているのだ。王太子は国を率いるに相応しい統率を持ってはいるが、人間としての彼を好きになれずにいる。アズィールのハレムの女たちの扱いは、相手が望んだとしても行きずり扱いに変わりない。

一度抱いた女を抱かないのだ。宛がわれたから抱いた。今後二度と抱く事はないが、それでも希望するならハレムに部屋を用意してやる。ハレムに入らなかった女には、手切れ金として莫大な金が支払われる。ハレムの女たちはハレムにいる限り、その生活が保障されている。ハレムを出た女にも恩情を掛けてはやる。だがそれだけだ。
情事も女と二人で一室に篭り、一時間と掛からずにアズィールだけが出て来たかと思えば、そのまま一人で湯浴み。それ以上、女に会う事はない。それに中の様子を窺う限り、前戯も愛撫もほぼない。事前に媚薬を混ぜ込んだ茶を飲ませておき、女が潤った頃に篭って、すぐに事に及ぶ。しかし先程の陽菜への態度は違う。

「…シャーラム王家は日本人秘書の女性に弱いのか」

弟王子サイードも日本人で秘書、陽菜の同僚である美月に夢中だと言う。疑いようもない。アリーはすぐに食事が出来るよう手配を済ませる事にした――。




腕の中で寝息を立てる陽菜を、アズィールは穏やかな気分で見つめていた。抱いた女たちでさえ、こんな風に抱き締めた事はない。脱いで待たせ、背後から突き上げて、果てるなら外に。
しかし物腰の柔らかい印象とは違い、アズィールの情欲は深く激しい。時間に余裕があれば、何人でも相手にしただろうが、性交を覚える頃には多忙な日々だった。それは自身も理解しているが、性交自体に興奮を覚えたことはない。「公務の一環」でしかないのだ。

「サイードは…永遠を見初めた。私にも、あるのだろうか…」

胸に頬寄せる陽菜は香水をしていた。有名ブランドのものだと思われるが、陽菜には全く似合わない。その先を思ってアズィールが息を飲んだ。【ヒナに付けさせるのなら…】それは妻とする相手にするものだ。過去にどれ程似合わない香水を付けた女であろうと、その香りをイメージする事はなかった。

「…我々兄弟は日本人女性に弱かったのか」

苦笑すると、陽菜が小さく身じろいだ。フッと笑みを零し、優しく呼び掛ける。

『ヒナ』

応えるように瞼が開かれる。茶に近い黒の瞳が、ぼんやりとアズィールを映した。

『で…、…か?』
『気分は?』
『…お手数を…』
『構わない。もう少し落ち着いたら、一緒に食事でもしよう』

身を小さくする陽菜を、抱き締め直す。

『私はヒナと食事がしたいんだ。付き合ってもらえるね?』

声色は優しくはあるが、強引な台詞。

『受けにくいと言うならば、こうして抱えていた詫びとして同席してもらおう。一人の食事は味気ないからね』

陽菜に理由を与えると、不承不承頷いた。

「アリー」

ドアに向かって呼び掛ければ、外から返事があった。

「ヒナの為に着替えを用意してくれ。食事はそれからだ」
「御意に」

入室する事なく、指示だけする。

『着替えを用意させている。暫くこのまま我慢してくれ』

そっと髪を撫でられて囁かれると、どこか落ち着いた。恋人でもない男と寝るのはそれが暴行ではなく、望んだ上である事をその身に刻み、過去を上塗りする為だった。忘れようと何度も努力した。だが無駄な事…忘れられないなら、混濁させてしまえ。そうして陽菜は数多の男と躯だけの付き合いを重ねて来た。その策はうまくいっていた…今日まで。
アズィールの言葉は英語であったにも関わらず、翻訳されてみればあの記憶の中とぴったり一致した。

『ヒナ…まだ、私が怖いか?』
『…ぇ?』
『まだ震えている…知らぬうちに抉り煽ってしまったようだ』

落ち着いたと自身では思っていたはずが、アズィールに言われて気付いた。

『私とした事が…君を苦しめてしまったね。許してくれるかい?』
『殿下…原因は私に…』
『いや…君に非はない。紳士的な振る舞いに欠けていた私にあるものだから』

その声音に宥められて、次第に震えは収まっていく。

『震えは収まりつつあるようだね…気分は落ち着いたか?』
『はぃ…ありがとうございます、殿下』
『ヒナ…今はその呼び方を控えてくれまいか?私には【社長】と【殿下】以外に名があるんだよ』
『え…あ……』

頬に添えられた男らしい掌。その親指が唇を撫でて促す。

『アズィール…様』
『ヒナ』

咎めるような口調に、陽菜は困り果てたように口を開く。

『…アズィール』
『ヒナ、いい子だ』

あやす優しさで額にキスされた。ふとドアがノックされ、アズィールは陽菜の露出がないかを確認してから許可をする。目を伏せたアリーはアズィールに衣装を差し出し、そのまま部屋を出る。

『着替えよう、ヒナ』

そっと解放するが、腕は消えていく温もりを名残惜しんでいた。着替えは女性用の民族衣装で、アズィールは一つ一つを手に取り、着方を教えてやる。そうして主寝室の外で待つつもりだった。だが…。

『…ヒナ』

その足元に、陽菜を包んでいたカバーが落ちた。シャーラムにない肌色の姿が晒される。不躾なまでに目を奪われている事すら忘れ、視線が陽菜を撫でていく。首筋から鎖骨、豊かな胸の谷間。鳩尾を過ぎ、臍と卑猥に括れた腰。太腿に膝、足首。そうして脳内を支配したのは、それらを手や舌で愛しげに愛撫する自身と、身悶える陽菜の姿だ――。



陽菜が着衣する事で遮られるが、欲を抑える為の自国の衣装にも拘らず、陽菜がその衣装の下に強い淫靡を誘う肢体を隠しているのかと思うと、余計にアズィールを煽った。禁欲を自身に課した事はない。多忙故に時間がなかっただけだ。今、初めて味わう禁欲は、陽菜の為のもの。そして同時に陽菜を欲しいと強く願ってしまっている自身にも驚いた。特定個人を求めた事のないアズィールが、初めて陽菜ただ一人を求めてしまったのだから。

『…よく、似合っているよ…ヒナ』

溜息の出るようなその姿…スーツ姿以外をもっと目にしたい。

『さぁ…おいで、ヒナ』

差し出した手に重ねられた華奢な指先をしっかり握り、衣装越しにその卑猥な腰に手を添えた。ダイニングテーブルには二人分の食事とは思えない量が並べられていた。

「アリー、配置を変えてくれ。こちらにヒナを」

向き合った配置からテーブルのコーナーを挟んだ配置へ。隣に陽菜を座らせる。

「給仕は私がする。後はカートごと置いてくれ」
「…殿下?」
「アリー…私がヒナを甘やかしたいんだ」

さすがのアリーも驚いた…王太子自ら、外国人の…しかも一庶民に給仕をするなど、聞いた事もない。

「殿下…ですが…」
「アリー、私では出来ないと?」
「いえ…そうでは…」
「ならば私の言う様にさせてくれ」

渋々引き下がったアリーは、テーブルのカトラリーの配置を変え、これから給仕する予定だった料理をカートに乗せたまま、その場から離れた。

『さぁ、ヒナ』

椅子を引いて座らせ、給仕をすると自分も席に着く。

『シャンパンは?』
『はい』

グラスを掲げたアズィールが陽菜を見つめる。

『ヒナに』
『アズィール、に…』

返すように答えた陽菜とグラスを合わせて乾杯する。緊張しているのか、陽菜の表情は強張って見えた。それに気付くと、アズィールはいろいろと世話を焼きながら、料理や自国の話をしてやった。また美月を話題にだせば、陽菜は表情を和らげる。終盤には小さく笑みを浮かべもした。
そんな事に一つ満足を得てしまうと、次から次へと欲しくなる。もっとたくさんの笑みを見たい、触れたい…。

『ヒナ、シャーラムの料理はどうだ?』
『驚きました…美味しかったです』

デザートを終え、ゆっくりとシャンパンを味わいながら話をしていると、今日一番の笑みを見た。

『ヒナ、もう暫く一緒にいてもらえるか?』
『ぁ…はい』

アズィールは食事の前から続く躯の疼きが加速するのを感じた――。
リビングに移動した二人は、ワインを飲みながら言葉少なでいた。十四も年上のアラブの王太子は、理解もある大人な男だ。陽菜はもっと年上の男に抱かれた事もあったが、精神的な余裕なのか、アズィール以上の包容力はなかった。
今も…隣に座るアズィールは、そっと肩を引き寄せて、甘やかすように髪を梳いてくれている。引き寄せる腕や頭を預ける肩は硬く頼り甲斐のあるものだ。
数多の女たちはこうされてハレムに入ったのだろうか…そう考えて僅かばかり理解出来る気がした。密着していて感じるのはそれだけではない。アズィールの纏う香りは、香水とはまた違う気がした。

『…香水、ですか?』
『いや…今はしていないが、本国に帰れば欠かさない。気になるか?』
『不思議な香り…』
『香水とは少し違うからな、香油だ。湯浴みの後、塗り込めるんだ』
『じゃあ…アズィール、の…香り?』
『体臭かもしれないな』

首を捻って見上げれば、苦笑いしたアズィールがいる。

『嫌か?』
『…香水より…ずっといい』

アズィールの首筋に鼻先が触れた。

『そうか…乳香を使っているせいで、熱が加わると香りが強くなる』
『…シャーラムではオーソドックス?』
『そう、ではない…これは私の為のものだ。サイードにもサイードの為のものがある』
陽菜が喋ると、首筋に息が掛かる。耳元が弱いと言うのを一般論として聞いた事はあったが、首もそうとは知らなかった。
『…ヒナも香水をしていたな』
『…もう変えます』

俯いて肩に凭れた陽菜。

『…理由を…訊いても構わないか?』
『関係が終わるたびに変えるんです』
『っ…』
『毎回、使い切る事はないですが…』

肩を抱く腕に力が込められた。

『…ごめんなさい…こんな話…』
『謝る事はない、訊いたのは私だろう?私が訊きたかったんだ』
『…綺麗な話じゃないから…アズィール、の…耳には入れるべきじゃ…』
『そんな事はない。私はヒナの話を訊きたいんだよ…隠したがる事ですら、暴いてやりたくなるくらいにね』

身を小さくする陽菜をしっかりと抱く。ローテーブルにグラスを戻し、陽菜からも取り上げる。

『ヒナ…君を私に教えてくれないか?』
『…私の事なんて…』
『君の全てを暴きたい』

向き合ったアズィールは、頑なな陽菜が折れるまで選びに選んだ言葉を重ねた。

そうして引き出した陰惨な過去――。母は陽菜を一人で育てたが、その為だと言い訳して男を転々としていた。男に媚びて養ってもらう母を、陽菜は嫌悪した。
働かない母のような女にはならないと誓い、バイト三昧の中、自力で短大を卒業した陽菜だが、その人生を変えた原因はやはり母だった。
 当時、十九だった陽菜の母が一緒に暮らしていた男は、母から聞いたが実の父だった。ヨリが戻ったらしかったが、父は陽菜が我が子だとも知らず、ろくな男ではなかった。
働かない父だったので、母は水商売に出ていたが、母不在の夜――その実父に性的暴行を働かれのだ。逃げるように家を飛び出し、傷付いた心身を抱えたまま、陽菜は一人で生きる為に自身の可能性を探り続けた。そして漸く辿り着いた職業が秘書で。
美月同様に他社で大成しつつあった陽菜を、常務がヘッドハンティングし、今や親友とも呼べる美月に出会った。


アズィールは腸が千切れそうな思いだ。だが不思議に思うのは、それで男に恐怖心を抱いていない事だ。

『…男が怖くならなかったのか?』
『暫くは…ありました。でもどんな仕事をするにもそれでは勤まらなくて。だから躯だけの相手を作ったんです…合意での接触を増やして、あの時の事に塗り重ねて…』

それが今も続いているだけ…そう締め括られた。アズィールにすれば、【だけ】ではない。いつまでも終わる事のない、悲しい連鎖だ。
『…やめるんだ、ヒナ』
『…そんな簡単じゃないんです』
『君なら恋人も…』
『…長く続きませんでした』

陽菜はアズィールと目を合わせようとしない。その目は虚ろに見えて、苛立ちとも悲しみとも取れない感情を呼び起こす。そうして沸き上がったのは庇護欲だ。傍で守りたいと…陽菜を包みたいと感じてすぐ、胸に引き付けた。抵抗されても許さず、ただ抱き締める。

『…ヒナ…私に愛されてみるか?』
『な、何を…』
『私が愛してやる…』

陽菜を腕に抱き上げて、また主寝室へ向かった。中央に降ろして覆い被さると、顔を背けられた。

『…キスは…しないで』
『…わかった』

アズィールは脳内に描いていた陽菜への愛撫に夢中になっていた。女を抱くに愛撫など考えた事もないが、陽菜は触れればあえかに悶え、必死に縋り付いて来る。欲情を恐ろしいと感じたのも初めてだ。時間をかけて溶けていく陽菜を見たくもあるが、すぐに繋がりたいとも思える。一糸纏わぬ姿は、アズィールから余裕を奪う。手荒くなりそうな自身を抑えながら、素肌で接した陽菜は、アズィールをただの雄に変えた。

『っ、ふ…』
『ヒナ…もっとだ、もっと乱れてしまえ』

一寸たりとも離れたくなくて、断りもせず陽菜の中で果てた。だが雄は収まりもしない。陽菜に求められると収まるどころか、煽られて情欲の焔は激しく燃え盛るばかりだった――。

幾度果てたか、もう覚えがない。この行為でここまで疲弊したのは初めてだ。陽菜もすっかり疲れた様子で、アズィールの腕で寝息を立てている。このままでいたい…そう強く思ったアズィールは、事後のまま…陽菜を抱き寄せて瞼を閉じる
ふと日本に来てから使っていないはずの自身の香を強く感じた。陽菜には甘い花の香りもいいが、やはり柑橘のような爽やかな甘さがいい…とろとろと溢れ始めた眠気に身を任せながら、アズィールは深く眠りついた――。
意識が浮上して、明るさが瞼を刺す。視界は見慣れない色に占拠されている。

『おはよう、ヒナ』
『…アズィール…』
『よく眠っていたね、気分は?』

視界を占拠していたのはアズィールの胸だ。

『湯浴みに行こう』

全裸のアズィールが同じく陽菜を腕に抱いて、主寝室のバスルームに向かう。広い浴槽には並々と湯が張り、不思議な香りがする。

『ここも…香油?』
『バスオイルだ。これは嫌いか?』

抱えたままで浴槽に入ると、陽菜を背後から抱えるように浸かる。まるで陽菜の椅子だ。自らの手で陽菜の躯を洗うように撫でていく。

『…好き』
『そうか、よかった』

凭れる陽菜がリラックスしているのを感じ、アズィールも安堵した。

『ヒナ、髪を洗おう』

また抱き上げられ、丁寧に髪を洗われた。世話好きなのかと思いながらも、陽菜はされるがまま。子供でも甘やかすように、甲斐甲斐しくされた経験がない。だが居た堪れない気分ではなく、寧ろ心地いい。

『じゃあ、私も』

今度は陽菜がアズィールの髪を洗ってやる。アズィールもこの甘い雰囲気が嫌ではなかった。陽菜の穏やかな笑みは、向けられた事のないものだ。秘書である時の陽菜の笑みが、正しく営業スマイルである事も理解し、今の笑みの方がずっと美しいと感じた。

そうして二人がアリーに会ったのは昼にも近い時間だ。用意された食事を済ませると、リネンの交換が終わっていた主寝室に逆戻り。行為に及ぶわけではないが、二人で横になり、アズィールは陽菜に腕枕してやると、髪を梳き、頬を撫で、額にキスをする。それが心地いい陽菜もアズィールに擦り寄り、背に腕を回す。暫くすると、陽菜はまたうつらうつらし始めた。

『眠っても構わないよ、ヒナ?私もこのまま眠れそうだ』
『ん…アズィール…』

陽菜を撫でていた手を絡めて繋げば、陽菜の胸元に引き寄せられた。次第に深くなる息遣いに、アズィールも誘われて眠っていた。

この五日――まるで蜜月だったと、アズィールは反芻する。互いに気が向けば時間も気にせず繋がり、夜は深く抱き合う。
複数回に渡り繋げたのは陽菜が初めてだ。だがまだ足りない。大切なものが足りない。欲深になっている自身に、弟に偉そうな事を言った過去を悔いた――。




 美月の休暇明け、アズィールの元に本国に帰ったサイードから連絡があった。ホテル誘致の関係で、オーナーの結婚式に招待され、出席した先で、新婦の親族だった美月に再会し、プロポーズを受けてもらえた、と。
出社した美月に声を掛ければ、休暇前が嘘のような晴々とした笑みだった。陽菜は自分の事のように喜んでいる。そこで常務から、美月をアズィール付きにとの話があった。いずれ陽菜もシャーラムへ…浮足立つ気持ちを抑える。出社すると休暇が嘘だったかのような、秘書の顔に戻ってしまった。


「じゃあこれね」

アズィールが帰国する事になった。サイードと美月の婚儀の為でもあるのだが、本国にもそれなりに公務を抱えているのだ。これからアズィールに付くのは美月だ。久々の再会もそこそこに、二人は休暇の間の引継をしている。

「うん」
「また暫く美月に会えないなんて寂しい…」
「陽菜…陽菜にも来てもらえたらいいのに…」
「けど支社が出来たら私も転勤だし、また一緒」
「待ってる、ね」
「うん、いってらっしゃい、美月」

帰国前夜、アズィールはまた陽菜をホテルへ連れ帰った。日本では最後の逢瀬だ。翌日のチェックアウト前に、陽菜がアズィールを呼び止めた。

『美月、お願いします』
『あぁ、勿論だ。私の義妹だからね』

あっさりした陽菜とは対照的に、アズィールには気掛かりがあった。

『ヒナ、次に私に会うまで、決して誰にも抱かれてはならないよ』
『何を急に…』
『君は私に愛されているんだ、私以外がこの躯に触れる事は許さない』
『私はアズィール、の愛妾になったつもりはないわ』

顔を背ける陽菜の頤を掬い、目を合わせる。

『そうするつもりは一切ない。ヒナはハレムに入れない』
『当たり前です、私なんか…』
『私のヒナを勝手に卑下する事も禁ずる』
『っ!?』
『天に輝く灼熱の太陽より私を熱くさせてくれる…ヒナ、私の愛しい太陽』

【私のヒナ】【私の愛しい太陽】…気障すぎるそれらが妙に似合うと思えるのは、アズィールのお国柄だと言い聞かせる。

『よく覚えておきなさい…サイードも強引だが、私程ではないんだよ。ありとあらゆる権限を駆使して、必ず君を手に入れる』
『…王太子殿下だもの…全て言い成りになるんでしょう?』
『確かにそうだ。だが私はそれすら厭わない…ヒナ、必ず君を手に入れるよ。忘れてはならない、いいね?』

頬に触れて額にキスを贈る。名残惜しいが今暫し堪えるだけだ。
空港で美月と合流し、専用機で本国に向かう。機内では緊張気味の美月を気遣い、本国の話をしてやりながら、美月からは陽菜についての話を訊く事が出来た。

『…そうでしたか…でも陽菜が自分から話すなんて…珍しいです』
『そう、なのか…?』
『はい…特にその話に関しては。私と殿下しか知らないと思いますし。それに陽菜は、不安になると温もりを求めたくなるみたいで…』
『心配だな…』
『…はぃ』

陽菜に思いを馳せる。だがもう動き始めた。アズィールが陽菜の全てを手に入れる為――。
「は!?今からですか!?ちょっと急すぎます!」
「社長の侍従の方もお待ちだ。とりあえずパスポートだけあればいい」

専用機が日本を離れてからまだ二時間にもならない。秘書課長が陽菜に、シャーラム行きを伝えたのだ…副社長命令で。

『ヒナ様』
『アリーさん…計画的犯行は罪が重いの知ってますか?』
『存じ上げません。サイード殿下妃ミツキ様は婚儀の日取りも決まり、これからは準備などで我が殿下に付いていられる時間がございません。代わりを務めて頂けるのは、ヒナ様だけです』
『そうじゃなくて…』
『ご自宅へパスポートを取りに参りましょう』

押し込まれるように乗せられ、滑り出した高級車。陽菜の自宅前で停まり、陽菜を降ろしてアリーも後に付いて行く。

『パスポートと普段の手荷物だけで結構ですよ』
『わかってますよ、わざわざ付いて来て下さらなくても』
『アズィール様の大切な方に何か遭っては困りますから』
『心配しすぎじゃありませんか?』
『おかしな輩に触らせるわけにはいきません』

アリーは以前の事を言っているらしい。アズィールにするように、ヒナの斜め左側を一歩後ろから付いて行く。

『ヒナ様の身を守る事が至上命題ですので』
『他に仕事もらえないんですか、アリーさんは』
『今、私は侍従に付いて以来、初めて…最も重大な役目を任されているんですよ』

そう言ったアリーは口元が緩んでいるように見える。

『入ってもいいですよ』

アリーに声を掛けて部屋に上がる。パスポートを手にすると、それをアリーが預かるらしく、手を差し出されたので渋々預ける。ふとドレッサーが目に入り、つい先日まで使っていた香水が目についた。迷わずごみ箱に放り込むと、バニティバッグに化粧品類を詰める。

『必要な物は本国でご用意致しますから』
『駄目駄目。使いやすいものとか、気に入ってるものとかあるんですから』

結局、スーツケースに荷物を詰める事になった。

『ついでに寄りたいところがあるんです』
『仰って頂ければ参ります』

スーツケースを車に積み込んで、陽菜の案内で向かうのはチェリーポールだ。陽菜も美月も愛用のブランドで、結婚祝いはここにすると決めていた。
まだシャーラムに出店はないので、あちらでの生活に不便だろう。
美月のサイズの下着を一週間分と夜の営みに刺激を与えるベビードール、夏でも蒸れないストッキングや制汗対策の小物など、両手で抱える程の量をラッピングさせている間に、自分用の下着やストッキングなどを買い込む。
 アリーは女性客だらけの店内で何の抵抗もなく、陽菜の荷物持ちをしていたが、どうやら日本人が慎み深いのは外側だけで、その内側はとんでもないのだと知る。四方やこんな経験をする事になるとは思いもしなかったが、これからを考えれば必要な事だ。

 空港には専用機が待っていた。

『あの鷹の印はシャーラム王家の?』
『あれはアズィール殿下のものです』

鷹が獲物を狩るが如く大きく両翼を広げ、嘴には半月刀を銜えている。その脚も鋭い鉤爪で獲物を掴もうとしているようだ。

『香り以外にも個人のものがあるのね』
『継承権第一位ともなられると、何にしても特別です』
『大変ね』

他人事に呟いて、陽菜は専用機に乗り込んだ――。




『うっわぁ~…砂、砂、砂!砂まみれ!』
『砂漠ですので』
『砂漠なんて実物初めてだもん。精々映画よ』

専用機内では十数時間、まともに眠れずでナチュラルハイに近い状態だった。SUV車に乗り換えて、道どころか案内板もない砂漠をひた走る。王太子宮には専用機と同じ印がある。銃器を構えた兵が立つ巨大な門を潜り、車を降りる。空港よりは高い塀のせいか若干熱風は緩んだが、ジリジリと照り付ける太陽は容赦がない。

『ヒナ様、中へお早く』

急かされて宮殿内に踏み込むと、風は一変。熱の感じられない涼やかなものに変わる。

『アズィール殿下がお待ちです』

その名に胸が騒ぐ。彼が日本で別れてから一日も経っていない。機内ではうつらうつらするたびに、居もしない優しげなバリトンが陽菜を呼ぶせいで、全く眠れていない。しかもここは焼けた砂の匂いに混じって、アズィールの香りがする。先導するアリーに付いて奥へと進むと、途中に見慣れない印を見た。アズィールの鷹の印…その鷹の鉤爪が金の棘で雁字搦めにされた円を掴んでいる。部屋の用途によって様々なデザインになるのだろうか…そんな認識でしかなかった。


王太子宮の使用人たちは一様に陽菜を見るや跪いたり、深く深く頭を下げる。秘書如きに周囲からそうされるのはさすがに居た堪れない。漸く着いた扉にも、先程見た印がある。

『アリーさん、この印何て言うの?』
『アズィール殿下の新たに出来たばかりの印で、鷹に金棘搦めの太陽です』
『この丸は太陽だったんだ?』
『さ、左様です…』

アリーはすっかり呆れ返っていた。天衣無縫とは聞いていたが、これを見ても何も感じないのかと。

「アズィール殿下、只今戻りました」
「入りなさい」

聞こえたアラビア語は柔らかなバリトンで、間違いなくアズィールのものだ。

『よく来たね、ヒナ』

中には数人の民族衣装の男たちとアズィール。人目も気にせず腕を広げて陽菜を包むと、その場にいた男たちがまた、陽菜に深々と頭を下げた。

『白々しい…計画的犯行は罪が重い事を知るべきだわ』
『また手厳しいな、私のヒナは』
『出張なら最低一週間前に言って頂けませんと、対応致しかねます』

ふと秘書の顔をした陽菜だが、急な出張が不満なのか営業スマイルすらない。

『だが私のヒナは来てくれただろう?』
『だから計画的犯行なのよ、アリーさん残して行ったくせに』
『アリーにはいろいろ用を頼んでいたからね』
『重大な罪だわ』
『それならヒナも罪人だよ。私の心を鷲掴みにして奪ってしまったんだから』

甘く気障な台詞に蟀谷が痛い。どうしてこうも平気なのか。

『アズィール王子殿下…仕事をなさいませ』
陽菜はアズィールに抱き締められたままで、整然と答えている。
『再会を喜ぶ隙もくれないのか、ヒナ?』
『再会を喜ぶも何もまだ一晩も経ってません』