目に溜まった涙を拭いながら水面に顔を向け、大きく深呼吸をする。
いつの間にか水面には一艇もボートは出ておらず、静けさと穏やかさの両方が水面の銀色の輝きを際立たせていた。
「俺、頑張ります。
今は落ちこぼれているけど、頑張って動いて本当の落ちこぼれにならないようにします」
きゅっと口元を結び、柵に掛けている両方の手を強く握り締めた。
「何かちょっと可笑しい。
落ちこぼれとか、本当の落ちこぼれとか。
落ちこぼれ、落ちこぼれって言い過ぎよね」
軽く握った右手を口元に当て、彼女は笑いながら僕の隣へとやってきた。
風になびく髪が僕の肩に当たり、それだけで胸が熱くなるような気がした。
「・・・頑張れ」
近づいてきた体とは裏腹に、顔は僕とは反対側に向けてそう呟いた。
それは、初めて彼女と出会った日に車の中で上越が僕に掛けてくれた言葉や仕草そのものだった。
きっと、上越もデビューして上手くいかなかったとき、彼女から同じように言われたのであろう。
僕はその言葉を二度も掛けられ、二度とも背中を押してもらえた。
「上越が九宝さんに頼んだのか何かしたんですよね?
わざわざ、ここまで連れてきてくれてありがとうございました」
隣で彼女が少し身を引いてしまうほど、僕は深々と頭を下げた。
周りの視線が幾らか気にはなったが、今の僕に彼女への感謝の気持ちを示すにはこれしかないと思う。
きっと、上越が心配して、九宝さんに僕を励ますように頼んだのだろう。
そうでなければ一度しか会ったことがない男を誘わないだろうし、会うのが二度目の男にあんな言葉を掛けたりはしないだろう。
「頭を上げて」
その言葉にゆっくりと頭を上げると、彼女は体の正面をこちらに向けていた。
顔も視線もこちらに向けられていて、あまりにも真っ直ぐに見つめられているので恥ずかしくなり視線を逸らす。
「確かにつぐみちゃんにここに連れてきてくれと頼まれて、連絡先を教えてもらったのは確かよ。
でも、初めて会ったときからあなたのことが気になっていたことも確かだから」
小さく「えっ」と零れて、彼女のほうに視線を戻す。
今度は逆に彼女が僕から視線を逸らし、なびく髪を撫でていた。
「私も・・・」
途中まで何かを言いかけたところで止めて水面を、いや、水面よりも遠くを見つめていた。
それに合わせて僕も同じように遠くを見つめ、二人の間には静かな水面が奏でる小さな波の音が彩られていた。
そうしている間にファンファーレが鳴り響き、次のレースが始まった。
一マークでは激しい競り合いが展開され、今度は二コースの選手が一コースの選手の内側から抜き去っていった。
「今のは『差し』」
ターンマークを指差す彼女の顔は、いつもの笑顔に戻っていた。
その笑顔を見ると、どこか落ち着いている自分がいることに気付き、それを悟られないように子供のような笑みを作った。
「頼まれて連れてきたはいいけど、私一人が盛り上がっちゃって何か悪いなぁ」
両手を頭の後ろで組み、スタンドの中央へと歩き出した。
少し間を空けて後に続き、彼女の後姿を見つめる。
水面を見つめる目は、着いたときと変わらずに輝きを放っていた。
本当に彼女は競艇が好きで、恐らくいつも変わらずに胸を躍らせながらその目で見ているのだろう。
そんな彼女を想像し、小さく笑う。
「そんなことないですよ、今日は来て良かったです。
水面は銀色に輝いて幻想的だし、風は爽やかで気持ちいい。
そして、何よりもそこを走るボート、六艇が凌ぎを削って勝負するレース・・・
どう言っていいか分からないですけど、とにかくすげぇ良かったです」
こんな言葉で彼女に今日の僕の気持ちが伝わるとは思えず、自分の文章力の無さと口下手なことを恨んでしまう。
それでも、今の僕の気持ちは本当に清々しいくらいに良かった。
ほんの少しでも気持ちが伝わったらしく、彼女は「そう」と嬉しそうに呟いてこちらを見てきた。
「今はまだ仕事を決めることが先だけど、今日のことを背景にしたものを書きたいです」
嬉しそうだった彼女が、何かに驚いた表情へと一変した。
そんなに不思議なこと、変なことでも言っただろうか。
「あっ、俺、実は携帯小説を書いているんですよ」
「あきらめられない夢に」
「えっ」
「もしかして、宮ノ沢くんって『宮沢ニノ』?」
「ちゃんと私のレース見てくれた?」
つぐみさんと上越のレースを見に行ってから五日が経ち、レースが終わったという次の日に上越から電話が掛かってきた。
彼女の成績は予選を六位で通過し、優勝戦は三着という成績だったらしい(全て彼女からの言葉そのままである)。
「絶対に二人が来ていると信じて、私、あのレースはメイチのスタートいったんだから」
興奮冷めやらぬとは、まさに今の上越の状態のことをいうのだろう。
この電話の序盤には「レースの次の日は体がだるくて、元気が出ない」と確かに言ったはずだが、十分に元気が有り余っているように思える。
しかし、この状態の彼女にそのことを口にしてしまったら火に油を注ぐことと同じように興奮が増してしまい、恐らく収拾がつかなくなってしまうだろう。
「本当に凄かったよ。
ところで『メイチ』って何?」
ここは冷静に彼女を労いながら、少しずつ興奮を冷ましていくことが今の僕にできる一番の最善の策だと判断した。
「ええっね、目一杯とか精一杯とか、そういう意味」
質問が効いたのか、先ほどよりもずっと大人しく彼女は答えた。
あのままの状態で電話を続けられたら、逆に僕のほうが疲れてしまいそうだった。
「でも、つぐみさんが私のレースを見せに行くからと言って、宮ノ沢くんの連絡先を教えてくれって聞いてきたのには少し驚いたな」
「えっ」
その言葉に耳を疑った。
仕事を辞めて地元に帰ってきた僕が落ち込んでいて、それを励ますためにつぐみさんに上越が声を掛けたと思っていた。
いや、あの日確かにつぐみさん自身も僕の質問に対して否定をしなかった。
それじゃ、彼女はあのとき嘘をついたということなのか。
一体、どうして、何のために・・・
「どうして僕が、宮沢ニノって分かったんですか?」
全てのレースが終わり、駐車場の出口は帰宅する車で渋滞の列を作っていた。
その間を嬉しそうに話す人や、悔しそうに話す人、様々な人がすり抜けていく。
助手席では僕の質問の答えを探している彼女が、そういった人々を眺めていた。
「最初にあなたの名前と漢字を教えてもらったときに『あれっ?』って思ったの。
今、思うとそのときに、分かったといえば分かったということになるのかな」
ハンドルを握り締めたまま彼女へと目を向けると、照れくさそうな笑みを浮かべて左耳の裏側を左手の人差し指で掻いていた。
それを見つめた僕までもが照れくさくなってしまい、左右対称になりながらも僕まで同じ仕草をしてしまう。
「ほら、漢字で宮ノ沢くんの名前を書くと、宮沢ニノに何となく似ているというか・・・」
上手く説明ができないらしく、彼女はそこまで言ったところで今度は両手を組んで膝の上に置いて下を向いてしまった。
その仕草が何とも幼く見えて、美しいという印象よりも可愛いという印象を際立たせた。
それに対して思わず小さく笑みが零れてしまった。
その行為を彼女は横目でちらりと見つめ、僕と目が合いそうになるとすぐにまた視線を下に戻した。
「まあ、作家名の由来はそんなところですよ。
宮ノ沢慎二から『慎』という字を抜かして、『二』を漢字ではなくカタカナの『ニ』にして並べ替えて『宮沢ニノ』が誕生したんです」
その言葉を聞いて自分の考えが何となくでも当たっているように思えたのか、申し訳なさそうに下を向いていた彼女の表情が一瞬にして明るくなった。
「そうでしょ、やっぱりそうだと思ったのよ」
「でも、それだけで分かるなんて凄いですね」
「それだけじゃないの。
宮沢ニノの作品には三重がたびたび出てきていたから」
三重をモデルにしたり、思いながら書いたことはあっても、僕は自分の作品には三重という地名を出したことがない。
それだけに今の彼女の言葉は、僕を驚かせるに十分な言葉だった。
「そんなのすぐに分かるわよ。
作品を読みながら凄く頭の中でイメージがしやすくて『ああ、これってあそこのことだよね』って、不思議とどこか懐かしくなりながらページを進めていたもの」
携帯小説の感想を書かれたことは何度もあるけれど、面と向かって作品の感想を言われたのは初めてだった。
同じ言葉でも、書かれることよりも口にして伝えられることがこんなにも照れくさいということを初めて知った。
そして、僕の作品を読んでいてくれている人が目の前にいるという事実が何よりも嬉しかった。
「そんな、僕には勿体ない言葉です・・・」
照れくささを悟られたくはないと思っていても、きっと彼女にはそのことが伝わってしまっているだろう。
この感情を隠しきれないくらい僕は傍から見れば舞い上がってしまっているに違いない。
何か上手く誤魔化せるような、そんな他の話題を頭の中で急速に考えた。
「あ・・・」
「そういえば、つぐみさんの劇団っ」
お互いが同時に話題を切り出したので言葉が重なってしまった。
そして、あまりにも慌てて話題を切り出そうとしたので、思わず『九宝さん』ではなく『つぐみさん』と呼んでしまったことに気付き、照れくささを通り越して恥ずかしくなってしまった。
「・・・いいよ」
「・・・」
「『つぐみ』でいいよ。
そのほうがよそよそしくないから」
言葉ではなく、首を縦に一度だけ振るという仕草で返事をした。
それからはしばらく沈黙が続き、お互いが話題を待っているような時間が過ぎていった。
「つぐみさんの劇団の由来」
いつまでも彼女を待たせてはいけないと思い、僕のほうから沈黙を破って話題を切り出すことにした。
それに対して彼女は顔を前に向けて腕を組んで、「よくぞ聞いてくれた」と今にも口に出しそうな表情を見せた。
「松坂○○○劇団(まつさかさんじゅうまるげきだん)。
松坂はそのまま地名で、○○○(三重丸)を漢字で書いたとき、『さんじゅう』と『みえ』をかけているのよ。
それともう一つは、観て頂いた方から三重丸の評価を貰えるような劇団になりたいという気持ちも込めて。
父が三十年近く前に名付けたのよ」
嬉しそうに由来を話すつぐみさんの目には、三十年前に名付けたときの光景が浮かんでいるようだった。
「私が三十五歳だから、生まれたからすぐに劇団ができたの」
あまりにもさらりと自分の年齢を言い、そして何事もなかったかのように話を続けようする彼女に、僕は慌てて待ったをかけた。
「つぐみさん、三十五歳なんですかっ」
「そうよ、老けて見える?」
初めて知った彼女の年齢は僕が考えていた年齢よりも大きかった。
そして、何よりも自分の年齢を抵抗も無く話す彼女に、目を大きく開いて驚きを表した。
「いや、逆ですよ。
てっきり僕の一つか二つだけ年上だと思っていましたよ」
「そう?ありがと、嬉しい」
嬉しそうな表情と口調、やはり三十五歳で僕よりも十歳も年上ということが信じられなかった。
「というか、自分の年齢をそんなに簡単に言っていいんですか」
「いいの、いいの。
もうそんな歳でもないし、私自身がそういうことにあまり拘りとか気にしていないから」
笑いながら彼女は太ももに両手を置く仕草をして、僕の視線が太ももに注目してしまい慌てて前に戻す。
十歳という歳の差の女性の太ももは、年上の女性に憧れる二十五歳の僕には大人の魅力という『エロス』を一瞬だけ感じてしまった。
「どうしたの?」
不謹慎な想像を、思い切り首を横に振って必死でそれを振り払う。
つぐみさんはそれを見て、笑いながらもう一度同じ質問をした。
その笑顔に不謹慎な想像はどこかへと消え、こちらも今の自分の仕草が可笑しくなって一緒に笑い、車内は二人の笑い声で包まれた。
「だから、私は小学生のときからあの劇団で舞台に上がっているの」
涙目になりながら話す姿にもう一度笑い、僕も涙目になりながらどこか納得したような返事をしてから涙を拭い、深呼吸をして平静を取り戻した。
「○○○劇団の人たちってみんな演技が上手くて驚きましたけど、つぐみさんは僕みたいな素人が見ても別格って分かりましたよ。
小学生のときから舞台に上がっているとなると、もうベテランの域ですね」
最初の言葉は本音で、最後の言葉は冗談のつもりで言ったのだが、彼女の機嫌を損ねてしまったのか気まずそうな表情をしていた。
「ふふふ」
少しだけ目を逸らすと、また元の表情にも戻っていた。
今の気まずそうな表情は僕の気のせいだったのだろうか。
それとも、あれも演技だったというのだろうか。
「ありがと。
でも、まだ三十五歳のレディにベテランは失礼じゃないの」
「す、すみません」
まるであの一瞬が無かったかのように彼女は笑い、僕もそれに気付かなかったように笑った。
彼女には僕に触れてほしくない何かがあるのではないかと思い、そして、それは僕が触れようとしてはいけないものなのだと感じた。
勘違いなのかもしれない。
それでも、無神経に彼女の心を傷つけるよりは、勘違いのほうが何倍もいいはずだ。