空耳かと思った。吉辰は、今確かに鈴姫のことを「鈴」と、初めて呼んだ。
鈴姫が吉辰を見上げると、今までと同じ穏やかな笑みが浮かんでいる。鈴姫はこの笑みに安心を覚えるのを感じた。

「…はい。」
小さくうなずいて鈴姫が答えると、
「そうか。…そういえば鈴の小袖も桜の色だな。」
「…はい。」
吉辰が自然に鈴と呼ぶのに鈴姫は妙に緊張した。

吉辰はもちろん無意識に鈴と呼んだわけではない。市を回っていた際、官兵衛から自分の妻なのだから「そなた」はおかしいと言われたのだ。鈴姫は分かっていないようだか、吉辰はこれでも緊張しているのである。
しかし、鈴姫が「はい」と返事してくるので、吉辰はもっと呼んでみたくなった。

「のう鈴。」
「はい。」
鈴姫が返事をしても吉辰からはなにも言って来ない。鈴姫は吉辰をちらっと見上げると、吉辰は笑っている。慌てて鈴姫は、
「…あの、私なにか…。」
笑いを堪えながら、吉辰は悪戯が過ぎたと反省する。
「いや、すまん。ただ、鈴と呼んでそなたが返事をしてくれるのが嬉しくてな。」
「えっ⁈」
鈴姫は驚いたと同時に恥ずかしくなり、顔が赤くなるのを感じ隠すように下を向いた。
(可愛いな…。)

その日から吉辰は鈴姫のことを「鈴」と呼ぶようになった。