直之は和那の国に5日滞在した。鈴姫は直之に”兄上の馬鹿”と言ってしまった手前、何かと気まずさを感じ、食事の時ですらほとんど話すことがなかった。一方直之は、毎日上機嫌で城下に行ったり、遠くまで馬で駆けて行ったりしていた。城下では直之は民に人気があるらしく、毎日何かと土産を持って帰ってきた。西国を治める総大将だけあり、民の心を掴むのは朝飯前のようである。

直之が西国へ帰る前日。鈴姫は、夕日により紅に染まった空を見上げ、中庭に降りる階段に座って物思いにふけっていた。
吉辰は父・辰之介と直之と共に城下に出ていた。二人が帰る前に夕餉の支度をしなければならない。そろそろ侍女たちが準備を始める頃だ。
しかし、何となくこのまま紅の空を眺めていたくて、座ったまま動かないでいた。

(明日、兄上はお帰りになるのね…。何でこんなに寂しさを感じるのかしら。)

直之は鈴姫を訪ねたらそのあと自分を離縁させる。

それが今までの流れである。しかし、今回の直之の様子を見ていると、そんな気配は欠片もない。今までの直之が幻だったのではないかと思えるほどであった。

「こんな所で何をしておる鈴?」

直之の声にはっと右側の後ろを見ると直之が立っていた。鈴姫は慌てて立ち上がり、

「あっ、兄上。城下に行っていらしたのでは…。」
「あぁ、行っておった。しかし辰之介殿と吉辰殿はまだ用事があるらしく、わしは先に戻って参った。」
「そ、そうなのですね…。私夕餉の支度がありますので…」

鈴姫は直之から逃げるようにその場を去ろうとした。しかし、

「今日くらい夕餉の支度は松江たちに任せておけ。少し、わしと話をせぬか。」

直之に呼び止められてしまった。鈴姫は仕方なく直之から少し距離をとったところに正座して姿勢を正した。

「相変わらず其方はわしを避けるのだな。」

直之の言葉に鈴姫はびくりと肩を強張らせた。しかし、直之を見ることができず、視線を泳がせる。

「ははは、良い。鈴がわしを避けるのもわしが原因だからのう。」
(!)

鈴姫ははっと直之の顔を見る。直之は苦笑を浮かべて空を見上げている。

「和那の国は実に良い国じゃ。民が皆元気に毎日を生きていて城下が活気で溢れている。この国は国造りの理想が多く詰まっている。」

鈴姫は直之の言葉にじっと耳を傾けた。

「鈴、今幸せか?」

直之の言葉に鈴は今まで避けていたことも忘れ、直ぐに返事をした。

「はい。」

目の前にいる直之は怖いと感じない。逃げたいとも思わない。

「そうか。わしもやっと安心して国に帰れる。安心せい鈴。もうわしは其方に離縁させたりせぬ。吉辰殿を信じてついゆけ。」

「…はい、…兄上。」

鈴姫と直之は顔を合わせ、互いに笑みを浮かべる。

「しかし、鈴と吉辰殿を見ていると、わしも沙耶に会いたくなるのう。」

直之は紅の空を見上げて、ぽつりともらした。直之の口から亡き妻の名前が出るなど、おそらく初めてであった。

「義姉上に和那の国を見せとうございます。」

「そうだのう。あと、わしも吉辰殿と其方のように仲睦まじくしたいのう。」

「…兄上の馬鹿。」

直之の冗談交じりの言葉に、鈴姫は幼子のように拗ねたが、何年ぶりかに直之と真摯に話せることができ、胸のつっかえがとれたような、晴れ晴れとした気持ちになれた。

次の日、直之は上機嫌で西国に戻って行った。