自分の視界いっぱいに広がる、黒い塊。
それが髪の毛であることに気付くまで数秒かかった。

口にまで入り込んで来るそれは艶々、というよりてらてらと光っていて、触りたいという欲求よりもむしろ、引きちぎりたいという衝動を呼び覚ます。


毛の塊はゆっくりと、亀のような速度で横にずれていった。

丁度日食が終わる時のように、黒い塊の向こうから小さい電球の安っぽい明かりが見える。
突き刺さるようにして降り注いで来る光に、確実に自分の網膜が痛めつけられ、殺されている気がした。


ごとん、と右耳の近くから鈍い音がして、とうとう毛の塊が床まで滑っていってしまったのだということに気付く。



何か声をかけようとして、薄く開きかけた唇を真一文字に結ぶ羽目になった。



首筋から這い上がってくる、生ぬるいざらざらした感触。
時々触れる、冷たくて固い歯の感触。
それら一つ一つが、確実に肌の神経を犯してきているようで、全身の毛が逆立ったような気がした。


この女は、俺に何を求めて来る訳でもなかった。
ただ抱き枕か何かの代わりに俺のことを抱きしめて、朝までぐっすり眠っているのだ。

彼女の、思っている中では。



しかし実際は違う。

うなされるようにして偶に起きては、こうやって俺の体を悪戯する。
その動きは子供が昆虫の反応を楽しみながら苛めているのと似ていて、その比喩が思いついてからは更に気持ち悪くなったことを思いだした。

擽るように何度も、何度も首を骨と血管に沿って行き来していた彼女の舌が止まった。



それから、大きく息を吸う音が耳に注ぎ込まれる。


あぁ、何度も繰り返してきたからこそ、わかる。

もう一度味わうように、否、注射の前のアルコール消毒のように首筋が舐められて、狙いを定められる。


そして、ぶすりと。


円を描きながら身体中に伝わっていく、甘い痛みを感じた。
とてつもない女と関係をもってしまった、なんて今更な後悔が、頭の中を黒く、ただ黒くさらなる波紋を広げるように塗りつぶしていった。