「高瀬くんっ、もう止めて!」

泣きそうな美波の声と背中を叩かれるわずかな痛みで高瀬は我に返る。
腕の中には意識のない見知らぬ女。
口の中は久しぶりに味わう新鮮な甘い血。

「あ…やべ…」

「綾ちゃんっ!」

血の気のない頬に、やってしまったかと冷や汗をかくが、細く浅い苦しげな呼吸に胸を撫でおろす。

「美波さん、輸血、輸血」

「うるさい、わかってるわよ!」

慌てて輸血用の器具を用意して、カルテの血液型を確認している美波に高瀬は声をかける。

「落ち着いて。AB型、だろ?」

「…正解」

さっきまで自分が眠っていたベッドに気絶している綾を寝かせて、高瀬はため息をつく。

「ため息つきたいのはこっちなんだけど」

「…ごめん」

棘を含んだ美波の言葉に苦笑する。

「理性が飛ぶほどお腹減ってた?」

「いや…確かに飢えてたけど…なんか、」

綾が座っていた椅子に座り、細い管から白い腕に送り込まれる赤い液体を見つめる。
まだ乾ききらない首筋の噛み跡から僅かに血が流れていた。
無意識に、視界が赤く染まっていく。

「高瀬くんっ!」

「…え?」

呼び戻されて、視界が戻る。

「…勘弁してよ、私じゃあなたは止められないんだから」

「悪い…」

――まさか、まだ足りない…?あれだけ飲んで?

渇感は満たされたはずなのに衝動が止まらない。
気を抜けば、またあの首筋に噛みつきそうになる。
初めての感覚に高瀬は戸惑いながら、綾の顔を見つめていた。


***


「…ん、」

綾が目を覚ますと、見知らぬ天井を見上げていた。
柔らかなシーツの中、どこかふわふわとした心地がした。

「あ、起きた。美波さん」

どこかで聞いたことのある低く落ち着いた声が響く。
ベッドの横に座り込んだ男を見つめていると、ふいと顔を逸らされてしまった。

「綾ちゃん」

「…ここは?…わたし…?」

喉が渇いて、上手く声が出ない。
状況が理解できず、綾は困惑したように美波を見上げる。

「貧血で倒れたの。覚えてない?」

緩く首を横に振ると、美波はどこか安心したように息をつく。

「…水、飲ませる?」

「うん、ありがとう」

「…だ、れ?」

どこかで見たことのある顔、聞いたことのある声。
回らない頭で記憶を辿る。

「…あ、っ」

高瀬を見る綾の目が見開かれる。
耳元で響く、低い声。
赤く光る、濡れた瞳。

「や、いやぁっ!」

「あ、綾ちゃん落ち着いて!急に動いちゃ、」

美波の声が早いか、慌てて起き上がると、ぐらりと視界が揺れて体に力が入らなくなる。

「…馬鹿」

ベッドから落ちそうになった綾を受け止めたのは、しっかりとした力強い腕。

「…っ!」

「何もしないから安心しろ…ってあんなことされたあとじゃ無理か」

自嘲するように笑って、綾を優しくベッドに戻す。

「…あなたは、なに…?」

「…」

綾の目を閉じるように、大きな掌が目元を覆う。

「悪いけど、忘れてもらう」

最後に見た表情はどこか切なく淋しそうだった。