栞が目を覚ましたのはあの神事からすでに3日が過ぎていた。

自室に横たわる栞に一族の者は誰一人近づこうとはしない。

まるで腫れ物に触るかのようだ。



あの日、栞は生まれて初めて泣いた。



母が死んでも眉一つ動かさなかったというのに…。


栞の全ては人柱になる事だった。

その為に生まれ、その為に生きてきた。

それが叶わぬとなっては、今までの栞の人生、全てを否定する事になる。


だが、栞にとって人生を否定される事など

厭わない事だった。


本当に辛いのは…


山神と一つになる事が叶わなかった事…。


栞自身、自覚していたのだ。

自分の抱く山神への想いは、とうに巫女の範疇を超えているという事を…


人と神では生きる時が違う。

神にとって人の命とは、夏の夜空に打ち上げられる花火の如し。


だからこそ、栞は人柱になる事を切に願ったのだ…

ずっと山神と共にあれるようにと…


『こうなっては、もぅ生きる意味を見いだせない…』


そう思う栞は弱って行くばかりだった。



「…栞…?」


ふいに襖越しから栞を呼ぶ声がする。

栞はその声が誰なのかすぐに解っていた。


「…なんでしょう…山神様…。」


「開けるぞ」


返答も待たずに山神は襖を開けた。


「……こんな所まで来られて、どうなされましたか?」


栞はいつもの仮面をかぶって無表情に言葉を発する。

だが、心中では山神がここに来た事に驚いているのだ。


普段、山神は本殿に鎮座している。


山神が栞の部屋を訪ねて来るなど、初めての事だった。


山神は部屋に入ってくると栞の枕元にどっかりと腰を下ろした。


「寝込んでいるのか?」


「えぇ。ご迷惑おかけします。」


「ふぅん」

と言いながら、山神は横たわる栞をじろじろと眺める。


「人とは、不憫なものよの」


「えぇ…。」


「………」


山神は何故かそこに腰を落ち着け動こうとはしない。


「…ところで…どうされたのですか?

 何か私に御用がおありで?」


栞は山神に、早くこの場を去って貰いたかった。

そろそろ山神も栞が人柱に選ばれなかった事を

耳に入れている頃だろう。

それが栞にとってたまらなく辛かったのだ。

顔色一つ変えずにいる栞だったが、本当は泣き出したい気持ちでいっぱいだった。


「お前が居ないと不便での…」


山神がポツリと呟く。


「お前は俺の唯一の巫女だ。お前が居なければ

 俺の声を聞く者も、世話をする者も、ここにはおらん。」


それが不便だ、と山神は言う。


「今日より3日後は、満月だ。俺は月見酒がしたい。

 一人ではつまらぬ。それまでにお前の身体は治るか?」


山神のその言葉に栞の心は締め付けられるように震える。


人柱になれなかった自分に価値などないと思っていた。

そんな自分に生きる意味などないと思っていた。

だが、山神は自分が居ないと不便だという…。

唯一の儚い願いは、叶わなかったけれど……



『山神様にお使えする事が私の生きる意味…』


「…おいっ!!栞っ!!どうしたっ!?」


気付くと、涙が幾筋も流れ落ち栞の頬を濡らしていた。


「…何でもありません…」


無表情に、抑揚なく栞は答える。


「大丈夫か?月見酒までにその身体、治るんだろうな?」


栞は袖で涙を拭う。


「…えぇ。明日にでも治しましょう…」


「そうか…。それなら良かった。」


山神が笑う。


「では、俺はもう行こう。お前はゆっくり休め…。」


山神はゆっくりと腰を上げる。


「ありがとうございます。山神様。」


去り際、山神が立ち止まった。


「…山神様…?」


「ふふっ……能面のような娘かと思っていたら…

 お前も泣くことがあるのだな。

 良い、良い。その方が人らしくて良いぞ。」


そう言い残すと、山神は風に乗り空高く舞い上がって行った。



一人自室に残された栞は、山神の去った空をいつまでも見つめ続けた。


変わる事の無いその表情とは裏腹に、涙が幾筋も、幾筋も溢れ出る。


山神様…

私の望みは叶わなくとも…

あなたが望むのであれば…

私は私の命の限りあなたにお使えしましょう…

あなたが、私を望む…

それが、私の生きる全てです……


その日の空は雲ひとつない夏の青い空で

栞の切ない胸の内を励ますかのように

果てしなく何処までも、何処までも、青く澄見わっていた。