「かしゅ、かしゅかしゅかしゅ、かしゅう」
いままでに聞いたことのない声だ。
陸は周りを見渡した。
声は、目の前の鏡から聞こえていた。
「鏡が、しゃべってる?」
つぶやいてから、自分が口にしたことのバカバカしさに苦笑した。
そんなことがあるわけない。
あるわけないのに、心の中では、その声は鏡のものであると確信していた。
わかるのだ。なぜだかはっきりとわかるのだ。
陸は鏡を叩いてみた。
「かしゅしゅっ」
反応があった。
やはりそうだ。これは鏡の声だ。
陸はあまり驚きを感じなかった。
前から、なんとなく感じていたのだ。
物は、実は生きているんじゃないかと。
物をながめているとき、時々物が何かを語っているような気がしたことが何度もあった。
鏡に耳を近づけてみた。
「かしゅかしゅかしゅ、かしゅう」
声が近くなった。
空気を震わせる音とは、ちがう。耳から入ってくるというよりは、頭の中に直接響いてくるような感じだった。
幻聴ではなかった。
間違いない。これは鏡の声だ。
どうやら自分は、物の声を聞くことができるようになったらしい。
この不気味な状況を、陸はすごくおもしろいと思った。
その日から、物を見るという趣味に、物の声を聞くという楽しみが加わった。
いろんな物に耳をあてて、声を聞いてまわった。
物はどれも、いままでに聞いたことのない、変わった声を持っていた。
茶碗の声は、「ば、ば」。
CDの声は「ぐきょん、ぐきょん」。
消火器の声は「ぱきゃららら」。
画鋲の声は「かとうぽ、かとぽぽぽ」。
フライパンの声は「にににににに」。
不思議な体験だった。
物の声は、普通の音のように、耳をすませて聞こえてくるものではない。物をじっと集中して見ることで、じんわりと染み込むように、頭の中にひびいてくるのだ。
陸は一日中、物の声を聞いた。食事をしているときも、働いているときも、風呂に入っているときも、あきずに物の声を楽しんでいた。そんな日々をくりかえしてゆくうちに、聞く力は鋭敏になり、五十メートル四方の物の声も聞き分けられるようになっていた。
そして八月。
付喪と化した自転車による殺人事件が起きた。