「あ゛―、腹立つ。絶対女できたんだ」

「んなわけないじゃぁん!!」

 村上花奈子のふてぶてしい表情に広瀬涼子は素早く突っ込みながら、社員食堂のミートパスタを口にした。

「だってさ、先週も今週もなんだよ? ホテル行ってるのにできないってないでしょそれ」

 ホテル行ってるのに、の部分を小声で気遣いながらも相模と対面し、残り2人が並ぶ形で3人は白い長テーブルでランチをとっていた。

「できないできない。あのねぇ、45過ぎてたら普通できないよ、多分」

 広瀬はもごもご口にパスタを入れたまま喋る。

「いや、そんなことない。そんなことあるわけないじゃん!! だって私、まだ26だよ? こんな魅力的なのに、何がダメなわけ!?」

 村上は広瀬に必死に問うたが、

「いやだからぁ、45過ぎてたら、例え相手が20でもダメだってこと。もうそぉいう気が起きないんじゃない? んだから、起きないわけじゃないんだけどぉ、疲れてるーみたいな。疲れてるんだよ、多分。フォローすると」

「そんなフォローいらないからッ!!」

 村上は大げさに身体を伏せると、茶色いセミロングの髪の毛をテーブルに流した。

「45っていうと、山根部長くらいですよね。…………」

 相模は思いついたので言ったが、

「あの人そういう欲は強そうよねー」

 村上はすぐに起き上がり、口元を押さえながら眉を顰める。

「あ、痴漢とかよくあるじゃん? 年いったおっさんが。だからおっさんって、触りたいとかそぉいうのはあるのに、なんか最後までしたくないんだよ。多分。だってさ。痴漢とか、絶対最後までできないのにやるじゃん? だからそぉいう感じじゃない? フォローすると」

 広瀬は笑いながら野菜ジュースを飲んだが、

「痴漢のどこがフォローよ!! 逆に落ち込むわ!!」

 村上はバシッと突っ込んで、今度はサラダを食べた。本日の村上のランチはダイエットのためサラダだけだ。ダイエットしなくても十分細身だが、自分なりに気を遣っているのだろう。

「具体的にはどんな感じなんですか? 何もしないんですか?」

 先輩が落ち込んでいるのだから、何かしら元気づけないと、と相模は気を遣うが、

「うーん……具体的って言われても……」

と、村上は口ごもる。

「年上やめればいいじゃん。若い子なんて、すっごいよ? 私の前の彼氏がね、5個下だったの。大学生」

「私、犯罪者にはなりたくないから」

 村上は腕を組んで広瀬を睨んだ。

「20歳超えてるしぃ!」

「大学生って、学生ってあり得なくない!? そりゃいいかもしんないけど、ちょっと……私の中ではありえないわ」

「あり得ない話、ご苦労さん」

 低い声に全員が一旦停止する。

ストンと相模の隣に腰かけたのは、まさに飛び上がるほどの存在、夏目寿明であった。

 スーツからタバコの匂いが、口元からはコーヒーの匂いがする。

「…………」

 騒ぎ立てていた3人は、一気に静まり返る。

 夏目と対面する形になった村上と広瀬は若干苦い顔をしながら視線を伏せ、隣同士になった相模は赤い顔を隠すように、次の夏目の言葉を待っているようだ。

「5年講習の件、2人も出てもらうから」

 さらりと指示されたが、2人は既にその覚悟ができていたのか、小さく「はい」とすぐに返事をした。

 入社5年目にある講習のことで、その年に入社した社員はほぼ受講することが決まっている。今更直接指示を出すこともないだろうが、夏目はあえて対面して言いたかったようだ。

「あ、そういえば。あの、代表セミナーの方は今年、誰か受けるんですか?」

 村上は話題を変えたかったのか、関連話にすぐに切り替えた。
 代表セミナーとは、他企業からの社員も大勢集まって行う外部のセミナーのことで、社内では選ばれた者しか受けることができない特別な講習だ。それを受けたからといって今後の出世に大きく変わることはないのだが、それだけ上司の信頼を集めることはできるようだった。

「さぁ、山さんからはまだ何も聞いてないけど。志願者もいないし」

「志願って誰でもできるんですか?」

 相模は思い切って夏目に詰め寄った。聞く、というよりは、詰め寄ると表現した方が正しいくらいの、勢いだった。

「お……、相模、志願してみるか?」

 冗談で言っているのかどうかは分からない。ただ、その時の相模の中には、夏目と少しでも会話がしたい、そのためだけに

「はい」

と後先考えず返事をした。

「やるなぁ。じゃあ山さんと相談して志願出すかどうか決める。それでいーな?」

 目を見つめて聞かれたので、

「はい、お願いします!!」

と、勢いつけて返事をした。

それだけで、価値は充分にあると思えた瞬間だった。

夏目はそのまま立ち上がり、食堂から出て行く。出て行くまでの間誰も喋らず、ただその後ろ姿をじっと見つめた後、村上と広瀬が同時に、

「どしたの!? いきなり志願しちゃって!! 」

と、詰め寄って来る。

「まあ、仕事嫌いじゃないし」

 曖昧に逃げるこちらの意に2人は気付いているのだろう、余計なことは何も言わず、
 
「志願通ればいいねー。大丈夫だよ、受かる、受かる」

と、軽く励ましてくれる。

 30までに寿退社すると豪語する2人にはこういうアプローチの仕方は分からないだろうなと思いながら、これが何かの始まりになっていくかもしれない、その何の根拠もない甘い予感が、相模の中で大きく膨らんだ。