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「……、んじゃ、お疲れ様でした……」
「…………」
アシのことなんかどうでもいい、と顔に出てしまっているだろうが、俺は小さく溜息のような挨拶をしておく。
商社マンという仕事は、何故いつもこんなに帰りが遅いのか!?
仕事仕事、飲み会飲み会、出張出張、それの繰り返し。
もういい加減うんざりだ!!
こんな仕事、辞めさせてやる。
俺が食わせてやる。
ああ、贅沢させてやる。
こっちは長者番付にも載るほどの超有名漫画家だ。
今は時間があまりないが、ある程度稼いで打ち切りになったら、どこへでも連れてってやる。
こんな苦労なんかしない、どこかのんびりできる海外へでも……。
「ただいまー」
東都市(とうとし)の一等住宅地、白金区は、昼間でもざわつくことなどないが、深夜一時過ぎともなるともちろん静まり返っている。
モダンスタイルが流行っていた頃にデザイナーに建ててもらった家は今年でもう6年目。
愛子がヨーロピアンスタイルが好きなことを知っていたら、最初からそうしたのにと、いつも思わされる我が家だ。
洲崎(すさき)はキッチンでグラスに注いだ牛乳を飲みながら、愛子が入って来るのを数秒間待つ。
「お、やっとセコムできる」
俺はお帰りの一言を飲みこんで、こちらを見ない愛子を見た。
「あーあ、ねむー」
そこそこ値段がするであろうスーツに身を包んだ愛子は、ドサリと北欧製のソファに沈む。
「風呂入ってちゃんと寝ろよ」
「飲み過ぎたー」
こちらの話なんてまるで聞いてなんかない。
愛子は更にソファに乗りあがり、全身を横たえ、正方形のクッションを抱きかかえる。酔っぱらっているのか、足元が少し開き、スカートが持ち上がっている。
「おい、そんなとこで寝るなって」
俺はグラスを置いて、身体を起こしてやろうと近づいた。
「明日がやす……」
時々ある。
ストレスが溜まっているんだろうと思う。
そりゃ、これだけ仕事に拘束されてたんじゃ、涙の1つくらい出てもおかしくない。
「明日が休みでも、お肌に悪いゾ」
俺はここぞとばかりに優しく声をかけ、その頭の側に腰を下ろした。
「お前仕事し過ぎなんじゃねーの? 毎晩毎晩遅く帰って来て。寝る時間碌にねーだろ」
「……自分だってそうじゃん」
もう涙は乾いたのか、掠れた声で答える。
「俺はいんだよ。好きで時間かけて描いてんだよ。時間かけることで逆に良い物が出来上がったかのような幻想に浸れるんだよ」
「……漫画家っぽい」
「漫画家だもん。しゃーねーだろ。……おい、ほら、風呂入れ。さっさと入んねーと、俺と時間かぶって一緒に入んなきゃなるだろーがッ」
「……」
愛子は手伝うまでもなく驚くほどさっと身体を起こし、
「早く入ろ」
と、すんなり廊下に出てバスルームに入って行ってしまう。
肩すかしはいつものことだ。というか、肩すかしにもなってないかもしれない。
溜息を吐きながら、牛乳を飲み切ってしまおうと立ち上がるとソファに転がっていたスマートフォンの音が鳴った。
ディスプレイには、『四対商事 野原』と出ている。
「はい、もしもし」
俺は普通に出た。
『あっ!! あっ! あ、すみません!! 野原です!! あの、ご無沙汰してます……』
前回かけてきたのはいつだったか忘れたが、前回もこのような形で勝手に電話に出たことに間違いはない。
「ああ、野原君か。用はなんだい? こんな深夜に君、不自然だろう」
『あっ、すみません、夜分遅くに。いえあのっ、その、あの……相模さんが無事に帰ったのか気になりまして……。それであの、お電話差し上げました。すみません』
「心配なら何故……」
バタバタと廊下をものすごい速さで走る音が聞こえる。どうやら電話に出たことに気付いたようだ。
「ちょっとやめてよ!!! また勝手に人の電話に出てる!!」
「はい、野原君」
俺はスマホを手渡した。
「ごめんね!! ごめーん……」
野原君と面識はないが、話を聞く限りではガメツイ後輩のようだ。こういうのは早くに芽を摘んでおいた方が良いに決まっている。
愛子はすぐに電話を切ると、ものすごい剣幕で、
「画面にちゃんと文字出てたでしょ!? 四対商事って!! 会社の人からの電話に勝手に出ないでよ!!」
「やまあ、野原君は知り合いだから」
「知り合ってない!!」
「こんな時間に男から電話だなんて不自然だと思うのが当然だ」
俺は腕を組んでそれらしく意見を述べたつもりだが、
「今度やったら許さないから!! 家出てくから!!」
あれ、今日はやけに手厳しい。
愛子は忘れずにスマホを持ったまま、リビングを出て行く。
洲崎はその足音を聞きながら、ふうっと溜息を吐いて今の今まで愛子が寝ていたソファを見つめた。
「出てく、か……」
行くあてなんかあるずねーのに。
だって、そうだろ。お前は俺がいなきゃ生きてけねーだろ。
だから誰と連絡を取り合ってるのか、父親的、兄的、彼氏的存在の俺としては知っておく必要があるだろ。
お前のことを、誰にも汚されないように護りぬく存在なんだから、仕方ねーだろ。
お前のことをガキの頃から、ずっと見て来たお前に必要不可欠な存在なんだからって……ちょっとは気付けよ。