てのひらを、ぎゅっと。



ーピーンポーン。


30分くらいは歩いただろうか。


いや、実際はもっとかかっているかもしれない。


正式な時間は分からないけど、とりあえず俺は目的地にたどり着いた。


そして家の玄関に備え付けられている、
四角いインターホンを押す。


しばらく待っていると、ガチャっと音が響いて目の前の扉がゆっくりゆっくりと開かれた。


「……お久しぶりです」

「あら……光希くん…?」

「はい。今日は少し用事があって……。
おじゃまさせていただいてもいいですか………?」


開いた扉の向こう側から姿を現したのは
やわらかい笑みを浮かべた心優の母さん。




俺の言葉に心優の母さんは、嫌な顔ひとつせず一回だけ頷いてくれた。


心優が亡くなってからの15年間の間も、
俺と心優の母さんは何度か顔を合わせていた。


心優の母さんの優しさは、何年たっても変わらない。


ずっとずっと心優がいた頃と変わらず、
俺を優しく家に迎え入れてくれるんだ。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


用意してくれたスリッパを履くと、俺は家の中へと案内された。


きっと心優の母さんは、俺が心優に会いにきたことが分かったのだろう。


俺が案内された場所は、奥の部屋。


心優の仏壇の前だった。


仏壇の中央には笑顔の心優。


心優が笑ってる、そう思うだけで俺の心は満たされて、俺も自然と笑顔になれるんだ。


俺は自分のカバンから、昨日書いた便せんが納められているひとつの茶封筒を取り出し、心優の仏壇の上へ置いた。


そしてきちんと正座をして座り、両手を合わせて目を瞑る。





………心優。


俺は心の中に心優と過ごした日々を思い描いた。


楽しかった時、嬉しかった時、悲しかった時、落ちこんでいた時。


あの頃の俺の隣には、いつも心優がいた。


普通に流されていく日々の中、俺たちふたりは共に慰めあって分かちあって、手を取りあって生きてきた。


心優がいなければきっと、今の俺はここにはいない。


希衣と結婚することもなければ、優希と希心を授かることもなかった。


”命の大切さ“や“絆”、たくさんの”奇跡“を
知ることもなくて、教師を目指そうと思うこともなかっただろう。


そう考えれば…心優は俺に“道”をくれた人。


これから歩いてゆく道を。


ありがとうな、心優。





俺は胸の奥底で心優に感謝の気持ちを告げた後、閉じていたまぶたをそっと開けた。


そして写真の中の心優に微笑んで、その場を立とうとした時。


「先生……?」


どこからか聞き覚えのある声。


俺を”先生“と呼ぶ人は中学校の生徒のみ。


………紫苑だ。


振り向くとそこにはやっぱり、とても驚いた顔をした紫苑がいた。


「なん、で……先生、が………?」


まぁ、驚くのも当たり前だろう。


だって普通に考えておかしい。


自分の教師である人が、自分のお姉さんのもとへ線香をあげにきてるのだから。


説明しなきゃな……。


そう思い、口を開こうとした時。




「光希くんは……心優とお付き合いしていた人よ…」


紫苑の後ろから姿を現した心優の母さんがそう言った。


「え……?嘘でしょ…?大島先生、が…心優お姉ちゃんと……?」

「嘘じゃない、本当よ。心優が中学2年生の頃から付き合ってた人。そして……心優のこと、最後まで愛してくれた人よ…」


優しく紫苑に語りかける心優の母さん。


紫苑はまだ状況を理解してないのか、あたふたと必死に何かを考えている。


でもしばらく考えて、自分の中で何かが分かったのだろう。


紫苑は俺を見上げると、こう言った。


「先生は……お姉ちゃんのこと、好きでしたか…?」


心配そうに、でも真剣に俺を見つめる瞳。




その瞳を、その心を、少しでも安心させてあげたくて、俺は紫苑に向かって優しく言った。


「誰よりも何よりも、大好きだったよ。
あの頃の俺はまだ子供で、一人じゃまだなんにもできないただの中学生で。でも本気で思ってた。心優を愛してるって」


偽りなんかない、俺の本当の想い。


バカだって笑われても、冗談だろって罵られても、俺は本当で思ってたんだ。


世界中の誰よりも、心優を愛してるって。


紫苑は泣いていた。


真っ白なふっくらな頬に、キレイな雫を一粒流して。





「……よかった。世界で一番大好きな人に愛されたお姉ちゃんは、世界で一番の幸せ者だね」


少し俯きながらにっこりと微笑んだ紫苑。


「お姉ちゃんって、どんな人でしたか………?」


投げかけられたひとつの問い。


迷うことはない。


俺の好きになった心優が、ありのままの心優だから。


「心優はその名前の通り、心から優しい女の子だったよ。自分がどんなにつらくても、相手の幸せを願ってあげられる。
そんな純粋な心を持った、素敵な人だった」

「…お母さんと一緒のこと言ってる…。
お姉ちゃん、私のこともその優しさで助けてくれたんですよ…」


俯いていた顔をあげ、今度は俺を見て笑う紫苑。


頬にくっきりと浮かぶえくぼが、心優みたいだ。




俺はじっくりと紫苑の言葉に耳を傾ける。


「知ってるかもしれないけど、私には玲央っていう幼なじみがいるんですよ。
私、玲央のことが小さい頃からずっと好きでした」

「………うん」

「でも玲央にフられちゃうのが怖くて。
告白なんて、私には絶対できないって思ってました。だけど……お姉ちゃんが教えてくれたんです」

「………ん」

「今、生きていられる事が奇跡だって事とか。何歳に死んじゃうか分からないんだよ?って事とか」


………俺は何も言えなくなった。


苦しくて苦しくて、心優の優しさが愛しくて。


もう一度、もう一度だけでいいから、その優しさに触れたくて。


「お姉ちゃんのおかげで、私、今とっても幸せです」


大粒の涙を流しながら笑う彼女は、本当にキレイで。


強いなって、さすが心優の妹だなって思った。




日曜日の昼下がり。


空を見上げれば、今日も限りなく広がる無限の空。


雲ひとつなくて、心優のように優しく透明に澄みきっている。


俺の横をさわさわと通り抜ける春風がとても心地よくて、ふわふわとした気分になる。


このまま自分をゆだねていたいような気持ちになったけど、俺にはやるべき事がある。


俺の帰りを待ってる人がいる。


………帰ろう。


大切な家族が待つ家へ、帰ろう。


そう思って一歩前へ踏み出そうとした時。