ほんの少し頭を出した太陽は、ナポリタンを作る時のハムを思い出させる。切った後に、もう半分にしようかどうしようか悩む、ハムの端っこ。石岡はあのハムのような太陽をできるだけ近くで見てみたくて、パジャマにしていた白いTシャツとスエットの半ズボンに前の日に砂浜に持っていったパイル生地のパーカーを持ってそうっと部屋を出て行った。パーカーからさらさらと昨日の砂が落ちた。
覚えた通りに、ペンションの前の道をだらだらと下りて大きな車の通りを左の方へ曲がる。朝早い街道には、人も、車もない。木々が夜の闇をまだ抱いている中をだらだらと海辺の方へ下っていくと、不意に景色は開ける。ハムのような太陽の端っこが、先ほど部屋で見たときよりも明らかにすこし大きくなっていた。青紫の雲が朝日を押し出すようにして地平線の上の太陽の周りに棚引いている。
静かな砂浜に下りると、ビーチサンダルを履いた足元は少し慣れるまで不安な気持ちを隠さずにぎゅうと鳴った。もう一歩、もう一歩、と海に近づいていくと、所在無い不安はもうどこかに行ってしまうのだ。石岡は太陽の大きさを確かめながら砂浜を踏みしめて歩いていった。
オレンジ色に染まっている石岡の歩く砂浜の行く手に青い人影が見えて、石岡の足が止まった。穴瀬だ。両腕を後ろについて砂浜に座っている。近づいて話しかけてもいいだろうか。それとも、このまま引き返そうか。青い人影が少しずつ朝に洗われてその姿を顕にして行く。
穴瀬が両手を叩きながら石岡の方を向いた。石岡は意を決して穴瀬へ近づいて行く。
「おはよ」
「おはようございます。早いですね」
「夜更かしの続きだよ、俺はね。」
穴瀬は石岡を見て笑った。いつも立ち上げている前髪が額に掛かって、一重の目が朝日を眩しそうに受けているその表情は、まるで別人のようにいつもよりもずっと穏やかに見えた。
「眠れなかったんですか?」
穴瀬の横に座る。座ってもいいのかな、と思った気持ちをできるだけ見せないで「当然」という顔をしてみせる。
「うん、なんだか。考え事してた。」
石岡は穴瀬の顔を見れない。太陽の大きさをもう一度測りながら言葉を捜していた。言葉が見つからない。何を考えていたのか、と聞いてもいいのだろうか・・・。やっと石岡が穴瀬を見たとき、穴瀬はまたほんの少し石岡を見て、昇ってくる太陽に目を戻した。
「仕事のこととか、森川さんのこととか・・・」
石岡の胸が大きくひとつ鳴った。穴瀬に聞こえはしなかったろうか。
「森川さんの、こと・・・?」
「森川さんが独立したのは、今の俺と同じ年だったんだよ、30歳。」
穴瀬は右手で左腕についた砂を払いながら言った。石岡は何も言わずに穴瀬の腕を見ていた。
「サラリーマンなんかつまらない、って言って。」
石岡は太陽の大きさを確認する。もう、半分以上の太陽が顔をだしていた。
「森川さんは、なんでつまんないなんて思ったんだろうって考えてた。俺は、つまらなくない。サラリーマンでいい、って思ってる。でも・・・」
「でも?」
朝日を受ける穴瀬はとても綺麗だった。石岡は、体育座りをした自分の膝に頬を乗せて穴瀬を見つめた。今は、太陽の大きさよりも、穴瀬の姿だけを目に焼き付けていたいと思った。
「でも、これでいいのかなあってちょっと思ったりして。」
穴瀬は石岡が好きなあの出し惜しみをするような笑顔をもう少し皮肉っぽくゆがめて笑った。
「なんだろね・・・。俺は、面倒なことが心底嫌いで、面倒に巻き込まれないように、ってそれしか考えてないし、何かやりたいって思う事があるわけでもない。面倒に巻き込まれても手にしたいものがないから、こうやって生きているんだろうな。つまらないのかもしれないけど、これで満足なんだよ。」
波が、寄せて、そして引く。
「満足、してるんですか?」
「ん?」
「だって、満足してるなら、これでいいのかなって思ったりしないんじゃないかなって。心のどこかが満足してないから、なんか違うって思うんじゃないのかな・・・。」
(もっと・・・)
石岡の呟きにも似た言葉を拾うように聞いている穴瀬が、いつになく優しい顔をしているのを見て、石岡はどうしようもなくこの人に惹かれていることに気付いた。ずっと、この人を見ていたいと思うのは、ただ美しいものを愛でたいという気持ちなんかではなくて、この人の内側で燻っているものも、のたうち回っているものも、すべて包含した穴瀬という人一人を、慈しんで、そして、めちゃくちゃにしたいと思う気持ちだった。つまり、彼に触れて、撫でて、自分の腕に抱いて、そして、彼が悲鳴を上げるまで、と。
「面倒に巻き込まれても、そこから逃げ出したくないって思える程欲しい物が、いつか穴瀬さんの前に現れたら・・・」
(もっと・・・)
もっと何を欲しているのだろう。もっと穴瀬を知りたいと思うから、もっと色んな事を話してほしいと思う。もっと満たされていて欲しいと思うから、何が欲しいのか教えて欲しいと思う。何が欲しいのか、それが分からないというのなら・・・。
穴瀬は朝日の中で神々しいくらいに美しかった。その目は遠く遠く、朝日を、もしかしたら朝日の向こうを見つめていて、穴瀬の満たされない何かを捜し求めているのかもしれなかった。石岡は、自分がこの人を満たす何かを与えることができたらいいのに、と思う。心からそう思う。殆ど祈りに近い気持ちでそう思っていた。