「あの家にはもう戻らないから。諒とふたりでやっていければそれでいいの」
だから諒ももうあの家の事は忘れなさい。
“本家には戻らない”――既に一方的な断絶をされた諒と、自らの意思で家を出た紫が、諒に対して家の事を語ったのは、この半年間で初めての事であった。
「…諒には普通の生活をしてもらいたいの。普通に学校に行って、普通に友達と遊んで。それで普通に私と一緒に居てくれればそれで良いの――今まで出来なかった分も」
高校、行ってくれるでしょう?
お願い、というよりもむしろ懇願に近い姿で紫はじっと諒を見つめる。
きゅっと寄せた眉の間に出来た、細かい皺を震わせて。
…ん、わかった。
「行くよ」
諒はふうっと息を吐いて短く答えた。
明日からも学校に行く、そう付け足して諒は深く頷く。
――どんな理由であろうとも、紫が望んでいる事であれば、諒はそれを叶えなければならない。
高校へ行けと言われれば行くし、家の事を忘れろと言われれば忘れたように立ち振る舞う。例えそれが、決して忘れたくない憎しみだったとしても。
それが、諒の唯一の決め事であった。
ありがとう、と喜んで紫は諒の首に抱きついて来た。
子供みたいにはしゃいだ嬉しそうな顔で、そして本当に子供みたいに真っ直ぐに。
諒の受験の為に飲もう、と言う紫の誘いを丁重に断り、諒は窓の傍のエアコンの下に毛布を持っていった。
明日からここで起きて学校に行って、そしてここに帰ってくる。
 枕代わりにしているクッションの下からあの本を取り出した。数少ない私物であるマザーグース。
短い詩や長い詩。残酷な詩。
残酷な――。


だれがこまどりころしたの


易しいひらがなで書いてある、こまどりの詩。
寂しい、風の無い夜。
諒の思っている事や考えている事、紫は解っているのだろうか。少なくとも諒の日々感じてきた事は、痛いほど伝わっている筈だ。ならば、紫も気付いている筈なのだ。
こんな不安定な生活が長く続く筈は無い。
諒が紫に頼ったままの、依存的生活が続く訳が無い。紫に余裕が無くなれば、もっとそれも早い。
駄目になって、傷つくのは紫の方なのに。
 諒は、自分の胸に手を当てて、静かに瞼を閉じる。
仰向けの躰に流れる、沢山の重い、人々の気持ち。
自分にはもう何も無い。――故に傷つかない。