「あいつ…来やがったのか…」
持っていたのは雅之だった。雅之はピットウォールから身を乗り出さんばかりの体勢で、サインボードを、まるでいやがらせのように直人に見せようとしていた。
”Fight!”
ボードにはそれだけが表示されていた。直人はそのまま第一コーナーへと侵入した。少しだけ気持ちが楽になった気がする。ほんの少しだけ。直人はコースを駆け抜け、再びバックストレートへと戻ってきた。まず確認。彼女の姿はない…。
「仕方ないか…」
そのままピットウォールへ目をやる。確認その2だ。
「L8…P1…1.2…」
直人は目を疑った。そのサインだ。L8、これはラップ8、つまり8周目ということ。問題はその次だ。P1、ポジション1、つまり直人がトップということ、そして最後の数字は後続と1.2秒の差があるということだ。頭で理解しながら第1コーナーへ飛び込む。そして、このレースで初めてバックミラーに目をやった。後ろにはYSRと中野のヘルメットが見える。
「ざまあみろ、バーカ!」
直人はトップを走っているということよりも、中野よりも前にいるということに優越感を感じていた。自分の順位などはまったく気にならなかった。いや、たぶん1位を走っているという事実が、その時の直人には理解できなかったのだ。直人にとっての問題はそんなことではない。直人にとって大切なことは、グランド・スタンドのどこかにいるであろう、彼女のことだけであった。
「L15…P1…2.1…」
15周目。でも、彼女の姿はそこにはない。残りあと8周。彼女は現れるのだろうか。
「玲美…」
直人は呪文のように何度も呟いた。言えば言うほど、自分自身に呪いが掛けられていく。ラップを重ねるごとに、自分の苦しみが増していく。それでも…。