その恋の行方は…【完】

突然訪ねてきたときには本当にびっくりした。

そして、こんなに遅い時間なのに制服にスリッパ。

カメラの映像からでも伺える疲労困憊した姿に

「そのままそこから動くな!!」

俺はインターホンを叩き切ってエレベーターに向かって走る。

うまく言えないが嫌な予感がしてあわてて降りて行った。

エレベーターをあわてて飛び出すと玄関ホールでしゃがみ込んで憔悴しきった姿。

それを実際に目にすると、

「ほのか?」

思わず名前で呼んでしまった。

それ以上言葉が出なくなりほのかが求めても来ていないのに膝をついて抱きしめてしまった。

ほのかが一瞬びくっとする。そして

「佐々木さん…」

とだけ言った。

俺がほのかを名前で呼んだのはこの最悪の時が初めてだった。

今までも何度もほのかを抱きしめたことはあった。

眞人がいなくなった時…

見つからなくて、過ぎていく年月の中で、辛くなった時…

特に春、桜の咲くころにはいなくなった記憶が蘇るのか取り乱すことが多かった。

そして、俺に抱擁を求めて手を伸ばしてきたときだけ…

俺は眞人の代わりにほのかを抱きしめた。俺を通して眞人を見ているほのかを…

それは、辛いことだったが、ほのかに必要な事なら、

他の男ではなく俺が抱きしめてやろうと思ってそうしてきた。

もちろん俺の感情はあとまわしにして…
そうやって数年を過ごすうちに、俺はほのかに毎年花を贈るようになった。

その季節は、桜が散る辛く苦しい別れの季節ではなく、

ほのかがこの世に生を受けた喜びの季節だということを忘れて欲しくなかったから。

そして、それは俺にとって彼女と出会うチャンスを与えられた瞬間なのだから…

この悦びの気持ちを…

彼女に形にして伝えたかった。


いつか、いつか、ほのかの気持ちも変わる。

いつか、こうやってそばにいて抱きしめて見守っていれば、ほのかが身も心も

この胸の中に…

身も心も手に入ったその時が、俺の全ての想いを遂げるときになる…

がらでもなかった。あれだけ勝手で奔放だった俺が、ほのかに対してだけは…

まっさらな心と身体かのように向き合っていたのだから…

その想いだけが、俺を支えていた。俺の衝動を抑えていた。


でもほのかは、彼女はたった一度の辛い別れの記憶をいつまでも、いつまでも

忘れることができないまま…

引きずっていた。


世の中は俺の思うようには回らなかった。

いつまでたっても、退場したはずの男ばかりを追いかけ追い求め、

俺の番はもう来ないのかと思う程長い時間が流れた…
ほのかを抱きしめると、不快な感情がいっぺんにこっちに流れてきた。なんだこれは?

思わず顔をしかめる。すごく嫌なことがあって混乱しているようだった。

整理されていないどす黒く渦巻く感情の流れがつかめず、

俺までそれに呑まれて混乱しても困るので一端ほのかの感情を遮断した。


俺には物心ついたときから人の心を読むことができる力がある。

それはすべての人間に対してではなかった。そして、ある時までほのかの心も

読むことはできなかったのだが…

今はこうやって自由に彼女の内側を覗くことができる。


…何があったのかを確かめるのはまた後、落ち着いてからでもいい。

俺は抱擁をゆるめ、そのまま彼女を抱き上げた。

その時ほのかのはいていたスリッパが片方その場に落ちた。

この時彼女の何かも一緒に落ちてしまったのかもしれない…

でもそれを見て見ぬふりをして俺は、そのままほのかを抱えてエレベーターの方に向かい

乗りこんだ。ほのかは何も言わずに俺のなすがままになっていた。


実はほのかを俺の部屋に上げたことは…

今まで一度もなかった。

玄関でやり取りをしたことは何度かあるにはあったが…

俺は彼女をこの家に上げて何もしないほど、自分の理性を信じていなかった。

それでもこの時俺は躊躇することもなく彼女を自分の部屋に連れ帰った。
俺が入り口のドアを閉めた瞬間、ほのかの目から涙が一筋零れ始めた。

俺は、動揺する心を鎮めながらほのかをソファーにゆっくりと降ろし、

片方の残っていたスリッパを脱がせながらそっと彼女の隣に座った。

涙は止まることなくつたい続ける。いつ見てもほのかの泣く姿は胸を締め付ける。

その切ない姿に思わず

「ほのか…」

とその名がまた口からこぼれてしまう。

ほのかがびっくりしたのか目を見開く。

ああ、そうか…

俺は覚悟を決めほのかに囁いた。

「ほのかって…呼んでもいいか?」

ほのかは何も答えなかった。眞人がほのかを呼ぶときにはほーちゃんと呼んでいた。

だから俺が名前で呼んでも許されるだろう…


しばらく二人の間に沈黙が流れる。


心配になった俺は、またほのかに声をかけた。

「何か飲むか?寒くないか?」

しかしほのかはさっきは無反応だったのに今度は首を激しく横に振った。

目をつぶると綺麗な涙が頬で何粒も弾けた。

「温かいものでも…カフェオレは?それともミルクティ?」

何度聞いても首を振り続ける。らちが明かないと思い、

「適当に、欲しそうな…」

そうつぶやきながら立ち上がり、キッチンに向かって歩こうとした。
突然俺はほのかに腕を掴まれ引かれて、振り向いたが、

時はすでに遅く、立て直すこともできないままバランスを崩す。

そのままの体勢で勢いよくソファーに向かって倒れ始め、

ほのかとの距離が段々と詰められていく。


俺はほのかの上にのしかかりながら、その光景をコマ送りしているかのように

スローモーションで見る。


まるで映画のワンシーンのような感覚で…

それは甘いシチュエーションのはずだった。


俺はほのかの体の上に到達する直前、胸がぎゅっと締め付けられ、

激しく心臓が鼓動を打ち始めた。

俺に組み敷かれたほのかの肢体は想像していた以上に柔らかく、その悩ましい曲線が

直接身体から感じ取れる。

身体に一瞬の快感が走るのと同時に、心の中にはどす黒い醜い感情が一気に流れ込み、

俺は眉を寄せる。それは快感と嫌悪感が混じったようになって…

思わず吐き気をもよおす。

彼女の身体に触れるなら、こんな時でなく、こんなふうではなく、もっと…

そんな望みは、目の前で崩れ去る。

渦巻く感情の中、その遠くで「おいで…」という低い男の声が聞こえくると、

その瞬間俺の下に組み敷かれていた、柔らかい姿態のほのかが小刻みに震え始める。
これはもしかして…

早くほのかから離れなければ…

俺は、素早くほのかの身体の脇に両手を突いて体重を移動してから起き上がり、

ソファーを降りて床に膝をついて座る。

ほのかは、正気のない目をして、ソファーの上に起き上がり座る。

身体は小刻みに震えたままで、涙は止まっていた。

「ほのか。ほのか?」

穏やかにそっと彼女の名を呼んだ。

その声にほのかは静かに目を見開いて俺を視界に入れてくれた。


「大丈夫だ。嫌がることはしない。何をしてほしいか教えてくれ」


ほのかは震える両手をゆっくりゆっくり伸ばす。

何をするのかと思えば俺の頬に指先を伸ばしてそっと触れた。

そして両頬を手で包み込むようにすると、ゆっくり俺の顔を自分の方に向かせる。

とても親密な距離に、戸惑わないわけではなかったが、俺は抵抗することなく、

ほのかのされるがままになった。

ほのかの震えが伝わって俺の視界が小刻みに揺れる中しばらく見つめ合う。

ほのかの触れる指から、ほんの少し温かく溢れるような思いが流れてくるような気がした。

『「佐々木さんの所にいれば、大丈夫。もう怖くない」』

ほのかが自分にそう言い聞かせるか弱い声が俺の心に入ってくる。彼女の心の言葉。
俺の今までの努力は…

決して無駄じゃなかった。

ほのかが俺を信頼する思いに、涙が込み上げてくる。俺が泣いてどうするんだ。

ほのかの涙を拭ってやれるのは俺しかいないのに。

その言葉が聞こえてきてからしばらくすると、徐々にほのかの体の震えは落ち着いてきて、

俺の頬にあった両手がゆっくりと降りて…

きれいな目からはらはらと俺の代わりに大粒の涙が堰を切ったようにこぼれた。

「よかった。大丈夫か?」


ほのかは涙を零し続けながら何度もこくりとうなずく。

「このままそばに居て欲しいか?」

と訊ねると、もう一度うなずく。愛しい。こんなにも怯えているのに。

震える姿も、静かに零れる涙も、全部…

俺だけしか知らないほのか。こんな姿を見せるほのかがただただ愛しかった。

「手…

握っていてもいいか?」

無言のままぎこちなくほのかがもう一度こちらに手を伸ばしてくる。

俺はほのかのなすがままにした。ほのか。もう大丈夫だから…

怖がらなくていい。

「少し目を閉じたら?そばに居て欲しいなら、そうしてやるから…」

俺の言葉に従って素直にほのかが目を閉じ、

静かにソファーに寄りかかった。俺は、ほのかの手を握りながら静かに頭を撫でる。

いつもはさらさらと流れるような黒髪が、今日はもつれていた。

そのもつれをほどくように、ゆっくりと指を差し入れて撫でつけていく。
本当は強く抱きしめて、得体のしれない辛い気持ちを全部吸い取ってやれるものなら、

吸い取ってやりたいと思った。


でも俺は、ほのかの友達ではあっても恋人ではない。

彼女にとって恋人は今でも眞人ただ一人なのだから…


あふれ出そうになるこの感情を俺は手の中で握りつぶす様にぐっと心の奥深くに押し殺した。

この手にすべての思いを込め、優しく撫で続ける。


ほのか俺がそばにいるから大丈夫だと…


どれだけそのままにしていたのだろう?

ほのかの呼吸が規則的になって…

いつの間にか目を閉じて眠っていた。

泣きつかれたその姿が…

弱々しくて…

消えてしまいそうだった。

片手を握ったまま、初めて見るほのかの眠る姿を俺はしばらくじっと見つめていた。

その姿は天使のように清らかだった。


いったい何があったんだ?

しばらくしてからほのかの心をのぞこうとしても、そこは混乱しどす黒いものが

絶えず渦巻いていて胸が締め付けられるほど痛かった。

何かがわかるような状態ではない。こんな感情に入り込むと俺まで巻き込まれてしまう…

まだ無理だ。

感情をまた遮断して、いら立つ。


どうしてこんなことになったんだ?
どのくらいそうして撫でていたのだろうか…

ほのかの握る手がびくっとする。

はっとすると、ほのかの目がかっと開き、

「イヤ―――――――」

叫び声をあげて俺の手を振りほどこうとソファーの上で手足をばたつかせて暴れる。

俺はびっくりして、ついほのかの手を放し後ずさってしまった。

俺の手が離れるとほのかは周りにあるものを手当たり次第に掴む。

ソファーのクッションも、テーブルの上の灰皿も、置物も、掴んだものから投げ始める。













ガッシャ―――ン。














ガラスのテーブルが割れた…

その音に反応したのか、びくっと体を震わせて手に持っていたものを落し、

ほのかが前のめりに立ち上がろうする。


「危ない!!!」

俺はとっさにほのかに向かって飛びついた。

前のめりのほのかの体重が勢いよく俺にのしかかる。

持ちこたえられなくて一歩後ずさると、そこは割れたガラスが散らばっていて、



「いっ…」

俺の足の裏にささり、痛みが走る。

それでも俺は、その足を浮かしてほのかを抱きしめながら、

もう一度スローモーションでソファーに落ちていく。