ある日、りょうの事務所の人が私のことを訪ねてきた。


話を聞かなくても要件は分かった。


人気絶頂のりょうに恋人がいるというのは致命的な問題だから。


私もそう思う。


それによって彼の仕事に影響を及ぼすことは、私にとっても不本意だ。


ずっと、覚悟していた。



「これはお願いではなく、命令と思っていただいた方がよろしいかと。こちらもそれ相応の対応をさせていただきますので」



そう言われて差し出された厚みのある封筒。


私はそれを無言で見つめた。


大丈夫。諦めることには慣れている。


大丈夫。



「こちらの意味、理解していただけますね? 彼のためです」



私は黙ってそれを受け取った。





「もしかして……泣いた? 何かあったの?」


その日、夜遅く帰ってきた彼を心配させるほどに私は泣いた。



『彼のためです』



事務所の人の言葉が頭をよぎる。


大丈夫、分かってるから。
だから私は嘘をつく。


「りょうのドラマを見て感動しちゃったの!」


そう言って笑えば、彼は嬉しそうに私を抱きしめた。


「もっともっと、葵(あおい)を笑顔にしてみせるから」


それは彼の口癖。


いつだってあなたが、あなただけが、私に笑顔をくれた。


彼の腕の中、泣きそうになるのを必死でこらえた。


彼に知られてはいけない。


優しい彼は、言えばきっと何とかしてくれるだろう。


でも、それではいけない。


損な役回りは、私だけでいい。






りょうが海外ロケに行っている隙をみて、彼と住んでいた部屋を出た。


安いアパートに移り住んでもうすぐ一週間。


そろそろ彼が帰ってくる頃。


彼には事務所の方から話をしてくれるそうだ。



『申し訳ないが、あなたには悪役になっていただきます』



事務所の人が最後に言い残していった。


まぁ、お金を受け取ったのは事実なわけで。


それを使えばもっといいところに引っ越せたけど。


どうしても使う気にはなれなくて。


手付かずのまま、私の手元に残っている。


受け取れば。


やっぱり別れたくないなんて言えなくなるから。


彼の元に戻れないように、自分の抑止力として受け取った。


昔から諦めるのは得意だ。






私の母親は大女優、榊原碧(さかきばらみどり)。


父親は生きているのか、死んでいるのか、それすらも知らない。


私はいわゆる、隠し子というやつだ。


まだ榊原碧が若手だった頃、極秘で産んだのがこの私。


その頃、今では代表作となった映画で一躍有名になっていた彼女にとって、私の存在は邪魔だっただろう。


それなのに、なぜ産んだのか。
私は何も知らない。


物心ついた頃から母親と一緒にいた試しがない。


私は彼女と隔離され、徹底的に隠されてきたのだから。


関係者の間で育てられたが、なにせ私は動く爆弾。
たらい回しにされた。


女優、榊原碧の秘密を護るために護身術を叩き込まれ、引っ越しを繰り返す日々。


小さい頃はよく泣いたが、次第に何とも思わなくなった。







私はまず、普通の家族を諦めた。






高校生になって演劇部に入った私は、たちまち演技の魅力に取り憑かれ、役者の道を志した。


しかし、そんなことが許されるわけもなく。



『何ふざけたこと言ってんだ! お前をこの世界に入れるわけにいかねぇんだよ!! ちょっと考えりゃ分かるだろ!?』



『うーん、厳しい世界だし、それにあなたは……ねぇ?』



誰に話しても、そんな感じだった。


その瞬間、私は思い出したんだ。


そうだ、私は存在してはいけないんだった。


人前に出るなんてとんでもない。


私は爆弾。


いつ人々を巻き込んで傷つけるか分からない。







私は夢を諦めた。





大学生のとき、同じ大学にすごいイケメンがいると噂になっていた。


私はその頃、なるべく目立たないようにそういうことからは避けて生きていた。


人を信用できなくなっていたのかもしれない。


大学にあまり人が来ない大きな木がある中庭があって。


私は時間を見つけてはその木の下でひっそりと本を読んでいた。


ある日、徹夜でレポートを作成していた私は、うっかり寝てしまったのだ。


しばらくして、前に人がいる気配を感じて飛び起きた。


昔からそういうことには敏感だった。


いつ秘密がバレて狙われるか分からない私にとって、それは当たり前に叩き込まれた処世術。


「誰!?」


そう言って目の前の人物を睨んだ。


するとその人は驚いたのかビクッとして尻餅をついた。


「え…っ? 起きた?あれっ? えっ、あっ俺はそのっ、経済学部3年! は、長谷川亮介ですっ!!」





それが、りょうとの出会いだった。






「驚かせてごめんっ! でも、そういうつもりじゃなくて! いつもここにいる君を見て、気になってて……あっ、決して変態ではないんだ! えっと、そのっ」


尻餅をつきながら早口にまくしたてる彼をみて、私もすっかり緊張感がなくなってしまった。


「こちらこそ、突然すみませんでした。大丈夫でしたか?」


そう言って手を差し出せば、彼は嬉しそうに笑った。


「ありがとう! えっと……」


目の前の人……確か、長谷川とかいう先輩は何かを窺うように私を見てきた。


「あの……?」


「あっ、ごめん!」


私はちょっと声をかけただけなのに、すぐにおどおどとし始める。


そんな彼を見て、私は思わず笑ってしまった。


すると彼は、最初はキョトンと私を見ていたけれど、次第に一緒になって笑い始めた。


「なんかいろいろかっこ悪いとこ見られちゃったな。……君の名前を聞いてもいい?」


少し緊張気味に訊ねてきた彼に、私は教えていいものか迷ったが、悪い人ではなさそうだし、もう会う機会もないだろうと思い。


「篠崎葵(しのざきあおい)です」


と答えた。






その後、もう会うことはないと思っていたその先輩はよく中庭に来るようになった。


私が先にいることもあれば、彼が早いときもある。


会わない日の方が少なかったかもしれない。


最初は警戒していた私も彼との関係を心地よく思うようになっていた。


私が彼に惹かれるのに時間はかからなかった。


彼も好意的に思ってくれていたと思う。


私達は2人で過ごす時間が増えていった。


先輩はいつも他愛ない話をして私を笑わせた。


こんなに笑ったのは人生で初めてだった。


「この前もテレビに出ててね」


私がテレビや映画を見ないと知った先輩は、よくその話をしてくれた。


そのおかげで、世間に疎かった私も周りの会話に加わることができるようになり、少しずつ友人が増えていった。


……母親の話題もよく出てきたけれど。


今ではもう胸を痛めることはなくなった。






――――そんなときだった。






「え、今何て……?」


「だからね、経済学部4年の長谷川先輩がちょっとだけだけど映画に出るんだって!」


私はそれを聞いて頭が真っ白になった。


先輩と出会ってから1年ほどがたち、私は2年、先輩は4年になっていた。


そして、私が今まで知らなかった事実を知った。


彼だったのだ。
大学で噂になっていたイケメンは。


さらに悪いことに、彼は芸能界の人だった。


私が一番関わってはいけない人だったのに。


私の秘密は彼にとっても致命的だ。


大女優の隠し子と知り合いだなんて、大スキャンダルになる。


些細なことが何倍にも面白おかしくされる世界だ。



『火のないところに煙が立つ世界なんだ。くれぐれも人間関係は慎重にしなさい』



20年間言われ続けたことだ。


「なんてこと……っ!!」


私は、とんでもない過ちを犯してしまった。


「葵? どうしたの?」


周りの声が頭に入ってこないほど、私は混乱していた。


一刻も早く、先輩から離れなくては。


私に光をくれた人。


彼を傷つけるわけにはいかない。