――side 葵――
「篠崎……本気か」
「もちろん。こんなこと、冗談でも言いたくなかったですけど」
私はあの後、追いかけてきた前島さんに捕まり近くのファミレスに連れ込まれた。
そこで会社を辞めることを伝え、いつもバックに入れていた退職願を見せた。
「……なぁ、篠崎? さっきの話が本当だとしても俺は別に構わないし、あの社長だって露見しないようにしてくれると思うぞ?」
「前島さんは特殊な例なんですよ。それに、確かにあの人は動いてくれるでしょうけど限界がありますから」
あれだけの人に聞かれてしまったのだ。
今のご時世、情報が広がるのは防ぎようがないだろう。
それに、前島さんが気にしなくても大多数の好奇の目に晒される。
会社に被害が及ぶのは避けたかった。
「ん、美味しい」
こんな状況の中、私は不思議とすっきりした気持ちでコーヒーを飲んでいた。
りょうと同じく、たっぷり砂糖とミルクを入れて。
その様子を見ていた前島さんは、私の意志が固いことを悟ったのか、諦めたように深いため息をついた。
「……もう何を言っても無駄か。ったく、頑固なところは変わんねえなぁ」
そう笑って、前島さんもコーヒーを一口すすった。
「で? これからどうすんだ」
前島さんは切り替えが早く、とても気が利く。
いつもへらへらしてるけど、実際は恐ろしく仕事ができる人だ。
……奥さんと小学生の娘さんには頭が上がらないようだけど。
本音を言えばもっと一緒に仕事がしたい。
純粋に仕事は楽しかったから。
この人の元で働けて良かった。
心から、そう思った。
「分かりません。でも、とりあえずもうこの業界からは離れようと思います」
「……そうか」
そんな会話を交わして、しばらく2人とも何も言わなかった。
でも、この人との沈黙は辛くない。
むしろ心地よいものだった。
しばらくして、ふいに前島さんが尋ねてきた。
「篠崎、お前甘いもん好きか?」
「は? 甘いものですか?」
「そ、甘いもん。考えてみりゃお前に何か奢ったことなかったからなぁ。女は甘いもん食えばたいがい元気になるもんだろ?」
そう言って、前島さんはメニューを開いて私に差し出してきた。
「何でも好きなもん食え。最後の晩餐だ」
そして、「ははははっ!」と豪快に笑った。
「まだ夜じゃないですよ、前島さん。それに死ぬ訳じゃありません」
そう言いながらも、私は一緒になって笑っていた。
いつもこの人には助けられる。
私は一生この人には適わないだろう。
「……じゃあ前島さん。私、ハンバーグが食べたいです! ライス大盛で!!」
「……お前ってつくづく変わってるよなぁ。……よし、腹が減ってはなんとやらだ! 俺も食うぞぉ!」
「はい!」
そうして私達は最初で最後の一緒の昼食を楽しんだ。
昼食を終えた私達は駅に向かってゆっくり歩いていた。
それでも、いつかは到着してしまうもので。
「とうとう、お別れだなぁ」
「……ですね」
前島さんは会社、私は家に帰るため方向が逆だった。
前島さんとの空間はあまりにも心地よくて、離れがたくなってしまった。
「とりあえず、明日退職願を出しに会社に行きますね」
苦笑いしながら私はそう言った。
今日はもう会社に行けそうにはない。
そんな私を見て、前島さんは少し眉を下げて言った。
「……なぁ、篠崎。知らなかったかもしれないけどさ。俺、結構お前のこと好きだったんよ」
「…そうですか。私も前島さんのこと、結構好きでしたよ」
2人で顔を見合わせて笑いあった。
私の乗る電車の時間が迫ってきたので、本当にお別れのあいさつをする。
「今まで、本当にお世話になりました」
「やめろよ、泣けてきちゃうだろ」
そう言いながら前島さんは泣き真似をする。
私はそれにまた笑った。
「……何かあったら連絡しろよ。お前の背負ってるもんはずいぶん重いみたいだから。一緒に背負ってやることはできないけどさ。愚痴くらいなら聞いてやっから」
「……ありがとうございます」
そうして私は前島さんと別れた。
それから2年ほどがたち、私は会社を辞め世間に疎そうな老夫婦が営む店でバイトをして生活していた。
本当はどこかに就職できればよかったんだけど。
履歴書を見せれば詮索されることは避けられないだろうから。
こんな方法でしか生きる術が分からなかった。
あの騒動の後、榊原碧は記者会見を開き、涙ながらに隠し子の存在を認めた。
昔、愛した人との子で。
後悔はしていない、と。
その凛とした姿は世間の心を打ち、若干の活動休止を経て芸能界に復帰した。
その夫と子供も彼女を支え続けるとコメントした。
今では前にもまして良妻賢母の役を演じているという。
そしてりょうはというと、事務所の社長が騒動の対象だったためにCMの制作も商品の発売も大幅に遅れてしまった。
しかし、結果としてそれは人々を焦らし、余計に話題になったことで爆発的に売れたらしい。
りょうの知名度は確固たるものとなった。
……結局、失ったのは私だけ。
違う家族を持った母親に、自分の居場所をつくることを諦めた。
自分の夢も諦めたが、代わりに託したりょうの夢が叶った。
しかし、そのりょうを失った。
やっと自分で手に入れた仕事と、尊敬できる先輩を最悪の形で失った。
ないない尽くし。
しかし、それを何とも思わない私がいた。
最近ではりょうをなにかしらの形で見かけても胸を痛めることはない。
それは、私が全てを諦めたから。
結局のところ、産まれたときから普通の人生を送ることは不可能だったのだ。
分かりきっていたことなのに。
今になって、ようやく実感したのかもしれない。
今までは心のどこかで望んでいた。
――――こんな特別はいらない。
ただ、普通に生きたかった。
「気分は悲劇のヒロインってね」
バイト先から家に帰る道、私は空を仰いでいた。
今日、偶然店に来た3人の女子高校生たちがりょうの話をしていて。
新しい映画の主演で若手女優と恋人役をやるらしい。
「超お似合いだよねぇ」
「だよね、だよね! あの女優なら亮介あげてもいいかなーって」
「あんたは何様だよ!」
「でもでも、あの2人本当に付き合ってるって噂だよ」
「嘘ぉ! 私の亮介がー!!」
そう言って楽しそうに笑っていた子たち。
涙が、溢れてしまいそうだった。
「ヒロイン、か……」
私も、ちょっと前まではそうだったのかな。
なんてったって、あの長谷川亮介と恋人だったんだから。
でも、ああいう経験ができたことには感謝しなくちゃ。
短い間だったけど、私は普通の女の子でいられた。
本当だったら、別れすら経験しなかったかもしれない。
……その方がよかったかもしれないけど。
こんなに胸が苦しいなんて、思いもしなかった。
それでも、りょうと出会えたこと後悔したくない。
本当に、幸せだったから。
ふと、小さな神社が目に入って足を止める。
「こんなところに神社なんかあったんだ…」
小さいけれど、ちゃんと綺麗にされている。
さわさわと木が風に揺れていた。
「……そうだ、せっかくだし」
――――チャリーン
神様、どうか彼を幸せにしてあげてください………。
「おつかれさまでした」
「はーい、おつかれさま。明日もよろしくねぇ」
バイト先のおばあちゃんたちに挨拶をして私は店を出る。
私の周りは特に変わったこともなく、ゆったりと時間が過ぎていた。
一つだけ変わったことといえば、あの神社にお参りするようになったこと。
バイト帰りに立ち寄ってから家に帰るようになった。
願うことは最初からずっと変わらない。
たった1人の幸せだけだ。
朝が苦手だったよね。
遅刻してない?
無理して身体を壊したりしてない?
ため込まないでちゃんと人に相談するんだよ。
あなたは1人じゃないはずだから。
………支えてくれる、パートナーは見つかった?
「余計なお世話、か」
乾いた笑いが、空に消えていった。
………誰かに尾行されている。
ここ最近視線を感じることが増えていたのはこのせいか。
仕事を終え、家に帰る道で私は後ろの気配を窺っていた。
マスコミがまだ探っているのだろうか。
私のことを突き止めた?
……いや、これはプロだ。
警察か、探偵か。
そういう人の仕事だ。
カーブミラーや車のミラーにも映らないほどの徹底ぶり。
敏感な私でなければ気づかない気配。
いったいなぜ?
……考えられるのは、榊原碧か、りょうの事務所の社長か。
私が自棄になって変なことしないように?
冗談じゃない。
私は未だに、あの人たちの爆弾だって言うのか。