一瞬にして全てを悟るなんてよく言うけど、そんなことありえないと思ってた。
でも、まさに今私はその状態だった。
この人の一言で私の人生に足りなかったピースが埋まった。
――――この人が私の父親だ――――
それでも、揃ったピースは今の私にはどうでもいいことで。
むしろ今まで保っていたバランスがそれによって崩れていくようだった。
りょうとの再会で脆くなっていた私の精神は、瞬く間に崩壊していった。
勢いよく立ち上がってなりふり構わず叫ぶ。
「私っ、私は!! 榊原碧が母親だなんて、認めないっ! あなたが父親だなんて認めないっ!! 私からっ! 普通の家族も、夢も! あげくの果てにりょうを、りょうまでも奪ったあなたたちをっ!! 私は………っ!! 私は絶対にっ!」
「落ち着け篠崎っ!!」
強く掴まれた肩にはっとして気がつくと、いつの間にか前島さんが私を心配そうに見つめていた。
「葵…………?」
大好きだった声に名前を呼ばれてそちらを見ると、動揺したりょうと、完全に顔色を失った社長が目に入った。
『榊原碧………?』
『母親ってどういう………』
『社長が父親?
いったい何の話だ……?』
周りからはひそひそと今の出来事について噂している声がした。
その瞬間、私は全てを冷静に考えられるようになった。
ここはりょうの事務所のロビーで。
私が取り返しのつかないことをしてしまったということが。
それでも、私は混乱していたのだろう。
「っ………」
「っ、おい篠崎っ!!」
「葵っ!?」
何も考えずに前島さんの手を振り払って、事務所を飛び出していた。
目的地も無いままだったが、とにかくここから離れたかった。
りょうにだけは、知られたくなかった。
私が、どれだけ邪魔な存在かなんて。
産まれてきてはいけない人間だったなんて。
――side 亮介――
「篠崎っ! くそっ……申し訳ありません、新人1人に任せた私が悪かったですね。……ですが社長、長谷川さん、何があったのか後で聞かせてもらいますよ」
あれでも私の大切な後輩なんです。
そう言って、前島と呼ばれた葵の先輩は後を追って飛び出していった。
正直に言えば俺が後を追いたい。
泣きそうだった顔が頭にこびりついて離れない。
走っていって、抱きしめてやりたい。
でも、その前に
「………社長、今のはどういうことですか」
俺、長谷川亮介はまだ動揺している社長を問い詰めた。
「あなたは葵の父親なんですか? 榊原碧が母親なんですか?」
どうしても、確かめなければいけないことがある。
「……葵は、あなたが俺のことを奪ったと言っていた。どういうことです? 葵のほうから、別れてやるからお金を寄越せと言ってきたのではないのですか!!」
だから、俺は葵を諦めようと必死にっ……!
それは嘘だったというのか?
「………こちらから渡すよう指示した。彼女は何も言わずに受け取った、と報告を受けている」
「っ……なんてことを!!」
信じきれなかった俺も俺だ。
冷静に考えれば、葵がそんなことを言うはずがないのに。
ロケから帰ってきて彼女がいなくなっていたことに動揺し、冷静に判断ができなくなっていた。
「……私は、お前に同棲している恋人がいると聞いて別れるよう説得し、金を渡すよう命じた。……まさかそれがあの子だとは思わなかったがね」
社長はそう言って、悲しみをたたえた目で遠くを見た。
でも、悪いけど俺は同情することはできなかった。
「……つまり、相手が誰かも、どんな人かも知らないで別れさせたって言うんですか」
「……そうだ。この世界ではそういうことはさほど重要ではないからな」
俺は反論することもできず、強く手を握りしめた。
爪が食い込んで痛みが走る。
でも、葵の受けた傷はこんなものじゃない。
胸が締めつけられて、息が苦しかった。
今なら全て理解できる。
お金を受け取ったのはきっと、俺のもとに戻れないようにするため。
自分が悪役になることを承知で受け取ったに違いない。
――――優しすぎる人だから。
「……思い出しました。彼女が役者を目指したことがあると話していたことを」
そのときは何とも思わなかった。
『私は日陰が似合う女なの』
あの言葉にはもっと深い意味があったんだ。
「葵は、あなたたちのことが露見しないために夢を諦めるしかなかったんだ」
諦めることは得意。
それは、彼女の口癖だった。
いったいどれだけのことを諦めてきたのだろうか。
……いや、諦めなければならなかったのだろうか。
「……葵……」
俺は、どれだけ彼女を傷つけたことだろう。
優しく、穏やかに微笑んでいた彼女。
『りょう、大好きだよ』
「……葵……っ!!」
俺は、馬鹿だ。
「あなたの娘はそういう人なんですよっ! 自分のことより他人を優先して。いつだって彼女が諦めてきたんだ!!」
それを分かっていたのにっ……!
こちらから手を離してしまってはいけなかったのに。
優しい彼女は自分が傷つくことを選ぶだろう。
今回のことがなければ、このことは一生言うつもりもなかったはずだ。
「……社長。俺達の今は葵の優しさの上に成り立っている。彼女は諦めてしまったかもしれないが、俺は葵を諦めるわけにはいきません」
そうだ。
こんな簡単なことも分からなかったなんて。
この数ヶ月、何をしていても葵を忘れられなかった。
ひどいことをされたんだと、思いこんでいても。
俺は――――
「俺は葵を失うわけにはいかない」
そう強い意志を込めて社長を見た。
社長は自嘲気味に笑うと、
「……私はあの子の人生を狂わせてしまった。さっき、一目見てあの子だと分かったよ。目が、碧だったからね」
葵を、幸せにしてやってくれ。
と言って、社長は深く頭を下げた。
――side 葵――
「篠崎……本気か」
「もちろん。こんなこと、冗談でも言いたくなかったですけど」
私はあの後、追いかけてきた前島さんに捕まり近くのファミレスに連れ込まれた。
そこで会社を辞めることを伝え、いつもバックに入れていた退職願を見せた。
「……なぁ、篠崎? さっきの話が本当だとしても俺は別に構わないし、あの社長だって露見しないようにしてくれると思うぞ?」
「前島さんは特殊な例なんですよ。それに、確かにあの人は動いてくれるでしょうけど限界がありますから」
あれだけの人に聞かれてしまったのだ。
今のご時世、情報が広がるのは防ぎようがないだろう。
それに、前島さんが気にしなくても大多数の好奇の目に晒される。
会社に被害が及ぶのは避けたかった。
「ん、美味しい」
こんな状況の中、私は不思議とすっきりした気持ちでコーヒーを飲んでいた。
りょうと同じく、たっぷり砂糖とミルクを入れて。
その様子を見ていた前島さんは、私の意志が固いことを悟ったのか、諦めたように深いため息をついた。
「……もう何を言っても無駄か。ったく、頑固なところは変わんねえなぁ」
そう笑って、前島さんもコーヒーを一口すすった。
「で? これからどうすんだ」
前島さんは切り替えが早く、とても気が利く。
いつもへらへらしてるけど、実際は恐ろしく仕事ができる人だ。
……奥さんと小学生の娘さんには頭が上がらないようだけど。
本音を言えばもっと一緒に仕事がしたい。
純粋に仕事は楽しかったから。
この人の元で働けて良かった。
心から、そう思った。
「分かりません。でも、とりあえずもうこの業界からは離れようと思います」
「……そうか」
そんな会話を交わして、しばらく2人とも何も言わなかった。
でも、この人との沈黙は辛くない。
むしろ心地よいものだった。
しばらくして、ふいに前島さんが尋ねてきた。
「篠崎、お前甘いもん好きか?」
「は? 甘いものですか?」
「そ、甘いもん。考えてみりゃお前に何か奢ったことなかったからなぁ。女は甘いもん食えばたいがい元気になるもんだろ?」
そう言って、前島さんはメニューを開いて私に差し出してきた。
「何でも好きなもん食え。最後の晩餐だ」
そして、「ははははっ!」と豪快に笑った。
「まだ夜じゃないですよ、前島さん。それに死ぬ訳じゃありません」
そう言いながらも、私は一緒になって笑っていた。
いつもこの人には助けられる。
私は一生この人には適わないだろう。
「……じゃあ前島さん。私、ハンバーグが食べたいです! ライス大盛で!!」
「……お前ってつくづく変わってるよなぁ。……よし、腹が減ってはなんとやらだ! 俺も食うぞぉ!」
「はい!」
そうして私達は最初で最後の一緒の昼食を楽しんだ。