案の定、それからすぐに1人の人が私のことを訪ねてきた。
「篠崎葵さんですね? 私、長谷川亮介の事務所のものですが……」
思ったより長く一緒にいられたね、りょう……。
私に笑顔をありがとう。
今度はあなたが笑顔でいられるように、遠くから見守っているから。
あなたはもっと輝ける。
だから
「お世話に、なりました。………ばいばい、私の大切な人」
こうして、私は恋人を諦めた。
「な、んですって……?」
「篠崎…お前ちゃんと話聞いておけよ。だからー、次のCMに長谷川亮介を起用するんだとよ」
「何でっ…! だって、今まではターゲットの女性を対象に女性タレントをっ」
私は仕事の先輩である前島透(まえじまとおる)を前に動揺を隠せずにいた。
私の会社は広告代理店。つまりCMなんかを作る仕事をしている。
今度十代の女性を対象にした整髪料から新商品がでるということで、私は前島さんの補佐として企画を進行していた。
そのシリーズのCMには今まで若手女優を起用していたのに。
何で――――
「今回は特に女子高生をターゲットにしてるだろう? それで、今女子高生に一番影響があるだろうってことでうちの社長がダメ元でオファーしたらOKがでたんだと」
何で、よりによってりょうなの。
「今までは女優を起用していたのに……。クライアントは何も言ってこなかったんですか」
「おー、それがあちらさんも大喜びで! ぜひとも長谷川亮介をって言ってきたらしい」
「そう、ですか……」
私はその場で崩れそうになる体をなんとか持ちこたえた。
そりゃ、人気のタレントを使うことをためらう理由はないだろう。
私だって普段だったら泣いて喜んだはずだ。
しかし、今回は現実を受け入れられそうになかった。
……でも、これは仕事だ。
それに、こうなることを望んだのも、選んだのも私自身だ。
大丈夫、私は諦められる。
「あ、そうだ。明日俺とお前で挨拶に行くからよろしくー」
――――大丈夫だろうか。
冷や汗が一つ、背中をつたった。
最近、またテレビを見なくなった。
りょうの姿が見たくて、声が聞きたくて、見るようになっていたけれど。
そうすることが余計に辛いってことに気づいて。
諦めることには慣れていたはずなのに。
『ない』ことには慣れていたはずなのに。
りょうの温もりが『ない』ことが、こんなにも辛い。
あぁ、弱くなったなぁ……私。
それだけりょうが特別だったってことか。
嬉しいような、複雑なような……。
とにかく、明日は普通にしていなきゃ。
前島さんもいるし大丈夫だよね……。
安いアパートの一室、1人で薄い布団にくるまった。
涙が、枕を濡らしていた。
「ちょっと! それどういうことですか!?」
『だーからぁ! ごめんって言ってんじゃん! 人身事故で電車止まったんだって。すぐ動くと思うから、とりあえずお前1人で対応しててくれ』
「そんな……っ!! あっ、ちょっと待って! 切らないで下さいっ!!」
無情にもその電話は切られた。
え……無理無理無理!!
今日はりょうの事務所に先輩とご挨拶に伺う予定だった。
結局、昨日ほとんど眠れなかった私は予定よりかなり早く到着していた。
待ち合わせ場所で先輩を待っていたら、さっきの電話。
もう約束の時間まで10分もない。
とりあえず相手の事務所のビルの前に来た。
どうしよう……。
経験の少ない私が1人で対応できるとは思えない。
その上、りょうを前に冷静でいられるわけがない。
「あの……広告代理店の方でしょうか?」
「は、はいっ!」
「申し訳ないのですが、お部屋をご用意できなくて……。ロビーになってしまいますが、よろしいでしょうか」
「はい、構いません……」
なんか、いろいろ終わった……
ロビーのソファに座って、出されたお茶を見つめる。
さすがに芸能事務所は綺麗だなぁ。
さっきから行き交う人々の中には有名人の姿も見受けられた。
私のことを知っている人は、誰一人としていない。
上手く隠されてきたものだ。
母親の事務所の手腕はたいしたもので、一度だって噂になったことすらない。
現に彼女はある有名俳優と正式に結婚して、おしどり夫婦で通っているのだから。
私の存在など忘れているに違いない。
そんなことを考えてぼーっとしていたら、
「お待たせしました」
と言って、目の前に人影が現れた。
その冷たい声に私は心臓が止まりそうになった。
体が震え、顔を上げることができない。
息の仕方を忘れたように、呼吸が上手くできなかった。
「申し訳ありません。社長は少々遅れてきます」
そう言うとその人は私の前の席に座った。
私は焦点が定まらないまま、ゆっくり顔を上げた。
彼はまっすぐこちらを見据えていて、すぐに目があった。
「久しぶり、篠崎葵さん」
りょう……。
1ヶ月ぶりくらいだろうか、久しぶりに会った彼は前と変わらず。
……いや、とても冷たい目で私を見据えていた。
「このたびは、オファーを受けていただいて……」
「ねぇ。そんなことよりさ、いきなり大金が手に入る気持ちってどんな感じなの?」
私が必死に発した言葉を遮って彼は訪ねてきた。
その声も、目も、演技でしかみたことがないような冷たいものだった。
軽蔑しきった声だった。
意識が、闇に落ちる。
小さい頃に感じていたもの。
お前なんていなければ。
それをりょうから感じたことが、ショックだった。
「……まぁ、いいけど。元気そうでなによりです。さぞかしいい生活を送られているんでしょうね」
そんなはずがない。
あなたがいない生活が、いいもののはずがない。
私にとってあなたが全てだったから。
……それでも、それを言うわけにはいかない。
私は日陰の存在で。
彼は輝き続ける太陽。
彼の知らないところだとしても、陰で支え続けなければ。
私が必死にいろいろなものを堪えていると、もう一人の人物が現れた。
「やあ、待たせたね。……おや? 今回は前島くんが担当じゃなかったかな」
「社長、遅刻ですよ」
その声を聞いて、私はすぐさま立ち上がった。
「はじめまして! 私、前島の後輩で篠崎葵と申します。前島は今、電車の都合で遅れておりまして…。すぐに参ると思いますので」
そう言って、名刺を差し出した。
社長は驚いたように私を見ていたが、私の名刺を見てさらに顔色を失った。
「君は……っ」
「社長、仕事ですよ」
この社長もりょうの恋人の存在は知らされていたのだろう。
りょうは私がこの広告代理店に入ったことを知っていた。
ある程度の予測ができたから、あまり動揺せずにすんだのだろう。
「あ、あぁ……そうだな……」
りょうが宥めて社長を座らせる。
続いてりょうと私も座った。
「申し訳ありません。前島が来るまで少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
そう言った後、私は顔を上げることができなかった。
お互いに気まずいのだろう。
長い沈黙が続いた。
しばらくしてそれを破ったのは意外にも向こうの社長だった。