「デートって、付き合ってる男女がするものですよね?」
私の顔はおそらく真っ赤になっていることだろう。
先輩はそんな私を見て、今まで見たことがないほどの甘い笑顔を見せた。
「……そう。だからね、篠崎さん」
「俺の彼女になってください」
「…………えっ」
「ふふっ、タコみたいだ。ねぇ、葵って呼んでいい? 俺のことは亮介って呼んで」
そう言って先輩は身を乗り出して私に触れるだけのキスをした。
途端にもっと赤くなった私に、先輩も頬をほんのり染めて言った。
「好きだよ、葵。俺と付き合って」
「…………はい」
それから私達は本当にいろいろなところに行った。
映画、水族館に動物園、遊園地にも行ったし、プリクラも初めて撮った。
それは世間からすれば普通のことだったかもしれない。
それでも、今まで極力外に出ないようにしてきた私にとってはとても新鮮なことばかりで。
「こんなに楽しいの初めてです! 私、本当に幸せで。ありがとう……りょう」
そうして初めて先輩のことをりょうと呼んだとき、
「もうっ、本当に可愛すぎだから! ……葵、大好きだよ」
と言って、私をぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「もっともっと、葵を笑顔にしてみせるから」
その頃から彼の口癖は変わらない。
――――産まれてきて良かった
初めて、自分が幸せだと思った。
りょうが大学を卒業すると同時に私達は一緒に住み始めた。
それは、私が一人暮らしで身寄りがないことを知った彼の優しさ。
「今度俺も一人暮らしを始めるんだけど、一緒に住まない? 実は家事が苦手でね……」
彼はそう言っていたが、それは私に気負わせないための口実。
私もそれを分かっていて了承した。
彼をもっと近くで支えたかったから。
その頃からりょうの芸能界での仕事が増えていった。
それに伴い一緒にいる時間は減っていった。
そして、仕事が増えるにつれ彼が挫折を感じることも多くなった。
私はそのたびに背中を押し続けた。
「分かるよ、りょうの気持ちも。あなたのいる世界は一瞬の油断が命取りになる。それでもりょうは精一杯頑張ってるでしょ?」
「……葵は優しいね。俺は葵に優しくできてるかな? 時々、すごく不安になる。もっと普通の人のところに行っちゃうんじゃないかって」
私はその言葉に胸が締め付けられるようだった。
彼がこんなにはっきりした弱音を吐くなんて、始めてのことだったから。
「……あのね、りょう。私も役者を目指したことがあるんだよ」
私は彼を励まそうと自分の昔話をすることにした。
いまだに私の秘密を話すことはできていないけれど。
最近では少しずつ自分のことを話すようになっていた。
「結局、目指すことなく諦めちゃったけど。だからね、りょうには私の夢を代わりに叶えてほしいんだ」
そう言って微笑めば、彼は驚いたように私を見つめてきた。
「どうして、諦めちゃったの? 葵は可愛いし……ビジュアル的には問題なかったでしょう?」
それは、大女優の娘だからね。
とは言えずに、私は苦笑いで答えた。
「私は日陰の似合う女なの。表にでて光を浴びる存在じゃなかったってこと」
だから、あなたを陰で支えていくから。
私がそう言えば、彼はふんわり微笑んだ。
「そう、だね。葵が支えてくれるから俺は頑張れる。……ありがとう。もうちょっと頑張ってみるよ」
それからまた何年かがたち、私は無事に広告代理店への就職を果たした。
そしてりょうはある有名な監督の映画の主役に大抜擢され、瞬く間に有名になっていった。
すると必然的に世間から注目を浴び、マスコミから追いかけ回されるようになる。
(またか……)
一緒に住んでいれば私も目を付けられる。
毎日家の前に1人はカメラを持って潜んでいるようになった。
昔からこういうことに敏感にならざるを得なかった私はまだ見つかってはいなかった。
しかし、それも時間の問題だろう。
りょうが有名になるほど、私の不安は募っていった。
――――芸能界の光も闇も嫌というほど知っている。
だからこそ、分かってしまうのだ。
「そろそろ、かな……」
胸が、痛かった。
案の定、それからすぐに1人の人が私のことを訪ねてきた。
「篠崎葵さんですね? 私、長谷川亮介の事務所のものですが……」
思ったより長く一緒にいられたね、りょう……。
私に笑顔をありがとう。
今度はあなたが笑顔でいられるように、遠くから見守っているから。
あなたはもっと輝ける。
だから
「お世話に、なりました。………ばいばい、私の大切な人」
こうして、私は恋人を諦めた。
「な、んですって……?」
「篠崎…お前ちゃんと話聞いておけよ。だからー、次のCMに長谷川亮介を起用するんだとよ」
「何でっ…! だって、今まではターゲットの女性を対象に女性タレントをっ」
私は仕事の先輩である前島透(まえじまとおる)を前に動揺を隠せずにいた。
私の会社は広告代理店。つまりCMなんかを作る仕事をしている。
今度十代の女性を対象にした整髪料から新商品がでるということで、私は前島さんの補佐として企画を進行していた。
そのシリーズのCMには今まで若手女優を起用していたのに。
何で――――
「今回は特に女子高生をターゲットにしてるだろう? それで、今女子高生に一番影響があるだろうってことでうちの社長がダメ元でオファーしたらOKがでたんだと」
何で、よりによってりょうなの。
「今までは女優を起用していたのに……。クライアントは何も言ってこなかったんですか」
「おー、それがあちらさんも大喜びで! ぜひとも長谷川亮介をって言ってきたらしい」
「そう、ですか……」
私はその場で崩れそうになる体をなんとか持ちこたえた。
そりゃ、人気のタレントを使うことをためらう理由はないだろう。
私だって普段だったら泣いて喜んだはずだ。
しかし、今回は現実を受け入れられそうになかった。
……でも、これは仕事だ。
それに、こうなることを望んだのも、選んだのも私自身だ。
大丈夫、私は諦められる。
「あ、そうだ。明日俺とお前で挨拶に行くからよろしくー」
――――大丈夫だろうか。
冷や汗が一つ、背中をつたった。
最近、またテレビを見なくなった。
りょうの姿が見たくて、声が聞きたくて、見るようになっていたけれど。
そうすることが余計に辛いってことに気づいて。
諦めることには慣れていたはずなのに。
『ない』ことには慣れていたはずなのに。
りょうの温もりが『ない』ことが、こんなにも辛い。
あぁ、弱くなったなぁ……私。
それだけりょうが特別だったってことか。
嬉しいような、複雑なような……。
とにかく、明日は普通にしていなきゃ。
前島さんもいるし大丈夫だよね……。
安いアパートの一室、1人で薄い布団にくるまった。
涙が、枕を濡らしていた。