『おはよう。なかなか巧く言えないから、ここに書いておこうと思います。』

 そこまで書いた手が止まった。カラン、コロンと水車が転がる音がする。きっとまだ外は凍っていないのだろう。二階の窓から林の上を見上げると、水晶のような濃紺の夜空にオリオン座が輝いていた。
 床板を踏みしめ、灯油ですすけたストーブに火をかけ、小さな部屋の電気を消す。マフラを巻いたまま息を吐くと、すぐに窓硝子が凍えるように曇った。星に向かってもう一度息を吐くと、「なんだか汽車みたいね」と言って笑った彼女の横顔を思い出した。
 僕はそこに絵を描いた。二人でよく描いた、山猫や野ウサギの絵を一人で描いた。

 毎年冬が近づくと、僕は君を思い出す。オリオン座の住人が、まだ君は忘れてはいけないよと声を掛けてくれるから。
「世話好きなのよ」と君はいった。
「そうかも知れないね」と僕は笑った。
 そもそもリゲルやベテルギウスに人なんて住んでいるわけないじゃないか。と僕が言えば、君はどうして?と首を傾げ、「彼らは毎日動いているのよ」と得意げに言った。
 確かに君が言ったように、彼らは毎夜、少しずつ位置をずらしながら、あの頃の僕たちを静かに見下ろしていた。肩を寄せ、互いの体温を確かめるように抱き合う僕たちを。

 君はもう僕のことを忘れただろうか。顔や、声や、仕草や、癖や、ずっと君を守っていくよと言った言葉や、守られなかった約束や、そうしたものすべての記憶を。

「あの子、まだ結婚してないって」
「そうなんだ」
「リゲルが言ってたから間違いないよ」
「リゲルか。あいつは本当に世話好きというかお節介というか」
「まったくだね」
「だけどどうなんだろう。どうして彼女は結婚しないんだろう」
「さあね。もしかしたら前の彼のことを忘れられないのかもしれないよ」
「写メもメールも全部消したんだろ?」
「写真や手紙も捨ててたね」
「寂しいね。彼の方はまだ持ってたよ」
「男はだいたいそういう生き物なのさ。そもそも新しい彼に失礼じゃないか。ソイツのために捨てたんだよ」

 星たちの声が聞こえてくる。僕にはまだ聞こえてくる。君はどうだだろう。君にもまだ聞こえるんだろうか。

 止まっていたペンを走らせる。たった一枚の便せんに、君の横顔を思い出しながら。

 それで、君はどうなんだい?違う男に抱かれて、記憶の一部がすり替わって、僕の顔が僕じゃない違う誰かの顔にすげ替えって、僕の声や仕草や癖はとうの昔に忘れ果てて。それでもまだ、ずっと君を守っていくよと言った僕の言葉や、守られなかった約束や、そうしたものが胸のしこりになって君を苦しめているのなら、そんなものは剥ぎ取って、さっさと忘れてしまえばいいじゃないか。
 廃人のようにぼろぼろになって、オリオン座を見つけたって、そこにもう僕の影など映らなくなって、星たちの会話も聞こえなくなって、森の中のログハウスのことも、そこで夜空を見上げる男のことも、そいつと抱き合った温もりも、砂を噛むような苦しみも、僕の顔も、声も、仕草も、癖も、君を想う気持ちも、ぜんぶぜんぶ消し去ればいい。

そうして君が僕を忘れたなら、僕はまた、君に会いに行ける。

今でもあの夜のことを思い出す。
僕は君を見ていた。
君は星を見ていた。



「星を見る人」完