黄麦色のススキを手に、長い石段を登る娘の背中が、夕日に染まって揺れている。
「まゆむし!」
 と、おもむろにしゃがみ込んで足元を見つめている娘の横で立ち止まり、杏は虚ろに振り返った。
 城下町の風情が今なお残る、古い家々が眼下に軒を連ね、遠くに見える七尾の山も、町中を流れる綾瀬川の土手も、何もかもが温かい緋色に包まれている。
 ちょうど目線の高さにある八幡座山の中腹に、祖母の遺骨が納められている霊園が見える。そう言えば、とほつれた髪をかき上げる。あそこにももう、長い間行っていない。
「行くよ」
 いっこうに立ち上がる気配のない娘に声をかけ、再び石段を登り始めた杏の頬を、一筋の風がすり抜けた。
 寒い。
 ――肌が寒い。
 杏は長袖の上から腕をさすった。

「杏ちゃんかい?」
 頂上にたどり着いた杏は、境内から聞こえてきた声に顔を上げた。
「……和尚さん」
「久しいのお」
 昔と少しも変わらない、皺だらけの顔が夕焼けの中で微笑んでいた。
「元気じゃったか?」
「ええ、まあ」
「ご主人は?」
「先週はロス、今週はパリだって」
 まるで母子家庭よ、とため息をこぼし、神妙な顔つきでこちらを見上げている娘の頭をそっと撫でる。
「そうか」
 幾分痩せたように見える杏の横顔から目を移し、和尚は境内の隅に顔を向けた。
 つられるように見れば、娘よりも頭一つ背の高い男の子が数人、境内に落ちた枯れ葉を集めて火をくべていた。
「なにしてゆの?」
 その輪に駆け寄り、男の子達の間から顔を出した娘が、ゆるりと煙が立ち昇る落ち葉の山をしげしげと覗き込む。
「昔の杏ちゃんによぉ似とる」
「そう?」
「色が白うて好奇心旺盛でな、毎日セガレとここで遊ンびよった」
「……そうね。そういや祐君は?」
 元気?と訊ねると、和尚は「さあなあ」と肩をすくめ、手にしていた箒を雨戸の戸袋に立て掛けた。
「あいつもどこで何をやっておるのか」
「うちの旦那と同じね」
「男ってのは幾つになっても」
 和尚はカラリと笑い、足元に落ちていた桔梗色の夕顔の花を拾い上げた。
「わ!うまそ!」
「あっつ!やめろよおい!」
 芋でも焼いているのだろうか。男の子達の笑い声が聞こえてくる。
 寺の縁側に浅く腰掛け、子供達の様子を見つめていると、包丁の音と味噌汁の匂いがどこからともなく漂ってくる。
 ――懐かしい。
 杏は静かに目を閉じた。
 もう何年もこんな心静まる気持ちになったことなんてなかった。
「無理せんでええ」
 朱色に馴染んだ羊雲を眺め、和尚がぽつりと呟いた。
「いつでも帰ってきぃ」
「……ん」
 杏は黙って唇をかみ、夕陽に染まる袖をさすった。
「ママ見て!」
 分けてもらった焼き芋を手に走り寄ってきた娘が、「どうしたの?」と心配そうに杏の顔を覗き込む。
「ううん」
 何でもないわ、と瞼を開くと、翼を広げた一羽のトビが、茜色の空にゆったりと弧を描き、七尾の稜線に溶けて消えた。



「遠野」完