その夜、タネリは一人丘の上に登り、銀色の街を見下ろしていました。丘の上にはまるでここいらの森の主のように大きく年老いた楠が一本立っいるだけで、他には何も見あたりません。
 その楠にもたれ掛かり、ほうと白い息を吐いて、すり切れた服の上から凍えた体をさすっておりますと、
「ああ、今日は星祭りかのお」
「げっふごふごふ」
「東の、すまんがひと駈けしてカラスウリを探してきてくれんか」
 と、声が聞こえてきました。
 いったいどこから聞こえてきたのかとあたりを見回しておりますと、突然頭の上からするすると梯子が降りてきたものですから、タネリは慌てて楠の陰に隠れました。するとどうでしょう、
「ち、ち、ちっ」
 タネリよりもずっと小さい一匹の山猫が、舌打ちをしながらその梯子から降りてくるではありませんか。
 梯子を下りた山猫は、また「ち、ち、ちっ」と舌打ちすると、丘を下り、薄暗い東の森へと歩き去ってしまいました。
 タネリは、ぜんたいどうなっているのかと首を傾げ、梯子に足をかけました。
 すっかり街の様子や丘のふもとを流れるカツラ川の水晶のような川面が見えるほどまで登りますと、木の幹に、

『山猫観測所』

と下手くそな字で彫り込まれた表札があって、その横にやたらと立派なノブを見つけました。
 タネリがそっとドアを押しますと、
「おやおやこれは」
 ほこほこと暖かで明るい楠の幹の中に、先ほどのよりも一回り大きくて年老いた三匹の山猫が立っていました。
「あの」
 タネリが何か言いかけますと、
「いったいどうやってここまで登って来られたのかのお」
 と、傍らの山猫が耳をぴんと突っ立ててたずねました。
「おおかた東のが梯子をそのままにしとったんじゃろう。ほっほほ」
「げっふごふごふ」
 三匹の山猫は後ろ足だけで立ち、少し腰をかがめて言い合いました。おかしなことに、きちんと服を着て、ぴかぴかの靴まで履いています。
「あの、ここは……?」
 床や壁や天井をぐるりと見回してからタネリがたずねますと、
「見てのとおり観測所だがの」
 と一番若そうな山猫が得意げに髭をぴんぴん踊らせてこたえました。
「かんそくしょ?」
「そうじゃ。わしが北の、この若いのが西の、そこで咳こんどるのが南の、あと一人、さっき梯子を下りていったのが東の星を観ておるんじゃよ。ほっほ」
「星を?」
 そう言えば部屋には窓が四つあって、それぞれに真ちゅう造りの望遠鏡が置かれているではありませんか。
「星を見てどうするの?」
「スケッチじゃな」
「絵を描くの?」
「そうとも。毎日星を書いてはお前達の街を見て回っておるのよ」
「街を?」
「そうとも。それがわしらの仕事じゃからのお」
「げっふごふごふ」
 山猫たちはぎょろりとした大きな目をくるくると動かしながら、代わる代わるタネリに話しかけては望遠鏡を覗き込んでいます。とその時、
「どうやら今度はわしが行かんとならんようじゃ」
 一番年老いた山猫はそう言いますと、タネリに向かって手を差し出しました。
「タネリ、おぬし切符は持っておらんな?」
 え?とタネリは後ずさりました。
「どうして名前を知ってるの?」
「ほっほほ」
 山猫は濡れた鼻をひくひくと動かしてから、もう一度「切符は持っておらんな」と念押ししました。
「切符?」
 タネリは慌ててズボンのポケットに手を突っ込んでみましたが、紙切れ一つ見あたりません。
「ならお別れじゃ。わしはこれから街外れのカラスウリを取りに行かねばならん。それにタネリよ、ここはまだおぬしが来るような場所ではないのでな」
 山猫はそう言うと、靴を磨き、シルクハットをキチンとかぶり、小豆色に光るステッキを手にしてドアを開けました。
 すると突然、ごおっというもの凄い風の音が流れ込んできて、どこからともなく三匹の声が聞こえてきました。
「いずれまた」
「遠い未来で」
「げっふごふ」
 タネリは必死に柱にしがみつこうとしましたが、手は空を掴み、目は風に覆われ、耳は葉ずれの音にかき消されて、あっという間に山猫たちの声を見失ってしまいました。



 静かな静かな丘の上で、タネリは目を開きました。そこには小さな虫の音以外何ンにもなくて、あの大きな楠も見あたりません。
 ゴロンと体を入れ替えますと、南の空から北の空へとたゆたう砂粒のような天の川が広がっていました。
 何かが耳に残っていました。
 ストーブにかざしたような暖かさが、手のひらにありました。
 ゆっくりと体を起こし、夜露に濡れる草をはらって歩き出したタネリの背中は、やがて静かな丘の向こうに見える銀色の街に溶けて消えていきました。



「山猫観測所」完