業務用の掃除機と、普通のモップと雑巾、後は数種類の洗剤があるだけ。

「桜さん、いつも綺麗にしてくれるから助かるわぁ」

 私のフロアの責任者は今日もきちんと褒めてくれる。だから、やる気が出るのかもしれない。

「……ありがとうございます」

 私は控えめに笑いながら、身支度を整えて病院を出た。

 先生に仕事を斡旋してもらって、2週間。

 別にそれほど嫌な仕事じゃない。

 掃除機で掃いて、モップをかけるだけだから。

 だけど事務で働いていた頃なら、掃除婦に転職するなんて考えられなかった。

 残業はたまにあったけど、帰りに同僚と食事に行ったり、送別会でカラオケに行ったり、飲みに行ったり。

 掃除婦になってからは、自給だし同僚もいないし友達もできない。

 職場の雰囲気が悪いということじゃない。みんな、優しいから友達になろうと思えばなれるのかもしれない。

 だけど、そんな気にはなれなかった。

 かろうじて、年下の夏輝が帰って来てくれるのが幸いか。

 これも、年上で気を遣わないといけない存在だったら、苦痛になるのかもしれない。

 ……私、今踏み出した新しい人生、間違ってないだろうか……。

 立ち止まって、辺りを見つめた。

 ……それでも、今日の晩御飯を自分で作ることには変わりないし、明日も仕事に行かないといけない。

 けどなんだか、今はそんな気分じゃない。

「こんばんわー」

 職員玄関を出てすぐ、気の抜けたような声が前から聞こえて顔を上げた。

「……先生……」

 今日は講義がないせいか、濃紺のスラックスにライン入りのワイシャツだ。

「今帰りですか?」

「……はい……」

「どうですか? 仕事は」

 近づきながら、聞いてくれる。

「……なんとも」

 本当は違う自分も探してみたい、けど、ここでもう少し頑張らないと先生の顔も立たないし、次に何ができるのかも分からないし。

「あそうだ、夏輝。実習が伸びるそうです。次の人が病欠らしくて。まだ2日ほどかかりそうです」

「そうなんですか……」

 あからさまに溜息をついて、吐き出した。

 夏輝は帰って食事をするとすぐに眠ってしまうが、それでもあの身体のぬくもりがあるのとないのとは全く違う。

「どうです、食事でも」

 その目を見た。どうやら社交辞令で誘ってくれているようである。

「……どうしようかな……」

 本当にどうしよう。今日は1人で今から何か作る気にはなれないが、先生と一緒となるとどうだろう。

「行こうかな……」

「じゃあ少し、食事だけ」

 先生は駐車場に向かって歩き始めた。それに続いて歩いて行く。

「私、今日まあまあお金持ってるんです。飲もうかな……」

「……ちなみに……20歳、超えてます?」

 決まってるじゃん! とその不安げな目を見て笑った。

「そんなもう先生! うまいなあ! あ、彼女がいっぱいいるの分かりますよ」

「いやだからあれは、夏輝の勘違いです」

「えー!? でも、先生そんな感じですよね。今日もさらーっと食事誘ってくれるし。私はいいと思いますけど」

「…………それはどうも」

 夏輝は頭をかきながら、また一歩踏み出す。

「居酒屋にしましょうか」

「そうですね、一万円までなら私も払えますから」

「いえいえ、誘ったのは俺ですから。俺が持ちますよ」

「えっそんな……」

 と言ってはみたが、実際そうなるのが当たり前か。

「……先生、いつも自分でご飯作るんですか?」

「うーん、夜は外で食べることが多いですけど。自炊もしますよ」

「あれ? 彼女と住んでるんじゃなかったんですか?」

「だからあれは夏輝の勘違いなんですよ」

「え、あ、そうなんですか」

「何度も言ってるじゃないですか」

 言いながら先生は笑った。

「一人で食べるのって寂しいですよね……」

 隣で先生の視線を感じたが、そのまま前を見て続けた。

「私、今までは家族がいたからあんまり1人で食べることもなかったんですけど、ここへ来てからずっと1人で……。だから夏輝君が帰ってくるの、いつも楽しみにしてるんです。最近忙しいみたいだけど」

「……、今の実習が終わったら、しばらく家にいると思いますよ」

「あ、そうなんですか……。

 なんか時々……いや、よく……。

 私、これからどうするんだろうってすごく思います。しばらくは夏輝君のお世話になって生きていくのかもしれないけど。

 このまま、ずっといるわけにもいかない気がするし……。

 でも何がしたいのかも分からないし、何ができるのかも分からないし。

 私の今の仕事も大切な仕事だって思ってます。

 けど、私じゃないとできないことがもっとほしい、というか……贅沢だとは思いますけど、……けど、前はそういうことがもっとあったような気がするんです。

 親がいて、兄弟がいて、私がいる生活が普通にあったのに……」

 そこで一呼吸してから先生に問うた。

「私が言ってること、通じます?」

「ええ、分かります」

 先生は即答し、続けた。

「けど、今夏輝の家で待っているのは、あなたにしかできないことだと思います」

「そんなことないです。別に、私たちはどんな関係でもない。

 家族でも、友達でも……ないと思います。一緒にご飯食べて、同じ布団で寝ますけど、だからって……あんまり……話もする暇もないし」

「……うーん……」

「待ってるっていうのも本当は辛い。いつ帰って来るかも分からないし。待ってる時間は長いです。

だから、せめて夏輝君が恋人とか、家族じゃなくて良かった……。

 帰って来なくてもいいくらいの存在じゃないと、待つなんて辛いだけです。

 人のうちに住んでおいて、なんなんですけど」 

 私は笑ったが、先生は笑わなかった。

「……1人で住んだ方がいいですか?」

「かもしれない。けど、完全に一人きりも辛いのかもしれない。私、一人暮らししたことないから分からなくて。

 ……先生はどうですか?」

「俺は一人暮らしに慣れてますから。なんとも」

「……慣れれば、楽かもしれませんね……」

 先生は言いながらレクサスの前で立ち止まり、助手席のドアを開けた。

「先生……やっぱり今日はうちで食事しませんか?」

 パッと思いついて、顔を見て聞いた。

「えっ……」

「どうせならうちにしましょう。あ、買い物行っとけば良かったな……まあいいか。もう遅いし」

 私は淡々と車に乗り込み、続いて先生も運転席に乗った。

しばらく走っていて気付いた。自分の家じゃないのに男の人を連れ込むなんて……まあいいか、夏輝はそんなこと気にしないだろうし、そもそも今日も夏輝は帰って来ない。