「…………桜…………」

 驚いた先生の顔。

 走ってきたものの、なんと返事をしてよいか、分からない私。

 先生が下から上まで舐めるように見ていることに気付き、ようやく岬からもらったティシャツを着ていたことを思い出し、とっさに腕で身体を隠した。

「ほんの短い間でしたが、雪乃……いや、桜さんはここでよく働いてくれました。副長、新堂の秘書を務め、更には朝の稽古も自ら進んで参加し、今では部下の1人として立派に責務を果たしております」

 スーツ姿の先生の前で、寝間着の中島が自信満々でベタ褒めしてくれる。

 その隣には、同じく部屋着の新堂がいつものようにタバコをふかしている。

 私は、少しずつ、歩み寄った。

 先生の目からは、優しさというよりも、悲しそうな表情が見てとれる。
 
「ゆき……いや、桜さん。悪かった。まさか記憶がなくなってこんなことになっていたなんて……。もう少し話を聞いて、探すべきだった。本当に、すまない」

 中島の謝罪などどうでもよく、それよりも先生に見つめられて息苦しくなり、目を逸らした。先生の隣のソファは空いているが、座ることもできない。

「覚えてる?」

 先生は、控えめに聞いた。

だが、その背後にはおそらく必死で探しまわってくれていたのだろう。その疲労した目のクマや少しやつれた顔が全てを物語っている気がした。

それなのに私は、新堂や岬に囲まれて、呑気に毎日を過ごしていた。

 誰かを守りたい。

 そう思って朝の稽古にまで参加した。

 なのに、一番守らければならなかったのは……。

「今……思い出したところです」

 私は正直に声にした。

「ここでは随分よくしてもらったそうで良かった。私達は、何かあったんじゃないかと、ずっと心配していて……」

「本当に申し訳ありません。なんとお詫びをしてよいやら……」

 中島の苦しい声が部屋に広がる。

「……荷物、取って来るわ。出るのは少しでも早い方がいい」

 煙を吐きながら、タバコを灰皿で押しつぶす新堂が、言いながら立ち上がろうとする。

 私は咄嗟に、

「あのっ、私ッ!!!」

 新堂に向かって言った。必死で私を探してくれていた先生の横に立っているのにも関わらず、私は。

 ただ、新堂を見て、そして……床に向かって言った。

「……ここに、いたい」

 数秒の間が空く。

 分かっている。自分がどんなに残酷なひと言を放ったのか、理解できている。

「ゆ…………」

 すぐに引き下がるであろうと思っていた先生が一番に声を出した。

「外で、夏輝が待ってる」

 見つめられて、耐えきれずに逸らしてしまう。

「………………」

「ここに居たって仕方ねーだろーが」

 新堂は、すたすたとドアに向かいながら吐き捨てるように言う。

「でもだって!! 」

 私は、ずっと先生の視線を感じながらも、これが最後のチャンスだと、はっきりと声に出した。

「明日も仕事があります!! 明日も……」

 新堂の後姿は、とてもクールだ。こちらが、精一杯声を張り上げても、どのくらい伝わったのか、分かりゃしない。

「秘書は今日限りだ」

 そのまま、ドアを開き、廊下へ出てしまう。

「雪乃……いや、桜ちゃん、元の所へ帰った方がいい。新堂の秘書も十分やってくれたが、元の所でも、ちゃんとした仕事があっただろう?」

 中島は諭すように宥めてくれるが。

「…………」

 仕事なんて、ない。

 掃除婦して、先生の帰りを待つだけなんて……。

「こんなにここが恋しいほど、良くしてくださっていたことに、とても感謝します」

 先生は中島に向かってこれ見よがしに深く頭を下げた。

「先生、あの、私……」

 私がいるべき場所は先生のそばじゃない、ここが、私のいるべき場所……。

 言おうとしても、声にならない。

「あんまり外を待たすとかわいそうだ」

 先生は立ち上がった。

 外では夏輝が、待っている。金髪の、インターンの夏輝が。一緒にベッドの中でぬくもりをかんじていた、夏輝が。

「外までお送りしましょう」

 中島も立ち上がった。

 先生は先にドアを抜けて、廊下からこちらを見る。

 その、優しいおだやかな視線が胸に響く。温かな時間を教えてくれたのは先生だった。忙しくても時間を割こうとして、旅行の話をもちかけてくれた。

 そして今、絡め取るほどの熱い視線で、廊下の外へ誘い出そうとしてくれている。

 私は、だがそれでも。

足が前に出なかった。

「桜ちゃん、この1か月、とても楽しかったのは俺も同じだよ」

 中島が優しく声をかけてくれる。

 私も同じ気持ち。だけど……、それだけじゃない……。

 喉の奥が痛くなった理由が、自分でもよく解っていた。

それだけに、堪え切れずに涙が溢れた。

 中島はそっと背中を押してくれる。

私はついに事務室から出た。だが、少し歩いて立ち止まると、大きな手が背中に触れ、また立ち止まると押してくれる。

 その繰り返しでなんとか玄関まで来る。すると既に、ビニール袋に詰め込まれた私の荷物が用意されていた。

「…………」

「桜さん、お元気で」

 部下が、それでも笑いながら見送ってくれたが、それにはうまく応えられない。

 帰るしかない……いや、そんなことはない。

 私は荷物を持たずに靴を履き、先に玄関の外へかけ出た。

「桜ちゃん!!!」

 抵抗する暇もなく、黄色い頭が寄ってくる。

「桜ちゃん、心配したよ!!!」

若い高い声で、一気に夜の道が騒がしくなる。

「こら、静かに。ご近所さんに迷惑がかかる」

 後ろからゆっくり出て来たのは、先生だ。既に、手にビニール袋を持っている。

 それでも、私は、自分の道を……。

「桜ちゃん!! 分かる!? 俺だよ!! 」

 寮の玄関灯の下で、夏輝は漆黒の瞳をまっすぐに向けてくる。

「俺の顔見て記憶が戻ったみたいだ」

 後ろから、先生が追い打ちをかけてくる。中島はそれに対して、

「ご苦労様でしたなぁ。こちらからも何か、連絡を取れる手段があればと思うと残念で……」

 と言いかけたのを、私が遮った。

「ごめん…………」

 夏輝の目を見て言った。

 夏輝なら、分かってくれる気がした。

「私、帰れない」

 声が震えた。

「なっ……何でだよ!? 何で帰れなてんだよ!?」

「桜ちゃん……」

 中島自らが、説得しようと歩み寄って来た。

「桜ちゃん、あのね。ここで暮らすよりは、先生と一緒に帰った方がいいよ? そりゃここで居てくれるのは、俺達は構わないけど、こうやって探しに来てくれてる人がいるのに、その人達の気持ちを無駄にしちゃいかん」

「分かってます!! ちゃんと分かってる。だけど私は、ここで私の生き方を見つけたんです。秘書として、それに、目標もできて……」

「彰の秘書にはもうなれんよ。あいつは自分が一度言ったことを曲げるような奴じゃない」

 中島は、まっすぐこちらを見て言い切った。

「雪乃」

 部下の後ろから聞きなれた声が聞こえる。

 私は、その後ろからゆっくりと出て来た岬をじっと見つめた。

 怖いくらいの沈黙。目は私を射抜くほどに見つめている。

「雪乃は俺の女ですよ。後からのこのこ出てこられたって知ったこっちゃねぇや」

 岬は私の肩に手を置き、先生を睨んだ。

「総悟!!! 今はそんな話はしとらんだろう!! とにかく、ゆ……桜ちゃんを先生の元へ返すのが先決だ」

 中島は私と先生の関係には全く気付いていないようだ。

「帰りたくないって、そういうことだったのか……」

 先生よりも先に夏輝が口を開いた。

 そいういう理由ではないが、他の良い説明も思い浮かばない。

「本人が帰りたくないって言ってんだ。帰りたくなったら自分で帰るだろうさ」

 岬は、私の手を引いて部下を通り過ぎ、玄関の前も通り過ぎて道をまっすぐ歩く。

 先生への謝罪も、みんなへの謝罪も。全部心の中にあるのに、一言も、出て来ない。

「えっ、いや、あの、すみません! ちょっと総悟!?」

 中島の困り果てた声が後ろに聞こえた。

 だが、今は岬の手を振り払うことはできない。着いて行くしかない。

「すみません、なんか、あの……あれっ、こーゆー時はだいたい彰がフォローするんですけど。 あれ、彰!! どこ行ったんだ?! 彰、彰―!!!」