「それであの…………」

 目の前のソファに座り込んでいる大柄な、おそらく30過ぎの独身であろう男性は、腕を組んで1人、何度も頷く。

 岬の上着を着たままの私は、長い袖を気にしながらも、なんとか懸命に心境を伝えた。

「うんっ、分かるッ!! いーんだ、いーんだ何も言わなくてッ!!

 こんな若い女の子が1人で彷徨ってるところを見捨てるなんたぁ、俺にはできねぇ。いーや、できねぇ。

 いや、違うんだよ。こんなむさくるしい男ばかりの集まりの中に可愛い女の子が欲しかったとか、そういうことじゃないんだよ。

 なんてゆーかなあ、雪乃ちゃんが……」

 本庁局長、中島 卓(なかしま すぐる)。この人が、良い人で、良かった……。ちょっとデリカシーなさそうだから、モテはしないだろうけど。

 昼間、港でドンパチ騒ぎがあった後、モスグリーンのエプロンの女性に連れられて行ったのは病院だった。

 全く、本当に全く覚えていないのだが、私はショッピングセンターの駅付近で自動車に跳ねられ、その時身分証明書を何も持っていなかったことから、雪乃と名付けられて施設で2週間前から生活しているらしかった。

 時々記憶が飛ぶらしく、その度に跳ねられた話を聞かされていたのだというのだが、全く信じられない。

 いつもは大人しく個室でいるのに、その日に限って散歩に行くと言い出して騒ぎに巻き込まれたらしかった。

 大勢の人がそう言うのなら、私は事故に遭って記憶を失くしたのかもしれない。だけど、今は違う。ちゃんと自分のことが分かる。

 そう強く思った私は、先ほどの騒ぎの事情聴取に呼ばれた後、人の良さそうな岬に一部始終を話し、病院から出してくれるよう頼んだ。

 その結果、岬の上司である中島が私を寮の世話係として拾ってくれるという話になったのである。

 話はとんとん拍子で進み、今晩からまともに寝る場所ができて非常に嬉しかった。

 3階建ての寮の事務室で一通りの説明が終わると、一番背の高い局長が部屋まで案内してくれる。どこから現れたのか、男性ばかりの取り巻きに囲まれながら移動している最中も、岬や新堂が側にいてくれて、みんな親切この上ない。

 大家のおばさんが事務室の隣の部屋に1人いるし、これなら、男性の中でも十分やっていけそうな感じだ。

「部屋は、(岬)総悟(そうご)と(新堂)彰(あきら)の間が一部屋空いてるから、そこで。一階だし何かあったらどっちか起こしてくれればいいし、遠慮はいらないゾッ♪」

 中島はガハハと笑いって浅黒い肌から白い歯を見せながら、ドアを開けてくれる。

「一通りの物は揃ってる。本来ここは総悟の部屋だったんだがなんだかんだで空いてな」

「俺は、寝てる時までニコチン吸わされるのだけはゴメンですよ」

「隣の部屋まで匂うかッ!!」

「ささっ、入った入った」

 中島に促されるまま、中へ入る。

 ワンルームのフローリングには、布団やタンスなど一通りの物が揃っているが、それほど新しいわけではなく、ここで1人で寝るとなれば天井の照明など、不気味に見えなくもない。

 基本食事は食堂で摂るらしく、流し台もついているにはいるが簡素な物なので調理をするとなれば難しそうだ。

「すみません、突然押しかけたのにも関わらず……とても感謝しています。明日から、あの、掃除とか、できる限りのことはしますので……」

「そんなことは徐々にでいーのいーの」

 中島はまた大きく口を開けて笑う。

「まず風呂ですかね?」

 岬の言葉に連鎖するように思い出した。そういえば、犯人の血がまだ髪の毛について、固まったままだ。

「風呂……」

 背後にいた男性陣が一気にざわめきたつ。

「オメーらァ!! 覗きなんて真似すんじゃねえゾ」

 敏感に感じ取った新堂が後ろに向かって一喝すると、

「新堂さんが一番に覗くんだ、邪魔すんじゃねーゾ」と、もちろん岬。

「覗くかバカ!! テメーの脳みそカチ割ってそっち覗いてやろーかッ!!!」

「って言ってますよ?」

 岬は私を見ながら新堂に向かって親指を指した。

「テメーだよッ!!! 俺はテメーに言ったんだよッ!!」

 新堂のイラついた声が岬だけではなく、部屋中に響く。

 私はその新堂を見て、無表情な岬に向かって、腹を抱えて笑い込んだ。

「身辺のことは、総悟に聞けばいいから。総悟、まずは風呂の使い方教えてやってくれ」

「はい」

 岬は素直に返事をすると、くるりと後ろを振り返り、

「オイ、テメーら、女の部屋覗いてんじゃねえ」

とドスをきかした声で男性陣に威嚇し、辺りを静かにさせた。

 と同時に中島と新堂も部屋から出て行く。

 静かな部屋に2人きりになった私は、岬に向かってまず頭を下げた。

「ありがとうございます、服……」

 昼間からずっと着ていた岬の上着をようやく脱いで手渡した。175センチほどの身長の崎田だが、それでも服は随分大きい。岬の年齢は20歳をすぎているだろうか、微妙なところだ。

「血が……ついてないといいんですけど……」

 言いながら、とりあえず裏地を確認する。

「いーんですよ、血くらいいつものことです」

「スーツだから洗えませんよね……」

 肩についた血が乾く前に羽織っていたので、おそらく多少でも血がついているだろう。いや、最も、犯人に手錠をかけるなどした際に直に触っているので、でそちらの方が派手に付着しているだろうが。

「あー……」

 岬は上着を受け取りながら数秒考えて、答える。

「やっぱ、頼みます。それ洗えるやつなんで」

 頭をかきながら遠慮もなしに上着を差し出してくる。独身男性だし、ネットに入れて洗ったりするのが面倒なんだろう。

「あっ、はい。洗濯はどうしてるんですか? 洗濯機は部屋にあるんですか?」

「じゃあまず、風呂から行きますか」

 くるりと岬は振り返り、奥のドアに進もうとする。

「あの……!」

 私は最初から思っていた大事なことを、ようやく口にした。

「服っ!……着替え、あります?」

 岬の上着をとると薄いティシャツだけになるのだが、それには血が少しついていて、自分の血ならともかく他人のしかも犯人のとなると、かなり気になる。

「そういやそうですね」

 岬は今まで全く気付かなかったのだろう。ポンと平手にグーでひらめき、うーんと少し口を尖らせて考え始めた。

「俺のでよかったら貸せますけど……でかいかな」

「…………」

 何も答えることができず、ただ岬の判断を待つ。

「ま、いーか。中島さんのよりはマシか。ちょっと待ってて下さい。すぐ取って来ます」

 岬は部屋から出て隣の自室へ入ると、すぐに戻ってくる。手渡してくれたのは白いティシャツだった。先ほど畳んだらしく、少し皴になっている。

「寝るだけならどうにかなりますよ。あ、明日の朝も服ないか……。俺、明日ちょうど非番なんです。服でも買いに行きますか?」

 無表情でストレートに聞いてくる。

 ただの親切心だろうが、初対面なだけにさすがに照れた。

「えっ、いやっ、あのっ……私っ、お金もないし……」

 そうそう、それが第一!!

「いーんですよ。服ないとどこへも行けませんよ?」

 そうだけど……。

「すみません、ありがとうございます、私、一生懸命働きます」

「耳が痛ぇなぁ……」

 岬は少し顔を緩ませると、「着いてきて下さい、案内します」と背を向けて洗面室に向かって歩き始めた。

「俺が言うのもなんですが、ここは男ばっかりなんで、一応気を付けて下さい。洗濯物とか。大家のおばちゃんは隣に自宅があるんで、夜はいないも同然なんで」

 彼は片手をポケットに突っ込み、ドアを開けた。

「あ……はい……」

「ここの連中に裏切り者はいねぇが、バカばっかりなんでね……。さ、ここが風呂です」

 よくある折れ戸を開け、シャワーの使い方を説明してくれる。思ったよりも風呂は広く、小物を置く場所も十分ありそうだ。

 脱衣所には洗濯機もある。

「ありがとうございます!」

「俺は部屋に居ます。なんかあったらまた、呼んでください」

 岬はひらりと手を振り、部屋を出て行く。その軽い後姿を見て、私は少し息を吐きながらも、笑顔で風呂場へ入った。