保健室受験をする生徒は全学年合わせて3人だけだった。
3年生は私と安藤さんの2人。
もう1人は1年の桜庭さんという女の子だった。
ライトブラウンの髪や、ネイルの施された真っ白な手、耳に飾られたたくさんのピアス。
1年生とは思えないほど垢抜けた容姿には少しだけ驚いたものの、保健医さんと話す時は明るく笑い、少し幼い声で話し、時々敬語を間違えては恥ずかしそうに顔を覆っていて、邪気のない印象を受けた。
「そろそろHRが終わる時間かな……」
時計を見ながら保健医さんが言った時だった。
ノックなしに扉が開き、井方君が入って来た。
彼はテーブルに囲んでいる私たちを見ると「すごいメンツ」と低い声で笑い、クーラーの利いた室内へと入って来る。
「千尋ちゃん、今日の帰りバスだっけ」
井方君に訊ねられた安藤さんはパッと表情を明るくし、頷いた。
「じゃあ薫さんと帰るんだ。
良かったね」
安藤さんの髪をクシャクシャと撫でてから、井方君は保健医さんへと近寄って行った。
「ここってストパーとかある?」
井方君に真顔で聞かれた保健医さんは、「ん?」と真顔で聞き返す。
座っていた私たち3人も、慌てて井方君を振り返った。
「ストレートパーマのことかな……?
それともストッパのことかな……?」
ゆっくりと訊ねられた井方君は「ストッパ!」と思いだしたように言い直す。
「あるけど、あれ喉渇くから嫌いって言ってなかった?」
棚からパッケージを取り出しながら保健医さんが言うと、安藤さんが井方君を振り返った。
「サツキ君、お腹痛いの……?」
恐る恐る訊ねる安藤さんの肩を、慌てたように井方君が両手で掴む。
「俺じゃない!俺じゃないよ!」
ガタガタと肩を揺さぶられても、安藤さんは抵抗することなく「そっかー」と慣れたように返事をする。
「風野先輩!本当に俺じゃないから!」
私にも念を押すように言ってから、井方君は保健医さんからパッケージを1箱受け取る。
「そこまで全力で否定しなくても良いよ……。
別に井方君がお腹壊してても私引かないし……」
フォローのつもりでそう言うと、どうやら言葉が胸に刺さったらしく、井方君は両手で顔を覆った。
「だから俺じゃないんだってば!!」
また否定し直そうとする井方君の背中を安藤さんが笑いながら叩く。
「もうすぐ試験始まっちゃうから、教室戻った方が良いよ」
背中を押された井方君は、パッと顔から手を外して笑顔になると、退室の挨拶をすることなく保健室を飛び出して行った。
「そう言えば、パッケージごと薬渡しちゃって良かったんですか……?
生徒に薬出すのって慎重にやらなくちゃいけないって、この前何かの本に書いてあったんですけど……」
井方君が出て行って暫くしてから。
桜庭さんが思い出したように顔を上げた。
プリントの整理をしていた保健医さんは「大丈夫だよ」とおっとり答える。
「あの薬はね、ここで預かっているだけで、井方君が持ってきてくれたものなの。
そこの棚の1番上の段のは全部、彼が預けているものなんだよ」
そう言われ、私は薬品棚に入った色とりどりのパッケージを見る。
頭痛薬、咳止め、胃腸薬、吐き気止め、点眼薬、氷嚢……。
どれも薬局で売られているメジャーなものばかりで、品ぞろえはやけに豊富だった。
「校内で体調が悪くなっても直ぐ手元に薬がなかったら辛いだろうからって。
バスケ部の分までいつも切らさないように揃えてあるの」
サポーターや冷却スプレーなどが、練習中に怪我をした時に使えそうなものは、手前の方にずらりと並べられていた。
「すごい人、なんですね……」
桜庭さんが感心したように言うと、安藤さんもゆっくりと頷いた。
「病気がちだった分、他の人のことも考えられる優しい子に育ってくれたんだよ…」
懐かしそうに目を細めてそう言うと、安藤さんはまたテーブルへと視線を戻した。
「井方君は、謙虚で誰にでも親切だし、1度会った人の顔はちゃんと記憶しているから。
そういうところが部内でも買われてるんだろうね」
保健医さんはそう言いながら、プリントを机の上で揃えた。
試験5分前。
私と桜庭さんと安藤さんの前には問題用紙がそれぞれ置かれた。
「他の教室と同じように、チャイムが鳴ったら問題を開いて、終わりのチャイムが鳴ったら鉛筆を置いてね。
試験中の出入りは1人2回まで大丈夫だけれど、同学年の生徒が同時に出て行くのは禁止されているから、気を付けてね」
そう保健医さんが言い終えたところで、試験開始のチャイムが鳴った。
11時の試験終了のチャイムと共に、私たちは一斉にペンを置いた。
保健医さんは手早く解答用紙を回収すると、職員室へと届けに行き、私たちはHRを受ける為にそれぞれ教室へと戻ることにした。
教室へと戻ると、HRはすでに終わっていて、淳君以外誰もいなかった。
「なんか、掃除当番は試験期間中も体育館だって……」
面倒そうに言いながら、淳君は鞄を肩に担ぐと教室から出てくる。
「どうせ試験勉強やらないし、どうせ他の奴サボるだろうし、手伝う」
相変わらずの言い方に、自然と笑みがこぼれそうになる。
失礼かと思い慌てて顔を背けると、淳君にグイと腕を引かれる。
「珍しく俺が気遣ってるんだから、笑うなよバカ綾瀬」
不機嫌に拗ねた声で言われ、今度こそ笑ってしまった。
「バカにバカって言われちゃった」
小声でからかうように言うと、淳君は軽く私の頭を叩き、先へ歩いて行ってしまう。
1年生の頃よりもずっと大きく見える背中を、私は慌てて追った。
分かりづらくても、見つけづらくても、誰にでも優しさくらい備わっているのだということを、私は知っている。
意地の悪いクラスメートたちにもそれぞれの家があって、それぞれの人生があって、それぞれの将来があるということを、知っている。
だから、人を恨まないようにしたいと思えるし、人を本気で好きになれた。
間抜けな音を立てて、バックボードにぶつかったボールはあてずっぽうな方向へと転がって行く。
「城島君……試験中はさすがに体育館使ったら駄目だと思う……」
2階席に立つ私と淳君を、城島君はしばらく呆けた表情で見上げていたものの、やがて髪をガシガシと掻いて、昨日と同じように2階へと跳んで来た。
いきなりジャンプだけで上って来た彼に、淳君は一瞬ギョッとしたような表情を浮かべたものの、彼が4月に会った男子だとすぐに思い出したらしい。
「久しぶり」と低い声で呟いた。
城島君も明るく「久しぶり!」と言い、淳君の肩をばしばしと叩きながら彼の隣りへと立ち直す。
まるで幼馴染みかのような馴れ馴れしいふるまいに淳君は再び目を見開いたものの、すぐ諦めたように視線を城島君から外した。
「色々ツッコみたいことあるんだけど、1つ良いかな……」
小声で淳君に言われ、城島君は「何?」と淳君の顔を覗き込む。
「お前、熱あるだろ」
淳君は鬱陶しそうに城島君の腕を払いのけてから、彼の肩を両手で掴む。
城島君が何か言い訳をする前に、淳君は彼の額に自分の額を勢いよく叩きつけた。
まるで石と石をぶつけあわせたような鈍い音の後、2人ともズルズルと床に座り込む。
「なんで……あんな勢いよくぶつけたの……」
額を押さえて蹲った淳君から後ずさりをしつつ訊ねる。
「熱の測り方ってこれで合ってるだろ……」
うめき声を交えながら弁解をする淳君を無視して、私は城島君の横に腰を下ろす。
「城島君、頭大丈夫?」
額を押さえている彼の手をそっと外し、見事に赤くなっている額へと触れる。
じんわりとした熱と、不自然な汗が指先に感じられた。
「先輩、その言い方傷付くんだけど」
私の手をひきはがしながら城島君が笑う。
「34+27の答え分かる?
分からなかったら救急車呼ぶけど……」
いつの間にか回復したらしい淳君が背後から声をかけて来る。
――せめて1+1にしてあげようよ……。
私が心の中でツッコんでいるうちに、城島君が晴れやかな笑顔で「分かりません」と答える。
「城島君は頭打ってなくても熱がなくても常にこういう子だから……」
慌ててフォローを入れると、唖然としていた淳君は、更に目を見開いた。
それはまるで、本物のバカを見たかのような表情だった。
手加減を入れて投げられたボールを、淳君は受け止め、また城島君へと放り返す。
「……試験勉強は、しないの?」
淳君に言われ、ボールを受け止めた城島君は、肩を竦める。
「教科書、失くしちゃったから」
城島君は、ボールを床へと置くと、その場に腰を落とした。
淳君もカーディガンで額の汗をぬぐいながら、城島君の隣りまで行き、その場に座る。
「それ、本当?」
私が訊ねると、城島君は真顔で頷いた。
「何の教科?
俺、去年の教科書とってあるし貸すけど……」
淳君に言われ、城島君は「ありがとうございます」とだけ答えた。
何を失くしたか正確に答えなかったのは、それが嘘だからではないのだと分かる。
もう探さなくても良い、新しいのを買わなくても良い……そう、彼なりに表したかったのだろう。
「向き不向きってあるじゃないですか……」
城島君の言葉に、淳君は無言のまま頷く。
「俺、運動の方は割と人よりできる方なんですけど、勉強はまったくできないんです。
小学生の頃から、有り得ない程学習が遅くて、なかなか実にならなかったというか……」
そう言いながら、城島君は眉間に皺を寄せた。
淳君は膝を組んだまま、黙って彼の話に耳を傾けている。
何だか似ている2人の間に入って行く勇気がなく、私は少し離れたところに腰を下ろす。
「勉強だけじゃなくて、本当色んなことに支障が出て来て、当然のように小学校では浮いてました。
担任も両親もお手上げでしたし、上級生からもバカバカってからかわれることが多かったんです」
そこまで言って、城島君は言葉を切った。
あれ……と独り言のように呟いた彼は、慌てたように私へと視線を向ける。
何か不味いことでもあったのだろうかと私が首を傾げると、彼は気まずそうに視線を漂わせてから立ち上がった。
「すみません、ちょっと顔洗って来ます」
早口に言って立ち上がると、城島君は体育館から出て行ってしまった。
城島君が出て行って直ぐ、淳君が私を振り返った。
「綾瀬は気付いた?」
そう聞かれ、私は首を横に振る。
「あの子、敬語で喋ってたじゃん」
言われてみて、ハッとした。
いつからかは分からなかったけれど、確かに出て行く時に城島君が敬語で挨拶をしたことは記憶に新しかった。その少し前も。
淳君と座ったあたりからはずっと敬語だったような気がする。
更に記憶を遡らせれば、芳野君と話している時、城島君はいつもの軽い喋り方ではなかった。
「頭悪いフリ、してるだけなんじゃないの」
淳君の言葉に、「まさか……」という言葉を零れた。
「だって、何の為に……?
城島君は何もできないからって理由でバスケ部の人たちから使われてるんだよ?」
笑顔が作り物だということも、明るい性格が天然のものでないということも、分かっていた。
ただ、彼のあの頭の悪さだけは疑うことをしていなかった。
急に突き付けられた可能性に、少しだけ嫌な汗が流れる。
「スポーツ推薦で底辺校に来るくらいだから、頭は良くないかもしれないけど。
でも、敬語が喋れないのは嘘だと思う」
しばらくし、館外から足音が聞こえてきた。淳君はすぐに口を噤み、何事もなかったとでも言いたげに俯き直す。
体育館に入って来た城島君の胸に、ホットの飲み物が3本も抱かれていた。
先程まで城島君のキャラ作り説を説いていた淳君が息を呑むのが、遠くからでも分かった。
「今、自販機って動いてないよね……。
そもそも今日、暑いよね……」
恐る恐る声をかける淳君に、城島君は笑顔でレモンティーを一缶差し出す。
「コンビニまでひとっ走りしてきた。
どうしても飲みたかったから」
城島君は笑いながらその場に腰を下ろし、私に向ってポンとコーヒーの缶を投げてよこした。
缶コーヒーは完全なコントロールで、私の膝の上に軽い衝撃で落ちる。
ありがたく頂こうと思いそっと手で拾いあげ、あまりの熱さに直ぐ床へと置き直した。
淳君も苦い顔のまま床にそっとレモンティーを置く。
城島君だけが缶を開封し、ゆっくりと飲み始めた。
「顔色悪いけど、寒いの?」
淳君に言われ、城島君はパッと顔を上げる。
「いや、寒くはないけど。
外走って来たからちょっと疲れた感じ」
城島君が言い訳を終えないうちに、淳君は着ていたカーディガンを脱ぐと、城島君の肩に雑に掛ける。
城島君は少しだけ淳君を見たものの、すぐにカーディガンを肩へと丁寧にかけ直した。
「試験あと1日だけだから。
寝込まないようにしなよ」
淳君に言われ、城島君は嬉しそうに顔を崩しながら大きく頷いた。
中間試験2日目の朝。
校門前で桜庭さんと会った。
彼女は私に気付くとペコリと会釈をしてから小走りで寄って来た。
「先輩は、今日も保健室受験ですか……?」
潜めた声で聞かれ、私は「そうだよ」と同様に小声で返事をする。
桜庭さんは安心したように胸をなでおろすと、私の横にぴったりと並んだ。
1人で別室受験することが心細かったのだろうか。
進級してから邪気のない女子から話しかけてもらうのはこれが初めてだったから、少しだけ嬉しくなった。
2人で下足室で靴をはき替え、保健室へと向かう。
『開いてます』というプレートのかかった扉を開けると、井方君と保健医さんが既に来ていた。
「井方君、2日連続なの?」
私が訊ねると、井方君は「だから違うって!!」と早口に言い、ソファに靠れかかった。
「これから俺、保健室使うたびに腹下し扱いされそうな気がするんだけど、気のせいかな」
深刻そうな表情で呟く井方君に、桜庭さんが小動物のように遠慮がちに寄って行く。
井方君がさりげなく座る位置をずらすと、桜庭さんは彼の隣りに腰をおろした。
不思議そうな表情を浮かべる井方君と、恥ずかしそうに俯く桜庭さんを見比べ、保健医さんが微笑ましそうに笑う。
「井方君、その子は1年の桜庭さん」
保健医さんが紹介をすると、井方君は隣りに座った桜庭さんを見下ろしながら「はじめまして」と小さく頭を下げる。
「昨日もいたよね。教室入れないの?」
井方君に訊ねられた桜庭さんはコクコクと頷き、「うん」と小さな声で言った。
「桜庭さんは、1年Bクラスなんだよ」
保健医さんがそう言うと、井方君は「マジで!?」と大声を上げて桜庭さんをまじまじと見る。
「丹羽先生が担任って……そりゃ教室入れなくもなるよね」
丹羽先生がバスケ部の顧問の名前だと、井方君の口ぶりから知ることができた。
井方君はポスポスと桜庭さんの髪を叩くように撫でると、満足そうに立ち上がる。
「じゃあ俺、教室行くから。
またね」
桜庭さんに向かって手を振ると、井方君は一礼をして保健室を出て行った。
HR開始のチャイムが鳴る前には安藤さんも保健室へ入って来て、昨日と同じ席に座った。
おはようと声をかけると、おはようと返され、少しだけ温かな気持ちになる。
「安藤さんって井方君たちと別々に登校してるの?」
保健医さんに聞かれた安藤さんは、おずおずと頷く。
「サツキ君と大地君は自転車で登校してるので、私より早く家を出るんです……。
私は薫君や亜衣君と一緒にバスで通うので、結構遅く……」
なります、とまでは言わずに安藤さんは言葉を切った。
ひまわりの家は市外にあるから、彼女たちは随分と遠方からの通学だ。
バスは1時間に2本という頻度でしか出ておらず、しかも1時間くらいかかる。
バスケ部の2人は朝練がある為に早めに到着しなければならず、しかも自転車となるとバス以上の時間がかかる。
――どれだけ早起きしてるんだろう……。
朝早くから明るく振る舞っている2人を思い出して、少しだけ感心してしまった。
「安藤さんは全員分の朝ご飯作ってから登校するんだよね」
保健医さんに言われ、安藤さんは浅く頷く。
「私以外に料理作れる子があまりいないので。
サツキ君は家庭的な方なんですけど、作ってる時間ないみたいだし」
安藤さんの言葉に、桜庭さんがパッと身を乗り出した。
「井方先輩、料理できるんですか……」
目を爛々と輝かせる彼女に、安藤さんはおっとりと頷く。
「サツキ君はカップ焼きそばがすごく上手なんだよ」
いつもよりも滑らかに彼女はそう言うと、硬直した桜庭さんに笑い掛ける。
――カップ焼きそばは料理とは言わない……!!
そう言いたかったものの、妙に嬉しそうな安藤さんに向かってそんなことを言うこともできず、私は保健医さんを振り返った。
既にツボに入ってしまっていた保健医さんは考え込むように手を額に当て、笑いを隠していた。
「あ、安藤先輩の得意料理は何ですか……」
言葉に詰まりながら桜庭さんが訊ねると、安藤さんは笑顔のまま「ビーフシチューとか」と答える。
まともな料理が作れるのに、どうして井方君の料理に寛大なのだろうかと少しだけ疑問には思ったものの、なんだか少しだけ気持ちが和んだ。