昼過ぎ、手提げ籠と桶を持って私は家を出た。
 パンを焼くための粉やお菓子を作るための砂糖は使っても、どういう訳か気づけば貯蔵庫に補充されているのだけれど、果物や野菜はそういう訳にもいかないらしい。おばあちゃんは大きな身体に見合った量を食べるし、私は多分食が細い方だとは思うけれど、アドネも意外とよく食べる方らしいので今日はいつもよりたくさん持って帰ろうと思う。
 森に行くのは昼過ぎくらいが一番丁度良い。怪物たちは昼寝をしている時間帯で滅多に会うことはないから。別に会ってもそんなに問題はないのだけれど、私はどうも彼らを好きにはなれない。嫌いという訳でもないけれど、食べられてしまう可能性がほんの少しあるだけで、彼らに対して心の底で恐怖感を抱いているのかもしれない。優しげな、目尻の垂れ下がった目だけは本当に好ましいと思えるけれど。
 森に入るとまず足元に生えていた黒酸塊を摘み籠に放り込んでいく。これを漬けたお酒はおばあちゃんの大好物だ。顔を上げると大きな木には鮮やかな赤色をした柘榴が生っていた。
 相変わらず、なんて出鱈目な森なんだろう。近くに住む身としてはとてもありがたいのだけれど、この森ではどんな花も一年中咲き誇り、実も一年を通して生っているのだ。おばあちゃんが言うには、この森全体がそうというわけではない様だけれど、私にとってのこの森は年中色とりどりだ。
 木に登り柘榴の実を三つ摘む。割ると中からは赤い宝石の様な細かな実がたくさん出てくる。アドネが見たらきっと驚くだろう。そのまま食べるのもいいけれど、これは飲み物にする。
 その森はとても良い所なのだと、私がまだ小さかった頃におばあちゃんは言った。私は御伽噺を聞く気分でいつもその森の風景を思い浮かべていた。森に住む怪物は恐ろしくて臆病もの。木には年中丸々としたよく香る実が生り、たくさんの動物たちが棲む楽園の様な場所。
 アドネはどうしてそんな森に一人血を流して倒れていたのだろう。昨日彼女が倒れていた場所には血の跡が残っていた。私はそれから目を逸らす。
 森を暫く歩くと、境目がある。それが何なのか訊かれると私は答えることができないのだけれど、確かにそれは存在する。空気が変わる場所。先には変わらず森が続いているけれど、おばあちゃんは私にいつもそれ以上は進んではいけないよと言う。アドネは、きっとこの先からやって来たのだ。
 足元に生えた菜を摘みながらぼんやりとそんなことを考えていると、後ろで草木が揺れる音がした。私は思わず手を震わせる。振り向かなくても後ろに何がいるのか分かった。アミルカレだ。
 突然の出現に湧いた動揺を抑え、何でもない風を装ってゆっくりと後ろを振り返ると、木の陰に隠れる様にして一匹のアミルカレが此方の様子を伺っていた。もっとも、木の幹よりも大きなその体は全然隠れていない。頭の天辺から短く生えた足元まで茶色の毛で覆い尽くされているけれど、ぺしゃんこの鼻と大きな口、垂れ下がった優しげな目がなんだか少し情けない顔になっている。手には長い爪が四本生えていて、開けば口の中にも大きな尖った歯があることを私は知っている。
 彼らは此方が何もしない限りはあまり近づいてくることもないし、ましてや襲ってくることもない。おばあちゃんは彼らのことを心優しい森の主と呼ぶけれど、やっぱり私はおばあちゃんの様に彼らを愛すことはできさそうだ。姿を見る度、近くにいると知る度に小さな恐怖が体の中で燻るのだから。
 今日は早く引き上げよう。近づいてこないことは知っているけれど、見られながら気ままに果物や菜を採取できる程私は気が大きくない。
 けしてそんな素振りは見せないけれど、逃げる様に歩き出すと、後ろの気配も動き出す。臆病な彼らは一度目にした私がどんな動きをするのか気になって仕方が無いのだろう。付いて来ている。
 草や枝を踏み鳴らす音が静かな森に響く。それに混じって、轟きの様な低い、微かな声が聞こえた。私の名前を呼ぶ声。私は振り向かない。立ち止まることはしない。
 呼ばないで。そう思うけれど、声を出すことのできない私は必死で聞こえないふりをして歩き続けた。