次の日、私は朝日が昇る前に目を覚ますと、隣りで寝ているアドネを起こさない様に気をつけながら寝台を抜け出し、真っ先に台所へ向かった。台所には直接手押し式の深井戸が設置されているから、寒い時間帯に外に出なくて済むのはなによりありがたいことだ。今日の献立を考えながら暖炉と竈に火を点け、押し上げた水を桶に入れ薬缶に掬い入れる。服が汚れない様に前掛けを被り納戸を開けて、壁一面にある木棚にずらりと並んだ大小様々の硝子瓶を眺めた。それらの中には砂糖やお酒に漬けた果物や野菜が入っている。七日前に砂糖で漬けたテラッタの実がいい感じになってきている。そろそろ食べ頃だ。朝食の後にみんなで食べようと思い、その瓶を出しておいた。
此処へ来る前は苦手だった早起きも、最近では当たり前のことになっていた。誰に起こされることがなくても、どういう訳か日が昇る少し前に目が覚める。寝ぼけてはいても、一度目が覚めると殆ど無意識の様に寝台から這い上がり台所に足が向く。この規則正しさは大切なことだ。
私よりも早起きなおばあちゃんは、多分今頃森の中にある小さな畑の世話に出ている。猫の額ほどの小さなその畑は、森の住民である怪物のアミルカレに許しを貰い借りている土地だ。毛むくじゃらの大きな体をした彼らは、思いの外気が弱く滅多に人前に出てくることはないけれど、肉食だから一歩間違えば私達の捕食者にもなる。昨日、気を失ったアドネを放っておけなかった理由はそれだ。
大きな木の板の上で生地を捏ねていると、夜明けを告げる鳥の鳴き声が聞こえてきた。昨日も一昨日も聞き、見た光景だ。今日も繰り返しの日が来るけれど、いつもとは少し違う。昨日までおばあちゃんと私の二人っきりが当たり前だったこの家に、今はアドネがいる。そう思うと、なんだか気分がうきうきとしてきて、生地を捏ねる手に力が入った。
アドネが目を覚ましたのは、昼前のことだった。
本人が割と平然とした顔をしていたから忘れかけていたけれど、彼女は昨日酷い怪我を負ったばかりなのだ。おばあちゃんが治したとはいえ、体力は大分と消耗しているのだろう。けれど、だからこそ何か口にした方がいい。
私は木の盆に温めなおしたパンとスープ、温野菜と砂糖漬けにしていた果物を載せると自分の部屋に運んだ。寝台横の小棚にそれを置き、寝台の上に埋もれる様にして眠っているアドネの顔を覗き込む。長い睫はくるんと巻いていて、愛らしい。私もこれくらい睫が長かったら嬉しいのだけど、無いもの強請りはしても仕方が無い。私は小さく息を吐くと、声を掛ける代わりに肩を揺さぶった。ゆさゆさと揺らされて、綺麗な眉が顰められる。小さく唸る声がしたけれど、目を覚ます気配はない。もしかすると、元々寝起きはあまりよくない方なのだろうか。貴族の様な身なりをしていたから、昼頃起きてという生活をしていたのかもしれない。
「……ジョヴァンニ」
寝言なのか、アドネはか細い声で呟いた。恋人の名前だろうか。
私はなんとなく身震いして、もう一度彼女の肩を揺らした。ゆっくりと覗く紫色の瞳に、ほっとする。
アドネは寝惚けているのか、一瞬私が誰なのか此処が何処なのかも解らなかった様で、視線を彷徨わせたあと、微かに動揺を含ませた声で私の名前を呟いた。そうそうヘンリエッタだよ、という風に私は頷く。
「そうか、此処は魔女の家だったね」
そう言って自分の胸元を見下ろしたアドネは、片手で顔を覆い溜息を吐いた。
一体なんだというのだろう。大丈夫? と言う風に服の裾を引くと、アドネは顔を上げまた困った様に微笑んだ。
「大丈夫だよ。ありがとう、ヘンリエッタ」
大丈夫ならいいんだけど。
私は頷くと小棚に置いていたお盆をアドネに差し出した。食欲はあるのだろうか。なくても食べてもらわないと困る。アドネはまたお礼を言ってきて、盆の上に載っている木の匙に手を伸ばした。私はその横で彼女の一挙一動を見守る。おばあちゃん以外が食事をするのを見るのは久しぶりだから、気になってしょうがないのだ。
アドネは木の匙を掴んだかと思うと、顔を顰めて匙を取り落とした。
彼女の指には包帯が巻かれていている。おばあちゃんは本当に酷かった傷だけを治して細かな傷はそのままにしておいた様だ。大きな傷を治すのに体力を随分削ってしまったであろう彼女は、そうしないと今頃身体を起こすのも辛いはずだから。けれど手についた傷もけして浅いものではなかったのだろう。食事の後、塗り薬を持ってきてあげないと。
また匙を取ろうとしたアドネよりも先に、私がそれを取ってスープを掬った。そのまま彼女の口元にそれを持っていく。そんなこと予想もしていなかったのか、アドネは目をきょとんとさせ、固まった様に暫く動かなくなってしまった。
食べて、と言いたかったが言えないから態度で示すしかない。持っていた匙をスープが零れない程度に揺らすと、アドネは目を覚ました様にぱちくりさせた。
「いいよ、自分で食べるよ」
食べることが出来なさそうだから、こうして変わりに口元まで運んでいるのだけど。ああ、喋れないって面倒くさい。
私は思わずむっとして首を横に振った。アドネにむっとした訳ではないのだけれど、彼女は観念した様に口を開いた。
此処へ来る前は苦手だった早起きも、最近では当たり前のことになっていた。誰に起こされることがなくても、どういう訳か日が昇る少し前に目が覚める。寝ぼけてはいても、一度目が覚めると殆ど無意識の様に寝台から這い上がり台所に足が向く。この規則正しさは大切なことだ。
私よりも早起きなおばあちゃんは、多分今頃森の中にある小さな畑の世話に出ている。猫の額ほどの小さなその畑は、森の住民である怪物のアミルカレに許しを貰い借りている土地だ。毛むくじゃらの大きな体をした彼らは、思いの外気が弱く滅多に人前に出てくることはないけれど、肉食だから一歩間違えば私達の捕食者にもなる。昨日、気を失ったアドネを放っておけなかった理由はそれだ。
大きな木の板の上で生地を捏ねていると、夜明けを告げる鳥の鳴き声が聞こえてきた。昨日も一昨日も聞き、見た光景だ。今日も繰り返しの日が来るけれど、いつもとは少し違う。昨日までおばあちゃんと私の二人っきりが当たり前だったこの家に、今はアドネがいる。そう思うと、なんだか気分がうきうきとしてきて、生地を捏ねる手に力が入った。
アドネが目を覚ましたのは、昼前のことだった。
本人が割と平然とした顔をしていたから忘れかけていたけれど、彼女は昨日酷い怪我を負ったばかりなのだ。おばあちゃんが治したとはいえ、体力は大分と消耗しているのだろう。けれど、だからこそ何か口にした方がいい。
私は木の盆に温めなおしたパンとスープ、温野菜と砂糖漬けにしていた果物を載せると自分の部屋に運んだ。寝台横の小棚にそれを置き、寝台の上に埋もれる様にして眠っているアドネの顔を覗き込む。長い睫はくるんと巻いていて、愛らしい。私もこれくらい睫が長かったら嬉しいのだけど、無いもの強請りはしても仕方が無い。私は小さく息を吐くと、声を掛ける代わりに肩を揺さぶった。ゆさゆさと揺らされて、綺麗な眉が顰められる。小さく唸る声がしたけれど、目を覚ます気配はない。もしかすると、元々寝起きはあまりよくない方なのだろうか。貴族の様な身なりをしていたから、昼頃起きてという生活をしていたのかもしれない。
「……ジョヴァンニ」
寝言なのか、アドネはか細い声で呟いた。恋人の名前だろうか。
私はなんとなく身震いして、もう一度彼女の肩を揺らした。ゆっくりと覗く紫色の瞳に、ほっとする。
アドネは寝惚けているのか、一瞬私が誰なのか此処が何処なのかも解らなかった様で、視線を彷徨わせたあと、微かに動揺を含ませた声で私の名前を呟いた。そうそうヘンリエッタだよ、という風に私は頷く。
「そうか、此処は魔女の家だったね」
そう言って自分の胸元を見下ろしたアドネは、片手で顔を覆い溜息を吐いた。
一体なんだというのだろう。大丈夫? と言う風に服の裾を引くと、アドネは顔を上げまた困った様に微笑んだ。
「大丈夫だよ。ありがとう、ヘンリエッタ」
大丈夫ならいいんだけど。
私は頷くと小棚に置いていたお盆をアドネに差し出した。食欲はあるのだろうか。なくても食べてもらわないと困る。アドネはまたお礼を言ってきて、盆の上に載っている木の匙に手を伸ばした。私はその横で彼女の一挙一動を見守る。おばあちゃん以外が食事をするのを見るのは久しぶりだから、気になってしょうがないのだ。
アドネは木の匙を掴んだかと思うと、顔を顰めて匙を取り落とした。
彼女の指には包帯が巻かれていている。おばあちゃんは本当に酷かった傷だけを治して細かな傷はそのままにしておいた様だ。大きな傷を治すのに体力を随分削ってしまったであろう彼女は、そうしないと今頃身体を起こすのも辛いはずだから。けれど手についた傷もけして浅いものではなかったのだろう。食事の後、塗り薬を持ってきてあげないと。
また匙を取ろうとしたアドネよりも先に、私がそれを取ってスープを掬った。そのまま彼女の口元にそれを持っていく。そんなこと予想もしていなかったのか、アドネは目をきょとんとさせ、固まった様に暫く動かなくなってしまった。
食べて、と言いたかったが言えないから態度で示すしかない。持っていた匙をスープが零れない程度に揺らすと、アドネは目を覚ました様にぱちくりさせた。
「いいよ、自分で食べるよ」
食べることが出来なさそうだから、こうして変わりに口元まで運んでいるのだけど。ああ、喋れないって面倒くさい。
私は思わずむっとして首を横に振った。アドネにむっとした訳ではないのだけれど、彼女は観念した様に口を開いた。