具が焦げない様に長い木匙で鍋底をかき回すと、ふんわりと良い香りが漂ってきた。大窯からも良いパンの香りがしてくる。調度良い頃合いだ。出かける前にパンを焼き始めていたのだけど、焦げる前に帰って来れてよかった。もちろん、人を拾いなんてしなければその心配もなかったのだけど。
 わたし用の木のお盆に小さな食器を載せる。此処には大きな食器とわたし用の食器しかなく、お客さんなど滅多に訪ねてくることなんかないから仕方が無い。丸い木の器にスープを注ぎ、円い陶磁器の皿に焼きたてのパンを載せる。棚から先日煮たばかりの果実の入った硝子瓶と小さな木の匙を取り出し、それも盆に置いた。重くなった盆を両手で持ち、少し緊張しながら台所を後にした。何しろおばあちゃん以外の人の顔を合わすこと自体久しぶりなのだから、挨拶の仕方を忘れかけてしまっている。まずは声を出せないことを知ってもらう必要がある。黙り込んでいると相手も気分がよくはないだろうから。
 一応扉を叩いてから開けると、思っていた通り先ほど拾われてきた子は目を覚ましていた。おばあちゃんが運んだのか、長椅子の上で身体を起こしているところだった。けど、わたしはその姿を見て思わず大きく首を傾げてしまった。
「やあ、君が助けてくれたんだってね。ありがとう」
 困った様に微笑みながら言ったその子の髪は肩下まであった。先ほどまで襟足は少し長いけれどそんなに髪は長くなかったはず。あれは鬘だったのだろうか。だったらどうしてそんなもの付けていたのだろう。先ほど見た鬘であろう羊色の髪と長い髪は同じ色だ。目は澄んだ紫色。髪のせいか、目を始めて見たからか、思っていた雰囲気とは随分違う。
 声が出ないのと言う風に、わたしは咽を指差し口をぱくぱくと動かした。それだけで彼は察してくれたらしい。少し驚いた様な顔をした後、微笑み小さく頷いてくれた。
「私はアドネ」
 やっぱり違和感。なんだろう。
 わたしは手に盆を持ったまま、すたすたとおばあちゃんの前を通り過ぎ、円卓に盆を置くと彼のもとにしゃがみ込んだ。包帯を巻かれた胸元を見てぎょっとする。胸がある。彼だと思っていたこの子は、彼女だったのだ。
 それが分かった途端、わたしは彼女を引き摺って歩いたことを後悔した。綺麗な顔に掠り傷を作ってしまっても別にそれくらいと思ったのは、彼女が男の子だと思っていたからだ。頬についた傷も急に痛々しいものに見えて、わたしは思わず手を伸ばした。殆ど無意識だったわたしの行動に、彼女は驚いた様に目を大きくした。
「ヘンリエッタ、彼女は此処で暫く暮らすことになった。傷はまあ大丈夫だろうけど、まだ動くのは辛いだろうから世話をしてやりなさい」
 その声にわたしは手を止め頷いた。先ほどまでの緊張はどこへやら。わたしは胸を高鳴らせていた。久しぶりに会う同じくらいの大きさの人で、しかも同世代の女の子だ。もしかすると友達になれるかもしれない。
「君はヘンリエッタっていうの? 宜しくね」
 差し出された手をわたしは両手で握り締めた。それにも驚かれた様で、アドネは目を円くしたあとにそれは綺麗に微笑んだ。