泉の水を飲んではいけないよと、母はいつも言っていた。
 私達兄妹は、幼いながらにその森の中にある泉が普通ではないことくらい気付いていた。決定的だったのは、近くの町が戦火にあった時だった。森を兄に手を引かれながら歩いていると、泉は赤く、まるで血の様な色に染まっていたのだ。けれどそれも次の日には元の澄んだ水に戻っていた。
 泉の伝承を知ったのは、五歳の時のことだった。森を通りがかった一人の詩人(うたびと)が、私と兄の話を聞くなり興奮気味に語り出したのだ。
 それは魔法の泉だと。その泉の水を飲めば、ある者は年老い、ある者は若返る。そして、時たまその者の願いを叶えるのだと。遠い昔にその泉の水を飲んだ若者が、叶わない筈だった恋を叶えたこともあったのだという。
「詩人の話しは本当だと思う?」
「彼らは総じて愉快な嘘吐きなんだよ。人を愉しませる為に嘘を吐く」
 私の質問に兄はいつもの柔らかな笑みを浮かべて返した。
 兄の言葉はいつも正確で、間違いがあったことなどない。彼の言葉は私にとって絶対だった。けれど、その嘘吐きの言葉も強く心に響いたのだ。願いを叶えてくれる魔法の泉。なんて空想的で甘美な響きなのだろう。
 それでも、私は決して泉の水を飲もうとはしなかった。やはり泉の水は私にとって得体の知れないもののままで、母の言葉も絶対だったから。