超えられない一線

次の日。

由香から電話がかかってきた。

『沙羅!田宮を見かけたって奴がいるんだけど、あんた何か聞いてる?』
「うん、聞いてるって言うより会ったから」
『会ったって・・・誰に?』
「だから東吾に」
『・・・・あんた!なに冷静に言ってんのよ!!』

思わず携帯を耳から遠ざけてしまう程の声が飛んできた。
携帯から漏れ響いた由香の声に同僚達が何事かと私を見た。

「由香、私まだ仕事中だから切るね」
『ちょっと!あんたね!』
「ごめん・・・由香。今度、会ってゆっくり話すから」
『・・・わかったわよ』

由香はしぶしぶ電話を切った。


本当はほとんどの仕事は終えていたから、あのままオフィスを出て由香と話す事は出来た。
でも、今の状況をいちから人に話す気分になれなかった。
人に話して、あれこれと言われるのが嫌だった。
東吾が生きている事が分かっても、私の生活は今までと何ら変わりはないのだから。

携帯をバッグに仕舞うと、急ぎもしない仕事に手をつけた。


7時をまわり、オフィスに残っているのも私しかいなくなっていた。

(お腹空いてきたし、そろそろ帰ろうかな)

私も漸く帰り支度をしてオフィスを出た。
エントランスを抜け、玄関を出たところに人影があった。
何気なくその人影に目をやると、それは景だった。

「えっ?景?!なんで?いつからいたの?」
「そうだな・・・かれこれ1時間くらい前かな?」
「1時間?!」

この寒空の下、1時間も待っていたなんて・・・・。
私は自分のしていたマフラーを景の首に巻きながら言った。

「電話くれたら良かったのに!」
「いや・・・仕事してたんだろ?今日は約束もしてなかったし、待つ覚悟で来たから」
「仕事なんていつでもいいのをやってただけだから」

私の答えに景はすっと真剣な顔をした。
そして私の頬に手を添えて言った。

「それは家に帰りたくないから?というより考えたくないからか?」

景は、あえて何について考えたくないのか言わなかった。
だけど景からは何か探るような視線が私を突き刺していた。
私は景から視線を逸らせて答えた。

「そんなんじゃない。ただ仕事を溜めておきたくなかっただけ」
「・・・そうか」

ふたりの間にキグシャクした空気が流れていた。
私はその流れを変えるように明るい声で言った。

「それより景!私、お腹すいた!何か食べに行こう」
「そうだな。こんな時間だもんな」

表情を緩めた景を見て私もほっとした。
景は私の肩を抱いて歩き始めた。
そして思い出したように言った。

「そう言えばまだ言ってなかった。仕事、お疲れ様」

景の言葉に心がほっと温かくなるのを感じた。

「景も、お疲れ様」

景と寄り添う様に歩いた。




この人と歩んで行こう。
そう決めたのは間違いじゃなかった。
そう思えた瞬間だった。